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2011年撮影(写真工房坂本)

[戦後70年]核のない世界に向けて 「原爆許すまじ」―医師・肥田舜太郎さん

  • 環境と平和

70年前、広島、長崎に投下された原子爆弾。人類が生み出した最も残虐で非人道的な兵器は、一瞬にして何万人もの命を奪い、今も人々を苦しめ続けています。「同じ苦しみを、二度と誰にも味わわせてはならない」と、自らの壮絶な体験を語り継ぐ被爆者たち。7月26日に開催された「被爆70周年第30回埼玉県原爆死没者慰霊式(主催:埼玉県原爆被害者協議会)」のシンポジウムで、"最後の被爆医師"肥田舜太郎さんら3人が、原爆被害の"実相"を語りました。核も戦争もない世界の実現のために、私たちは被爆者の声を受け止めて、これからをどう生きていけばよいのでしょうか。

※被爆された方の実体験をできるだけそのまま表現しているため、記事中にリアルな描写を含んでいます。

「病院にいた1,700人中、生き残ったのは3人だけ」

――「埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)」の名誉会長、肥田舜太郎さんは、現在98歳。軍医として広島の陸軍病院に勤務し、自らも被爆した肥田さんは、一方で、今日まで6,000人にものぼる被爆者を治療してきた、被爆者にとっていわば支えともいえる存在です。1953年に埼玉県に移り住み、しらさぎ会の立上げにも尽力。現在は名誉会長を務めています。

肥田 私は28歳の時に、広島の陸軍病院の軍医に召集されました。当時、日本中の都市が米軍の飛行機に爆弾を落とされていたのに、広島だけは毎日のように敵の飛行機が空中を巡りながら、1回も空襲がなかった。日に何度も警報が鳴るのに、爆弾は落ちてこなかったんです。

 広島の人たちはのんきなのか、「広島には宮島の神様がついているから安全じゃ」なんて言っていたのですが、今考えると、アメリカは原爆を落とす場所として広島を残しておいたんですね。

 それが、あの日、原爆が落とされた。

 あのとき病院にいたら、私も助からなかったでしょうね。患者1,000人のほかに職員が670人くらいいたのですが、生きて残ったのはたった3人だけでした。私が助かったのは、6日の夜中2時頃に子どもの急患があって、広島から7kmほど離れた戸坂村に往診に行っていたからです。

 私のいた場所から、ちょうど飛行機が広島に入っていくのが見えたんですよ。原爆が落ちたとき、広島の空が真っ赤に染まった。あんな光景、生まれて初めてみました。青空に火の輪ができているんです。それが消えてしばらくしたら、ものすごくまぶしい光が見えて目がくらんだ。それが爆発した時の燭光(しゃっこう)ですね。で、しばらくして、爆風が襲ってきた。7km離れた村の私がいた家のなかを吹き抜けて、天井を拭き飛ばし、家が半分倒れました。

 夏だから腕が出る格好をしていたのですが、出ているところがものすごく熱かった。焼けた、と思いましたが、後で見たらやけどにはなっていませんでした。

 そのうちに、おおぜいの人が、太田川の堤防の上を広島から7km、命がけで逃げてきたんです。よろよろしながら逃げてくるその上半身は全部やけどです。服もすべてとれちゃって、全部裸。前からやられた人は腹のほうが全部やけど、後ろからやられた人は背中側が全部やけど...。

 それが、私が見た最初の被爆者です。

 みんな私のところまで来て、よろよろ倒れてくる。脈を測ろうと親指の付け根に触ろうとしたけれど、触るところがないんですよ。私は最初ボロが下がっていると思った。でも、私がボロだと思ったのは、はがれてぶらさがった人間の生っ皮でした。

 逃げてくる人がみんな全部焼けていて、皮膚がぶら下がっている。なんでこんな風になるのか理屈でわからない。それで初めて、広島で大変なことが起こっていると認識したのです。

「紫色の斑点が出て、このまま死んでいくのかと...」

――しらさぎ会の元会長、堀田シヅヱさんは、現在95歳。看護師だった堀田さんは、広島市の原爆投下直後から、急ごしらえの救護所で大勢の被爆者の手当に追われます。その後、夫の故郷である埼玉で養護教諭として学校に勤務し、退職後は平和の語り部の活動を続けています。

堀田 原爆が落とされた時、私は、爆心地から6.5kmの女性の家にビタミン注射を打ちに行っていました。町役場で保健婦をしていたんです。「ピカッ」と光り、直後に「ドン」という大きな音がしました。白い雲を見て、何だろうと思いながら自転車を押して役場に向かいました。役場でも、町長も収入役も「何があったんだ」って慌てているばかりで何もわからない。そのうちに、道路を頭の毛がボウボウになっている人たちがどんどん歩いてきたのです。

 何があったのか尋ねても、「何か知らないけれど、突然熱い風が吹いてきて火事になったから、逃げてきました」と言う。これは大変だ、と小学校の講堂に急きょ、救護所を作りました。まだ9時くらいでしたね。どんどん人が逃げてきて、100人くらいにもなりました。最初はただ赤かったところが2時間もすると水泡になってきた。針で水を抜いて、チンク油をガーゼに塗って手当しました。

 午後2時頃になると、爆心地から500mぐらいの場所で被爆した兵隊さんが大勢トラックで運ばれてきた。当時、広島市には輜重(しちょう)兵第5連隊、歩兵第11連隊がありました。半分は死んでいましたね。体育館はいっぱいで入れないから、運動場に干し草を敷いて、死んでいる人も生きている人もみんな寝かせました。

 私は戦争が始まってから中国・済南市の陸軍病院に7年間勤務し、戦地で傷病兵の看病にあたっていましたが、この救護所に運ばれてきた人たちのような症状は戦地でも見たことがありませんでした。どこかで包帯をしてもらってきたおじいちゃんがいて、2日目に包帯を取ったら、折れた骨が傷口からのぞいているんですよ。そして、取った包帯の中からコロコロしたウジ虫が出る。生きている人からウジ虫が出るなんて見たことない。どういうことだろうって、驚きました。

 8月23日には、私自身も腕と大腿部の一部に紫色の斑点が出てきて、このまま死んでいくのかと不安になりました。救護所でも班点が出て次々亡くなっていく人がいましたから。幸い発疹は治療できたのですが、後になって血液が大変薄いといわれ、心配したこともありました。

 その頃、まだ放射能のことなんて何も知らなかった。ただ、70年は人が住めない、草も木も生えないそうだとみんなが言っていましたね。

「この手で身内を荼毘(だび)に付した悲しみは忘れられません」

――しらさぎ会の現会長、田中熙巳さんは、現在83歳。70年代から被爆者運動に携わり、2000年からは日本原水爆被害者団体協議会(被団協)事務局長も務めています。

田中 私は、原爆が投下された時は中学1年生でした。その年の6月に沖縄戦で負けたあとで、いよいよ九州に上陸してくるだろうと、長崎でもアメリカ軍を迎え撃つ準備をしていたんです。8月6日の広島のことは、「特殊爆弾が投下された」という程度の情報しか伝わってこなかった。9日は、朝から空襲警報が鳴っていたので、私は学校には行かずに、爆心地から3.2kmのところにある自宅で本を読んでいました。

 突然爆音が聞こえてきて、しばらくすると体のまわり全体が真っ白になるようなものすごい光に包まれたんです。気を失って伏せっているときに爆風がやってきて、大きなガラス戸を2、3枚吹き飛ばし、私の上に覆いかぶさったようです。おふくろが私の名前を一所懸命呼ぶのに気がついて、起き上がったら、奇跡的に私の上にかぶさっていたガラス戸の窓ガラスは1枚も割れていなかった。いまでも奇跡だと思っています。

 私の家族は助かったのですが、残念ながら、爆心地から500mと700mのところに家があった伯母たちは亡くなりました。3日目に伯母たちの家にたどり着くと、伯母と従兄が真っ黒焦げになって転がっていました。もう一人の伯母の家は燃えていなかったのですが、おばさん自身は大やけどをして、私が行く直前に亡くなっていました。

 その伯母を私たちの手で荼毘(だび)に付したのです。自分の身内を目の前で焼くという、今考えても大変に辛い経験でした。そこに行くまでに何百人という死体を見、何百人というまだ治療を受けていない負傷者を見、黒焦げの伯母たちの遺体や祖父がけがをしているところを見ても何の感情も沸かなかったのですが、焼き終った後、伯母の骨を見たときに、初めて悲しみがどっと湧き出てきたのを今も覚えています。結局、原爆投下から2週間のうちに、5人の身内が私の手から奪われてしまったんです。

 一人だけ、女学生だった従姉が奇跡的に助かりました。下半身は不自由になったものの、その後、原爆症を克服して81歳まで生きました。最後は、放射線の影響で染色体がボロボロになってしまって急性白血病で亡くなりましたが、亡くなる直前まで病室から出かけて行って、修学旅行で長崎に来る学生さんたちに証言をしていました。今思い起こしても、けなげな従姉でした。

「本当に怖いのは、内部被曝。長い時間かけて命を奪うのです」

――原爆投下直後から現在まで、被爆者に寄り添いながら治療にあたってきた肥田さん。その臨床経験から、原爆の本質的な脅威とは、広範囲に降り注いだ残留放射線が、人体に入り込んで長年にわたって遺伝子を傷つけ続ける「内部被曝」にこそある、と訴え続けてきました。

肥田 戸坂村で診察していくうちに「おかしいな」と思ったのは、すぐに亡くなる人と、しばらく時間がたってから亡くなる人との2種類があることでした。

 ふつう、"被爆者"と聞くと、熱線によって大やけどを負ったケロイド状の皮膚を思い浮かべる人が多いと思いますが、これは「外部被爆」と呼ばれるものなんです。そうでなく、戸坂村で診ていた患者のなかには、「わしはピカにはあっとらん」と言って、やけども負っていないように見えるのに、急に高熱が出て、扁桃腺が壊死して真っ黒になり、全身から出血し、髪の毛は抜け...最後は血を吐きながら亡くなっていく人がいたのです。

 もっと驚いたのは、直接被爆せず後から親族を捜して広島にやってきた人のなかにも、同じ症状で亡くなる人が出始めたこと。何の病気かもわからず、手の施しようもない。そのときには原爆と結びつけて考えられなかったのですが、これは、体のなかに入り込んだ放射線の影響による「内部被曝」だったのです。

 当時、内部被曝に関する情報はほとんどなく、日本の多くの医師は、「微量の放射線ならば病気を起こさない」というアメリカの説明を信じ込んでいました。広島と長崎の被爆者の受けた健康被害はアメリカの軍事機密に指定され、本人や医療関係者に対しては箝口令(かんこうれい:ほかの人に話してはいけないという命令)がしかれた。アメリカが日本にしたことのなかでも私が一番許せないのがこれです。

 われわれが集めた治療データもすべて没収されてしまいました。当時は占領軍が支配していて、背いたら「厳罰に処す」とされていましたから、みんな黙って従うほかなかったんです。診察すること自体も「反米活動」と見なされ、私は逆らって3回も占領軍に拘留されました。

 アメリカは被爆の実相を隠ぺいしようとし、日本政府はアメリカに追随して、被爆に苦しむ人たちを切り捨ててきた。そのため、根拠のない差別に苦しみ、病気を相談できる場もなくこっそりと亡くなっていった被爆者がたくさんいました。

 体のなかに入った放射線はどんなに微量でも細胞を傷つけ、それが修復できないことがある。がんや白血病などさまざまな病気を引き起こし、何年たっても被爆者を死に追いやる可能性がある。

 放射線の影響は目に見えにくいし、疾病との因果関係はわかりにくいものです。が、何千人もの患者を診てきた自分の経験と、圧力に屈せずに内部被曝についての調査にあたっているアメリカの研究者たちとの出会いもあり、被爆後の原因不明の疾患は内部被曝によるものだと私は確信しました。

 原爆の本命は、放射線なんです。やけどや熱や爆風でも人を殺しますけれど、水、大気、土壌と至るところに広範囲に降り注ぎ、人体に入り込んで長年にわたって遺伝子を傷つけ続ける。放射線で長い時間をかけて人間を殺すというのが、あの爆弾の本命です。

「核廃絶は人類全体の課題。あなたも、明日の語り部になってください」

――全国、あるいは海外に移り住んだ多くの原爆被爆者たちは、7年間の占領下で苦しみ続け、10年余りたってからそれぞれの地域で被爆者団体を立ち上げました。核廃絶を訴え、原爆被害に対する補償を求める活動や被爆体験の伝承に取り組んでいますが、被爆者の高齢化も進み、原爆がもたらした地獄のような惨状とその後に続く多くの被爆者の苦しみの実態をどうやって後世に伝えていくのかが大きな課題になっています。

田中 私は、原爆の悲惨な状況と、核兵器を絶対に作らせてはいけないというメッセージは、おおげさな言い方かもしれないけれど、人類が生存する限り、語り継いでいかねばならないことだと思っています。たとえ核兵器が世界からなくなっても、語り継いでいかねばならない。

というのも、人類はもう、核兵器を一度は生み出してしまったのですから。今は核兵器がなくても、争いが起こったとき、それでも絶対に誰も核兵器を作らないという保証はない。だからこそ今、核兵器をなくすことが先決ですが、核兵器が完全に廃絶されたとしても、作ってはいけない、使ってはいけないということを、人類の課題として必ずずっと伝えていかねばならないのです。

堀田 私がいま悲しいのは、最近になって学校へ呼ばれる機会がものすごく減っていることです。かつては、長崎や広島への修学旅行の前には事前学習として必ず呼ばれていたんですよ。それが、今はほとんど呼ばれることがない。ある高校では、校長先生が替わった途端、「もう来年からはお呼びしませんから」と一方的に言われてしまいました。「まだ平和学習は早いので...」と、それまで続けてきた「語る会」が廃止になってしまった小学校もあります。

伝える場がどんどん減っていることが、とても悲しいですね。私だけでなく、一般の被爆者もどんどん話をしてほしい。学校もどんどん私たちを呼んでほしいですね。

田中 「しらさぎ会」も、平均年齢は80歳です。残念ながら私たち被爆者は、もうそれほど長くは生きていられません。いずれにしてもいつかは直接の被爆体験者はいなくなります。ですから、これからの世代の方たちに、ぜひ被爆者の声を、魂の叫びみたいなものを受け取っていただき、それを伝えていっていただきたい。
ぜひ、明日の語り部になってください。

※本記事は、「埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)」のシンポジウム「核兵器とは共存できない」(2015年7月26日開催、聞き手:斉藤とも子さん)より構成しました。

取材協力/埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会) 取材・文/高山ゆみこ 撮影・構成/編集部