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戦争と笑いの記憶 「平和だからこそ、人は笑える」―落語家・桂歌丸さん

  • 環境と平和

2016年4月、惜しまれつつ『笑点』(日本テレビ系)の司会を卒業した桂歌丸さん。しかし、笑いと芸への探求心は、老いてますます盛んで、高座に上がり、後進の育成にあたる。「平和だからこそ、人は笑える。では、笑いとは?」。平和な今の時代に“歌丸師匠”があえて語る、わが芸、わが笑いとは――。

※2018年7月2日、惜しまれつつ亡くなられた。(2018年8月2日追記)

焼け野原でも、故郷へ戻れてうれしかった

――1936年、横浜に生まれた歌丸さんは、戦時中のことを、よくご存じだと思います。当時の思い出から、まずお聞かせください。

歌丸 「よくご存じだと思います」って、そんなに古い人間じゃ、ありませんよ。玉音放送は聴いていますけどね(笑)。戦時中は、千葉にあるおふくろの実家へ疎開してまして、爆弾がドンドン落とされるなかを、逃げ回ったという経験はありません。ただ、空襲警報で防空壕には入りましたし、学校の帰りに敵の飛行機が低空で飛んでいるのを、目の前で見ています。

 とにかく、疎開しているのが嫌でしたね。千葉の山の中でしょ。私は“ハマのモダンボーイ”ですから(笑)。頭は「ぼっちゃん刈り」でしたが、田舎の子どもは坊主だから、疎開してきた私たちを、バカにするわけですよ。学校の指導だか、なんだか知らないけど、すぐ坊主にさせられました。

戦時中について語る歌丸さん。ユーモアのある話のなかに、平和の願いを込めた

 忘れもしません、1945年5月29日の昼、横浜大空襲です。千葉の小高い山の上から、故郷が燃えている光景を見ました。すごく寂しい気持ちになりました。終戦を迎えたのも千葉で、当時は国民学校の2年生のときかな。戦争が終わって、とにかくホッとしました。「これで横浜に帰れる」と。祖母がすぐ迎えに来てくれて、横浜にある祖母の自宅に戻りました。

 私は、おばあちゃん子だったんです。 横浜は焼け野原で、祖母が焼けたトタンを集めて、バラックをこしらえて、2人でそこに住みました。祖母はたくましい人で、そこで商売を始めたんです。

お花見が防空演習に……。笑うに笑えませんや

――戦時中の不自由な時代、庶民の笑いは、どんなものだったんでしょうか? 軍部や警察が、庶民の笑いを抑圧していたようなご記憶は、ありますか?

歌丸 落語に関して言いますと、戦時中は寄席に行ったり、ラジオで聴くことはありませんでした。ただ、戦時中も笑いはありましたよ。横浜の伊勢佐木町にある劇場へ、祖母が芝居に連れていってくれたんです。柳家金語楼さん主演の喜劇で、まだ子どもだったので、単純に「ああ、面白いな」と感じました。あとから考えると、落語のネタをいくつか並べたお芝居でした。

 ひとつ覚えているのは、映画館でも、芝居小屋でも、いちばんうしろにお風呂屋の番台みたいなのがあったことです。祖母に「あれはなに?」と訊くと、「臨検席だ」と。憲兵や警官が、そこに座っていたのを、子どもごころに覚えています。政治家や軍人さんの悪口を言えば、捕まったんでしょうね。

 噺家(はなしか)になってから、戦時中の落語の資料を調べたことがありました。あの頃の落語は、政府をヨイショするネタや、あたりさわりのないネタばかりだったようです。『長屋の花見』をアレンジした『長屋の防空演習』とか、『桃太郎』とか。色っぽいネタや浮気する男が出てくるネタは、ダメだったようです。

横浜にぎわい座の館長を務めるなど、落語と生まれ故郷・横浜への愛着は深い

 先輩の師匠方も、落語ファンのお客さまも、つまらなかったと思いますね。大看板の師匠が『桃太郎』じゃ、サマになりませんや。それに、寄席だって、劇場だって、空襲警報が出たら、公演中止ですから。のんびり笑っていられる時代だったか、どうか……。

 もしも、笑いを抑圧するような時代がまた来たら、噺家や芸人は、大反対するでしょうね。みんなで国会へ乗りこむかもしれない。それができなければ、噺家も、芸人も、やめちゃうと思います。そしたら、「落語」という日本の伝統芸能は、きっと滅びますよ。そんな時代はもう来ないと思うし、あったら困りますけどね。

わが芸、わが笑いの原点は、歌舞伎にあり

――歌丸さんは自叙伝のなかで、おばあさまに連れられて観た歌舞伎の思い出を、お書きになっておられます。“歌舞伎と落語”には、どんな関係があるのでしょうか?

歌丸 歌舞伎見物は、私の芸の肥やしなんです。大師匠(おおししょう)の今輔(五代目古今亭今輔)からも、「歌舞伎を観ろ」とよく言われました。セリフの間(ま)、鳴り物が入る間(ま)、そして、仕草と型(かた)も勉強になります。われわれ噺家は、扇子と手ぬぐいしか、小道具がありません。キセルを吸う仕草ひとつとっても、武士と町人では違いますし、歌舞伎から学べることは多いです。

 小さいころに祖母に連れられ、名優の六代目尾上菊五郎の『藤娘』を観たんです。不思議に思いましたねえ。藤の花も、舞台のセットも、とにかく大きい。家に帰ってから、祖母が教えてくれました。「あの人(菊五郎)は女の人の格好をしているけど、男なんだよ。舞台を大きく見せないと、女に見えないんだ」と。「なるほど!」と思いました。

 歌舞伎が芸の肥やしになるくらい、落語の笑いは、奥が深いんです。深いからこそ、私みたいな人間は、今の“自由すぎる笑い”が許せません。テレビのバラエティー番組を見ても、言葉づかいに品がない。人をバカにしたり、汚い言葉だったり、しゃれも、おかしみもなく、ただ笑うだけ。私の考える笑いは、あんなものではありません。

平和だからこそ、笑える。それを信じて、これからも

――“自由すぎる笑い”への警鐘は、歌丸さんが抱き続ける、笑いの哲学と相通じるように感じます。戦争を知る世代である歌丸さんの、“平和と笑い”の哲学を、最後にお聞かせください。

歌丸 落語には、どんなバカバカしいネタのなかにも、義理と人情があります。だからこそ落語は、お客さまに愛していただける。別に、義理と人情を教えてるわけじゃ、ありませんよ。なにかのとき、ふとしたきっかけで、人の優しさ、人の営みに気づかされる。それが、落語のよさです。私は、常にそのことを考えて、高座に上がっています。

 義理と人情を重んじる芸ですから、人間も、そのとおりの人間にならないといけません。大師匠の今輔から、こう言われましたよ。「正直な人間には正直な芸ができる。いい加減な人間には、いい加減な芸しかできない」。この齢になって、その言葉の重み、大切さが、身にしみます。

色紙に「桂歌丸」のサイン。名前のそばに「笑いのある人生」と言葉を添えた

 義理と人情にあふれた落語の笑い。それは“平和だからこその笑い”とも言えますね。私は、外交の専門家じゃないですよ。でも、笑いがないのは、平和でないということは、わかります。平和だからこそ、人は笑えるんです。無節操で、自由すぎる時代が、“間違った笑い”を生むことは、芸に生きる者として、気をつけたいですけどね。

 平和でない世の中に、私の考える笑いはありません。だからこそ、これからも平和であり続けることを信じて、芸に精進してまいります。

※本記事は、2016年8月2回のパルシステムのカタログ記事より、再構成いたしました。

取材協力/オフィスまめかな 取材・文/濱田研吾 撮影/坂本博和(写真工房坂本) 構成/編集部