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すべての子どもに、居場所のある学校を。不登校ゼロの「みんなの学校」がめざす学びの姿

  • 暮らしと社会

学校に居場所がないなど、さまざまな生きづらさを抱える子どもたち。そうしたなか、一本のドキュメンタリー映画に共感の輪が広がっている。大阪市立大空小学校の日常を追った『みんなの学校』だ。大空小では、発達障がいの子も、知的障がいの子も、みんな同じ教室で学ぶ。しかも、不登校の子は誰もいない。それは「奇跡の学校」なのか。初代校長の木村泰子さんが伝え続ける、「みんなの学校」の真意とは。

「サポーター」という存在

――映画『みんなの学校』のポスターやチラシには「出演 大空小学校のみんな」と書かれています。これは「子どもたち」ということですよね。

木村 子どもはもちろん、パブリック(公立)な学校は、地域住民みんなのものなんです。そこに「保護者」「近所の人」という区別はなく、大空では「保護者」ではなく「サポーター」と呼んでいます。「できるときに、できる人が、無理なく、楽しく」学校に関わることを目ざしています。

 物音にすごく敏感に反応する子がいまして、教室にあるすべての椅子に、半分に切ったテニスボールをはめようと考えたんです。そうしたら、サポーターさんがあちこちからテニスボールをかき集めてきて、学校の1階にあるコミュニティルームで、硬いボールをみんなで切ってくれました。それを見た子どもたちは、「ありがとう。あいつな、椅子の音を聞いたら、あかんねん」とか言って、切ったボールを教室に持ち帰ります。サポーターさんたちはそれを見て、「他にやることないかな」と考えます。学校に来て、子どもたちに教えられ、心が動いたんです。大人の学びです。学びのあるところに感動があり、感動があるから、愛が生まれる。

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――学校には誰が来てもいいんですか。

木村 いつでも、誰でも、ウエルカムですよ。いろんな方がいらっしゃいます。休み時間に子どもの遊び相手になってくれる方、図書室で本の読み聞かせをしてくれる方、トイレ掃除を毎日してくれる方、学校の花壇を手入れしてくれる方、通学路で見守ってくれる方……。いずれも、学校から頼んだことではありません。

 授業参観日みたいに、とってつけたようなことはしません。授業は、いつでもオープンです。近所のおじいちゃんが来て、授業中に小さい声で「むずかしいなあ」とつぶやき、生徒のひとりが「教えたるわ!」。休み時間に、ふたりで算数の勉強してるんです。その子、算数がすごく苦手な子だったですよ。

――まさに「地域に開かれた学校」ですね。

木村 ただし、「子どもを教育したる」「自分の子しか関心がない」という方はお断りです。自分の子どもを育てたかったら、まわりの子どもをまず育てる。目の前の子どもを見て、自分に何ができるのかを考える。そうしたあうんの呼吸が、大空にはありますね。

 「わが子を守る」という気持ちから、「あの子は暴力をふるうから、いっしょに遊んだらダメ」「勉強できない子がクラスにいたら、授業が遅れて、うちの子が迷惑する」と言う親御さんもいると思います。私は、大間違いだと考えています。そんなことで、自分の子どもが育つことはありえない。そんな教育をしていたら、その子も他者を否定して、自分を守っていくすべを知る大人になってしまうと思います。

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“ええ学校”ってなんですか?

――地域に開かれた学校には、地域の協力が不可欠です。開校時からそうでしたか。

木村 2006年にできた新しい学校ですが、いわゆる「ややこしい子」への白い目が、地域にありました。子どもは敏感ですから、大人たちの目線から直感で「味方か、敵か」「いっしょにいて安心か、そうじゃないか」を感じます。

 地域住民の気持ちを変えていくために、町会や地域の女性部といった組織とつながるのはやめようと考えました。地域の一人ひとりが自分の意思で学校に来て、日常に接して、やれることを探してもらう学校を目ざしたんです。

 大空に来ると、やることがいっぱいあるんですよ。「大変やわ。あんたも行ってや」と口コミで広がりますし、一度来たサポーターは、二度、三度とリピーターになります。「ややこしい」といわれる子への白い目も薄らいでいきます。

 私自身、校長として着任した当初は、白い目のようなものを抱いていました。レイジという教室からすぐ逃げ出す男の子がいて、「この子さえいなければ、“ええ学校”になるのに」と校長として感じたんです。みんなが落ち着いて勉強するのが“ええ学校”。授業中に逃げ出す子がいるのは“悪い学校”。それは間違いなんですよね。子どもがみんな“ええ学校”と思ったら、それが“ええ学校”。大人が、ましてや校長が、決めることではありません。

撮影=堂本ひまり

――そのお話をもう少しお聞かせください。

木村 レイジがいつものように、教室から逃げ出しました。担当である新人の女性教師が、追いかけました。すると、雨で濡れた廊下で彼女がスッテーンと転び、ドスンという音が校内に響きました。私も教室の子どもたちも、レイジがその隙に逃げきると思ったんです。

 ところが、すぐさまレイジは彼女のもとにかけより、お尻をさすったんです。「痛かったね、痛かったね」と。教室の子どもたちも、その場に居合わせた私も、ただただ見守るしかなくて。

 その後の全校朝会で、私は子どもたちに宣言しました。「校長先生が間違ってました。やり直しの第一号になります」と。何をやり直すのか。子どもに学べる大人になる、それだけです。子どもから学べない大人を、子どもは信用しません。やり直しする大人の姿を子どもに見せるのが、大人の役目。そのことを私は学んだんです。

――レイジ君は、どうなりましたか。

木村 教室から逃げ出すことがなくなりました。レイジへの視線、白い目と言ってもいい、それがなくなったからだと思います。「あいつ、ほんまはええ奴やねん」と。レイジから大人も学んだし、子どもたちも学んだ。学校って、そういう学びの場であるべきなんです。

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点と点がつながるとき

――2年前に退職され、現在は講演活動で全国をまわっておられますね。

木村 座親(ざおや)という新人教師が、受け持ちのクラスの男の子をえらい剣幕で叱責して、そのまま教室から出ていくシーンが映画にあります。「教室にほったらかされたあの子が、窓から飛び降りたらどうするんや!」と私は怒りました。

 校長を退職して、そんなに日が経っていないときの話ですが、ある町で開かれた映画上映会と講演会に呼ばれたんです。客席から「座親先生、元気ですか」と質問があり、「元気、元気。“ええ先生”にはなってませんが、がんばってます」と笑いを交えながら、近況をお話しました。

 講演が終わったあと、あるお母さんと大学生くらいの娘さんから、泣きながら話しかけられました。「うちの子、窓から飛び降りたんです」。

 息子さん、部活のキャプテンだったそうです。部室にたばこの吸い殻が落ちていて、生活指導の先生から「犯人を言え」と問い詰められ、教室から飛び降りた。そうお母さんから聞きました。ショックで、知らぬこととはいえ、本当に申し訳なくて……。考えてみてください。お弁当を持って、普通に出かけた我が子がですよ、その日のうちに学校から電話がかかってくるんです。「息子さん、亡くなりました」と。

 子どもが命を失う話を、講演先のあちこちで耳にします。大空にいたときは、大空のことしか見てなかったんですね。私にとっては、重すぎる学びです。そのお母さんからは、「うちの子のこと、全国で話してください」と言われました。「悲しい事件が起きないためにどうすればいいのか、一人ひとりで考えてほしい」と訴えて、全国をまわっているわけです。

――その想いは伝わっているとお感じですか。

木村 100%伝わることを信じて、話しています。若者だろうと、不登校の親御さんの会だろうと、「学校は学力向上の場」と頭がこりかたまっている教育委員会の研修だろうと、予定がなければ行きますし、私の言葉で話します。

 熊本市内の公立小学校から、呼ばれたことがありました。障がいのある子が不登校で、そのお母さんが校長先生に、大空のことを伝えたそうなんです。そのご縁でお邪魔して、上映会のあと、先生方とゆっくりお話をしました。

 しばらくして、「息子は毎日喜んで、学校に通うようになりました」と風の便りで知りました。この事実って、すごいじゃないですか。しかもその学校は、去年の熊本地震で大きな被害を受けた地域だったのに、熊本市内で最初に授業を再開したそうです。地域の人たちや避難する人たちが、自分たちで動いて、授業できるスペースをつくった話を校長先生から聞きました。校長先生、とても喜んでおられました。

 こういう話を聞くと、「よっしゃ、私もがんばろう!」と思えます。日本全国で考えたら、小さな点です。でも、その点と点がつながるとき、きっと何かが変わる。そう信じています。

撮影=堂本ひまり

文句を意見に変えていく

――大空小の日常に共感が広がる一方、「私の地域ではムリできない」という声もあると思います。

木村 「できる」「できない」ではなく、あなたの地域に、みんなの学校が必要なのか、必要じゃないのか。そこなんですよね。近所の学校に、ひとりだけいる不登校の子を、自分は見過ごせるのかどうか。「見過ごせない」と感じるなら、それは必要ということです。必要なら、自分でできることを考えるしかないです。

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――そういえばある自主上映会で映画を観た若い女性が「近所の小学校に、どんな子どもがいるのか自分で確かめたい」と言っていました。

木村 そういう声は、とてもうれしいです。難しく考えることはないんです。大人は透明人間のように、学校のなかで、ボーッと浮遊していたらいい。そうしたら見えてきます。困っている子、悩んでいる子のことが。その子の横に行って、「どうしたん?」と声をかける。「向こう行け」「くそババア」と言われたら、離れたらいいんです。

 それを何回か繰り返していたら、その子が本当に悩んで困ったとき、「おばちゃん、聞いてや」とくるんです。それが子どもです。「つらいねん」と言える大人がいつもそばにいれば、世の中オールOKですよ。しかもその子は将来、そういう大人になるはずです。

――「教育は親と学校の責任」との声もありそうです。

木村 そこで結論を出したら“次の議論”がないですよね。重度の知的障がいの子が、学校にいたとします。「他の子どもと言葉が通じないので、特別支援学級が必要です」で終わると、その子が生きていくためにどんなスキルが必要で、どういう学びの場をつくるべきなのかという“未来”につながりません。不登校の子がいる場合も「親の責任だ」「学校が解決すべき」「来ないのは本人の権利」といった言葉で片付けられ、その次の議論がありません。

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――映画を通した大空小の日常を、それぞれがどう受け止めるかにも関係してきますね。

木村 大空では、サポーターからの“文句”を受け付けません。そのかわり、どんなに耳の痛い内容でも“意見”には耳をかたむけます。意見には「こうしたい」という主体性があり、未来につながります。文句には、それがありません。文句をどう、自分のなかで意見に変えるのか。ここに地域や社会を変える力があると思います。

 映画をご覧になる方は、皆さんそれぞれの立場で、価値観で、感じてほしいです。そして、すべての子どもが安心して学べ、子どもも大人もみんなが「いっしょがいいね」と思える地域の学校を、ご自分のできるところから、つくっていってほしいです。ちいさな一歩でいいんです。その一歩が点となり、つながり、学校を、地域を、社会を変えていくんです。

※本記事は、パルシステム連合会発行の月刊誌『のんびる』2017年7月号より再構成しました。『のんびる』のバックナンバーはこちら

取材・文/濱田研吾 撮影/堂本ひまり 構成/編集部