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写真=深澤慎平

写真=深澤慎平

「一人一人違うからこそ、役割がある」 “競争社会”ではなく、誰もが必要とされる暮らしとは? 共働学舎

  • 暮らしと社会

経済偏重の世の中、点数で評価されるような社会に生きづらさを感じる人は多い。そうした中、「競争社会ではなく協力社会を」という理念を掲げ、心や体に不自由を抱えた人たちが共に学び、共に働く場として誕生したのが、「共働学舎」だ。創立から43年経った今でも、その暮らしに共感する人は多く、訪れる人は後を絶たない。「豊かさとは何か」「誰もが生きやすい社会をどうつくるのか」――創立者である父とともに立ち上げから関わってきた、「信州共働学舎」代表の宮嶋信さんに話を伺った。

心や体に不自由を抱えた人と暮らす

 「社会でスムーズに生きられない人たちと、ともに生きる場をつくりたい」。創立者である宮嶋眞一郎さんのそんな思いから、1974年に長野県小谷村立屋地区で「共働学舎」は始まった。心身に不自由を抱えた数人のメンバーたちと、まだ電気も水道も通っていない小屋で共同生活を送り、米や野菜を育てるところからのスタートだった。

 それから43年。今では共働学舎は全国5か所に広がり、メンバーも約130人にまで増えた。2006年にはNPO法人となり、農業をベースに生活しながら、米や野菜、チーズやソーセージ、手工芸品などの生産販売による収入、そして理念に賛同する支援者からの寄付に支えられて運営している。

「共働学舎の原点」という建物。この手作りの小屋から、最初の活動が始まった(写真=深澤慎平)

 共働学舎には「暴力はいけない」という以外の大きな規則はなく、メンバー同士で話し合いながら暮らしをつくってきた。数年を過ごして新しい道へ進む人もいれば、「自分の家」として最期まで暮らす人もいる。年齢層も来る理由もさまざまで、心身に障害を抱える人、うつ病やひきこもりの経験者、児童養護施設の出身者、自給的な暮らしに憧れて来る若者など、背景も多様だ。原則として、誰でも「ここで暮らしたい」と願う人を受け入れてきた。

夫婦で暮らし、ここで家庭を築いていくメンバーもいる(写真=深澤慎平)

「世話する人/される人」を区別しない

 眞一郎さんは共働学舎を始める前の31年間、自由学園(東京)で教師をしていた。自由学園は、キリスト教を土台に「よく教育することはよく生活させること」という理念を実践し、「自ら学ぶ力」をつけることを目指す学校だ。

 熱心で面倒見のよい教師として知られていた眞一郎さんだったが、徐々に視力を失う病気にかかっていた。そのため50歳の誕生日を機に郷里に戻り、自由学園での経験をもとに「共働学舎」を始めたのだ。その後、92歳で亡くなるまで、共働学舎で家族やメンバーとともに暮らし続けた。

 「共働学舎には障害がある人も暮らしているんだけど、いわゆる福祉施設と違って『世話する人/される人』という区別がない。どのメンバーもわずかでも給料をもらっていて、共に働く仲間なのです」。そう話すのは、父親の眞一郎さんとともに共働学舎の立ち上げにかかわった二男・信さんだ。現在は、小谷村にある「立屋」と「真木」の2か所を併せた「信州共働学舎」の代表を務めている。

額に巻いた手拭いがトレードマークの宮嶋信さん(写真=深澤慎平)

 眞一郎さんが心身の不自由な人と暮らす場をつくりたいと考えたのには、信さんの影響も大きかったという。

 「高校3年生のクリスマスに、父から『クリスマスケーキを届けに行くけどついてくるか』と誘われたんです。向かった先は重度の心身障害児の施設。知らなかったけれど、父は毎年ケーキをそこに届けていたんです」

 卒業後にどう生きるべきかと悩んでいた信さんは、この訪問をきっかけに看護助手としてその施設で働き始める。しかし、働くうちに「施設」に対しての違和感を覚えるようにもなった。

 「脳性麻痺の子を車いすに乗せて散歩に行くと、当時の園長から『人目にさらすな』と怒られました。その子は僕と同じくらいの年で、自分で歩けないから一緒に散歩に出ただけ。そんな風に言われるのが気に入らなくて、もっと人間的に、家庭のなかで生きられないのかなと思いました」

障害のある人もない人も、子どもも大人も、自分らしく暮らせる場所(写真=深澤慎平)

 そんな信さんの疑問が、今の共働学舎のあり方にも結びついている。20歳になった信さんは、施設を辞めてドイツのベーテル(※)に行く計画を立てていたが、父親が独りで共働学舎を始めようとしていることを知り、渡航をキャンセル。共働学舎の設立を手伝うことにした。

 「それから結局、一度も外国に行く機会はなかったなあ。ここではやることが本当にたくさんあったからね」

※ベーテル: 1860年代にキリスト教の牧師が中心となって始めた総合医療・福祉の施設で、病気や障害を持つ人も役割をもちながら暮らすコミュニティづくりの世界的モデルとなっている。

創立者の眞一郎さんや亡くなったメンバーのための記念碑(写真=深澤慎平)

「一つの答え」を求める社会

 共働学舎の構想を記した冊子に、眞一郎さんは次のような文章を書いている。

いまの社会がこれでよいと思っている人は少ないと思います。それではどこに問題があるか熱心に考えざるを得ません。個人の考え方やあり方には相違があっても、社会全体としては競争社会であることが根本的な問題であると思います。人生の目的や価値の基準が競争原理に基づいている場合が多くあります。そして競争社会は当然勝者優先となり、勝者がすぐれた人であり、勝てない人は駄目な人、役に立たない人と思われ、知らず識らずのうちに差別と不公平の意識が生じます。(『共働学舎の構想』~競争社会ではなく協力社会を~宮嶋眞一郎)

 「40年以上たちますが、競争社会はよくなるどころじゃない。みんな『同じ人間』をつくろうとしてませんか? 勉強にしても、答えは一つ。でも、10人いれば10通りの答えがあっていいじゃない。違うから、それぞれの役割が生まれる。今の社会って、みんな同じ色にしていこうとするんです。それは、そのほうが管理しやすいから。共働学舎のメンバーは違いすぎて、管理なんてできないですよ」と信さんは笑う。

「いろいろな人が混ざって暮らすから、お互いに思いやりを学ぶことができる」と信さん(写真=深澤慎平)

 また、共働学舎では、食べ物や住まいなどを自分たちで作ることも大切にしてきた。自分で作り出す喜びが生活の豊かさとなり、一人一人の個性と能力を発揮する場にもなると考えるからだ。

この経済社会の一つの大きな特徴は異常な経済力偏重となって現れています。消費社会は工場生産によって造られたものを買う生活です。最近は日用の食べ物まで、そうなっています。その結果、物が豊かになって、お金さえあれば何でも欲求が満たされ、身体を労さなくてもすむ便利な生活が普通になってきています。よい経済社会とは、このような豊かさをもつことなのでしょうか。(『共働学舎の構想』~手作りの生活を~宮嶋眞一郎)

 「共働学舎でやっているのは、点数をつけて評価するような『仕事』じゃなくて『生活』なんです。こなさなくちゃいけない仕事だと思うと疲れるでしょう? そうじゃなくて、ゆっくりでも面白がりながら、できる範囲でやればいい。そうすれば、みんなが気持ちよく暮らせるはずです」

 一人一人違うからこそ、その個性や役割を生かせばいいというのが共働学舎の姿勢だ。それは、例えば牧場の風景をモチーフにした木工製品にも表れている。すべて同じデザインのはずだが、作る人によって大きさも形もさまざま。一般の工場であれば「規格に合わない」と不合格になるのかもしれないが、「その違いがユニークだ」として、かえって人気の理由になっているという。

メンバーがやすりで削った木のモチーフは、一本ずつ形が違って個性豊かだ(写真=深澤慎平)

山奥にある「真木」共働学舎

 立屋地区に共働学舎が誕生してから2年後の1976年、同じ小谷村でも標高900メートルのある山奥の真木集落にも活動拠点が増えた。廃村になった集落にメンバーが移り住み、空き家を直し、田畑を耕しながら、「真木共働学舎」として少人数で自給的な暮らしを送っている。信さんも、数年前まではここで家族と暮らしていた。

 この真木は、全国に5か所ある共働学舎のなかでも、とりわけ不便な場所だ。車が通れない山道を1時間半歩かないとたどり着くことができない。大きな機械は入らないし、生活用品はふもとから背負って運ぶ。しかし、「この場所だからいい」とやって来る若い人も少なくない。とくに3・11以降は、ここでの暮らしに関心を寄せる人が増えたという。

峠を2つ越え、真木にたどり着くと見えてくる「アラヤシキ」の茅葺屋根(写真=深澤慎平)

 真木には、「アラヤシキ」と呼ばれる大きな茅葺屋根の古民家があり、20~50代までの7人ほどが一緒に暮らしている。障害を抱えて数十年も住んでいる人もいれば、まだ数か月という新しいメンバーもいる。将来に不安を感じてうつ気味だったという30代の男性は、ここで過ごすうちに自信を取り戻し、来年は再就職を目指すつもりだと話す。一方、以前は派遣社員だったという2年目のメンバーは、「ここで地に足がついた生活を続ける」と決めている。

 子育て中の世帯も2つあり、それぞれ近くの民家に住んでいるが、一日三食の食事は全員がアラヤシキに集まって食べる。赤ちゃんから50代までが食卓を囲む光景は、まるで大きな家族のようだ。黙々と食べる人、おしゃべりを楽しむ人、顔をずっと伏せている人など、メンバーの様子はバラバラだが、初めて来た人でもすぐになじんで見えるから不思議だ。

真木共働学舎のメンバーや、メンバーの友人たちが集まったアラヤシキの夕食。まるで大家族のような雰囲気だ(写真=深澤慎平)

「自分はここで必要とされている」

 真木の一日は、5時半(冬は6時)の起床から始まる。雪解けの時期になれば野菜を植えて、田植えの準備。夏は草むしりや野菜の収穫、秋には稲刈りだ。冬には山を下りる人もいるが、残った人たちで雪かきの合間に機織りなどをして過ごす。そうした季節ごとの作業のほかにも、醤油やみそを仕込んだり、堆肥を作ったりと、人の手を必要とする作業は1年を通じて尽きることがない。

早朝のヤギの世話。「世阿弥」(雄)と「パンナ」(雌)には来春、子ヤギが生まれる予定(写真=深澤慎平)

 「じっと座っている人でも、『稲刈りしたやつを運んでよ』って言うと、喜んでやってくれる。その人が楽しんでできる作業を見つけて声かけするんです。そうするうちに、『自分はここで必要とされているんだな』って思えるでしょう?」と信さん。

 真木では、メンバー同士の協力がなければ生活が成り立たない。稲の脱穀作業一つにしても、脱穀機の操作が得意な人、米を運ぶ力のある人、わらを束ねる単純作業をやり続ける人など、そこには得意不得意に合ったさまざまな作業があり、どの役割も同じように大事なのだ。

それぞれが自分に合った役割を担いながら、共に農作業を進めていく(写真=深澤慎平)

どんな人も受け入れる場所でありたい

 「多かれ少なかれ、誰だって何かある。親父も目が悪かったし、僕だって精神障害を抱えている。元気に活動しているように見えるメンバーでも、ここに来るまでにはつらいことがあったはず。自分が生きられる場がどこにもないと思う経験を経て、ここにいる。だから、みんな同じなんです」と信さん。

 「障害の全くない人はいない」というのが、共働学舎の考え方だ。だからといって、いつも平和で「ユートピア」のような場所だというわけではない。メンバー同士のちょっとしたけんかは絶えないし、ここでの暮らしが合わずにいなくなってしまう人もいる。

羽釜からごはんをよそうフジモリくんと、顔を上げたり伏せたりして食事の始まりを待つエノさん(写真=深澤慎平)

 「さぞかしいい場所だと思って来ると、びっくりするかもしれないね(笑)。そりゃ、いろいろな人がいるから、楽しいことばかりじゃないですよ」

 だからこそ、「ここへは自分の意思で来てもらうことを大事にしている」と信さんは言う。家族や知人の紹介で来た人には、ここのメンバー、環境、仕事を体験してから、一度帰ってもらうことにしている。そして、メンバーとして暮らすかどうかを自分で決めてもらうのだ。

 「自分の意思を言葉にして言える人ばかりではないですよ。でも、『また来たい』と思えば、真木のような不便な山道でも歩いて戻ってくる。それは、ここには自分の居場所があると感じるからではないでしょうか。若いメンバーも増えていますが、ここで自分たちの望む暮らしを実現していってほしい。そして、誰であっても家族のように受け入れる場所であり続けたいと思っています」

農作業を休憩し、縁側でお茶をする真木共働学舎のみなさん(写真=深澤慎平)

取材協力/NPO共働学舎・信州共働学舎 取材・文/中村未絵 撮影/深澤慎平 構成/編集部