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「農家民宿遊雲(ゆう)の里」の前に立つ菅野正寿さん、まゆみさん夫妻(写真=編集部)

「農家民宿遊雲(ゆう)の里」の前に立つ菅野正寿さん、まゆみさん夫妻(写真=編集部)

震災から6年―福島の農家民宿から始まる一歩。「みんなが集まる棚田のふるさとに」

  • 食と農

阿武隈山系の山あいにある福島県二本松市の東和地域。この地で農業を営む菅野正寿さんは2016年4月、家族とともに自宅で農家民宿を始めた。棚田が広がる里山を、多くの人が集まるふるさとにしたい。そんな願いを込めた新しい一歩だった。大震災と東京電力福島第一原発事故から、やがて6年。農家民宿を舞台に、さまざまな人の輪が広がろうとしている。

農業の再生をめざすなかで

 福島県の郡山駅から車で約1時間。山あいの坂道をしばらく上ると菅野さんの自宅があった。晴れ間も見えた昨年末の昼下がり。田んぼには2センチほどの雪が積もっていた。庭に止めてあった軽トラックには収穫したばかりの大根がずらり。蔵の壁際には干し柿。どこか懐かしい雰囲気の玄関では、「おかえりなさい」と書かれた看板が迎えてくれた。

白壁の2階建て部分が、菅野さんの自宅をリフォームした農家民宿「遊雲(ゆう)の里」(写真=持城 壮)

 「福島第一原発は右手の山の向こう側です」

 菅野さんは、棚田や畑が広がる家の前で、指さしながら説明してくれた。

 「放射能は上空をグルっと左側の山のほうに流れていったんです」

 原発事故の直後から、菅野さんたち福島の農民たちは苦難の道を歩むことになった。県内の野菜や米から暫定規制値を超える放射能が検出されたからだ。どうすれば田畑や農作物の放射能を低減できるか。菅野さんは、大学の研究者や仲間の農家とともに、土壌や水の検査を始め、放射能対策の試行錯誤を続けてきた。

山あいに田畑が連なる菅野さん宅前の風景(写真=持城 壮)

 当時は福島県有機農業ネットワークの理事長だった菅野さん。「農薬などで土を汚さない」「田んぼの生きものを守っていこう」と長い間心を砕いてきた有機農家の苦労は人一倍わかっている。それだけに、一日も早い農業の再生に向け、奔走する日々を送ってきた。堆肥や有機質を入れた土づくりでセシウムの移行を防ぐという、本来の農業技術に着目した対策も功を奏し、地域の作物から放射能が検出されることはほとんどなくなった。

 農家民宿を思い立ったのは、そんな取り組みのなか、各地から集まる研究者や支援者のためでもあったと菅野さんは話す。

 「このあたりには、みなさんが泊まるところがなかったもんですから」

 各地から訪れてくる人たちが宿泊して語り合う場として、自宅をリフォームし、農家民宿を始めることにした。

訪問客に教えてもらったこと

 「遊雲(ゆう)の里」と名付けた農家民宿の1階はリビングと食堂を兼ねたアットホームな雰囲気。地元の鉄工所の知人に頼んで作った大型の薪ストーブがデンと構える。吹き抜けとなっている2階に宿泊者の寝室が2部屋。民宿ができたことで、福島の現状に関心をもつ若者、NPOや企業の関係者などが、東和地区に滞在する場ができた。農業体験やスタディツアー参加者の交流の拠点にもなっている。

訪問者の交流や食事の場となる室内のスペース(写真=持城 壮)

 じつは、農家民宿を始めたのは菅野さんだけではなかった。菅野さんがくらす東和地域には、こうした農家民宿が増え、今では約20軒にもなっている。旅館などの宿泊施設がなかったので逆に農家民宿が広がり、訪問客を受け入れる場となっている。

 さまざまな人を受け入れることで、菅野さんや地元の人たちは、里山のくらしのよさを見直すようになったそうだ。「棚田の景色がいいですね」「野菜がおいしいですね」「星がきれいですね」。訪問者から、そんな言葉をかけてもらい、「地元に対して『こんな山ん中』というマイナスイメージしかもっていなかったのが変わってきた」というのだ。

菅野正寿さんは、こしひかり、もち米、50種類以上の野菜を栽培している(写真=持城 壮)

 「お金だけではない農村の価値をもう一度掘り起こしたり、受け継いでいかないといけないんだなと気づかされました」

 震災前には、「有機米にこんなにこだわっています」などとアピールすることを第一に考えていたそうだが、そんな意識も変わったと菅野さん。

 「トンボやホタルがいる里山の美しい風景、多様な生物がいる農業の果たしてきた役割を伝えてこなかったなと思ったんです」

「いっしょになって、やりませんか」

 大震災と原発事故から今年3月で丸6年。近隣の川俣町や飯舘村の一部は、3月末で避難指示が解除される予定だが、住民が戻ってこなければ、再建は困難だ。菅野さんの案内で車を走らせた川俣町山木屋地区では、除染した土や草などを入れた黒い袋が至るところで山積みとなり、解体される民家の姿も目立っていた。原発事故の傷跡はまだまだ深く残ったまま、という印象が強く残った。

川俣町から浪江町へ通じる検問所。政府は、帰還困難区域を除いて浪江町の避難指示も解除する方針だ(2016年12月撮影/写真=持城 壮)

 そんな状況で、菅野さんは地域の再建に向けて、農業交流やボランティアなどで訪れる人たちとのつながりの必要性をこれまで以上に感じている。

 「炭焼きとか、ばあちゃんの漬け物とか、里山のくらしの技や文化も、農家だけでは守り切れないので、いろんな人たちの力を貸してほしいんです。『都市のみなさん、企業のみなさん、来ていただいて、力を貸してほしい。次の再生に向けて、いっしょになってやりませんか』。そんなふうに思っています」

 農家民宿を拠点にした訪問客との交流は、妻のまゆみさん、長女・瑞穂さんとのチームで行われている。野菜を生かしたお弁当の注文販売などを手掛けているまゆみさんは、宿泊者と明るく言葉を交わし、腕によりをかけた料理を提供している。東京の大学から地元に戻り、震災の前年に就農した瑞穂さんは、2013年に「きぼうのたねカンパニー」という会社を立ち上げた。

菅野さん宅の玄関前にある看板。正寿さんが主宰する「遊雲の里ファーム」と、瑞穂さんが設立した「きぼうのたねカンパニー」の名称が並ぶ(写真=持城 壮)

次のステップに進むタイミング

 「きぼうのたねカンパニー」は、家族で運営する小さな会社。瑞穂さんが父親と育てた農産物や、自宅に隣接した加工場で作った「杵つき餅」などの加工品を販売している。プチギフト商品の「杵つき手まり餅」は、ごま、きび、よもぎ、古代米の4種類の杵つき餅を天然杉の曲げわっぱに入れた、おしゃれな一品だ。若い女性の視点を感じる、かわいいお菓子もある。杵つき餅と地元産の「とちおとめ」を使った「いちごもち」だ。

きぼうのたねカンパニーの「いちごもち」。菅野さんの加工場で作る「杵つき餅」を使っている(写真提供=きぼうのたねカンパニー)

 同社では、ツアー客が農作業に参加できる体験プログラムにも力を入れている。田植えや稲刈り、いちごの収穫、大根の間引きなど、いっしょに農作業をするなかで、里山の魅力や原発事故後の福島の現状について理解を深めてもらう機会にもなっている。瑞穂さんは、大手旅行会社が手がけるスタディツアーの地元案内役も務めている。

 「ツアーの話は福島県の観光協会からくることもありますし、お客さんの口コミでも広がっているようです。ゼミの活動の一環として訪れる大学生も多いんです。お問い合わせいただいた要望に応じてプログラムを提案しています」(瑞穂さん)

 原発事故によって、農業の枠を超えた活動にも取り組んできた瑞穂さん。ここにきて「次のステップに進むタイミングが来た」と感じている。「ツアーを継続して交流人口も増えました。これはひとつの成果だと思うんです。今後は、商品力を上げたり、人材を育成したり、もっと地域が自立できることをやるのが大事だと思っています」(同)

父親の正寿さんと農業に取り組む一方で、自分の会社「きぼうのたねカンパニー」を運営する菅野瑞穂さん(写真=編集部)

 この2月には、新たにフリーペーパーを発行し、阿武隈地域の道の駅などに置いてもらうことにしている。カメラ撮影も行う友人の編集者に声をかけ、2人で制作を進めた。内容は、この地域に軸足を置く同世代の若者たちのインタビュー。「震災から6年になろうとしている今、やっていること、考えていることを、記録として残したいと思っているんです」と瑞穂さんは話す。

 今年もまた巡ってくる3月。父親の菅野さんは、「3月は耕す月。農家にとっては新しい米作り、野菜作りのスタート。また頑張ろうっていう気にさせてくれる季節です。6年前はそれができなかった」と話す。それでも、原発事故のため一時中断した農作業は既に再開。「福島のことをもっと知りたい」「力になりたい」と思う多くの人が、東和地区の里山を訪れるようになった。農家民宿はこれからも、何か新しい一歩が始まる大切な舞台となることだろう。

※本記事は、パルシステム連合会発行の月刊誌『のんびる』2017年3月号より再構成しました。『のんびる』のバックナンバーはこちら

撮影/持城 壮(写真工房坂本) 取材・文/編集部