就労に不安を抱えた若者が通う農場
神奈川県相模原市の山間部にある、韮尾根地区。この地区の築170年ほどの古民家に20~30代の若者たちが定期的に集まり、周辺に点在する6つの畑で無農薬・無化学肥料の野菜や小麦を栽培している。しかし、畑にいる若者を見ていると、なんだか農作業にあまり慣れていないようす……。
というのも、「風のすみか農場」と呼ばれるこの場所に通っているのは、相模原市の「地域若者サポートステーション」(※ 以下、サポステ)を通じて、就労・自立を目指している若者たちなのだ。長期間ひきこもっていた経験があったり、人とのコミュニケーションが苦手だったりする人も多くいる。
「ずっと家にひきこもっていて体力がないからね、古民家から農地までたどり着くのが精いっぱいという若者だっていますよ」と話すのは、サポステを運営する「NPO法人文化学習協同ネットワーク」(以下、協同ネット)の代表理事・佐藤洋作さん。
この農場は協同ネットを母体に、相模原市や地元農家さんとの協働事業で運営されている。若者の自立や就労を支えるだけでなく、地域にとっては、耕作放棄地を減らし若者を呼ぶことで、環境保全や地域活性にもつながる取り組みなのだ。
※:働くことに困難を感じている15~39歳を対象に、自立や就労に向けた個別相談、就労準備や職業体験プログラムなどを行う。全国にあり、運営は厚生労働省が委託したNPO法人や企業などが担っている。
どうして農業体験が必要なのか?
協同ネットは、1974年に東京・三鷹市で活動をスタートさせた。学校教育についていけない子どもをサポートする学習塾が原点だ。やがて、塾に不登校の子どもが通ってくるようになり、日中の子どもの居場所となるフリースペースを開所。さらに、「ニート」や「ひきこもり」と呼ばれる若者の居場所、就労支援や仕事場づくりなど、子どもや若者のニーズにこたえる形で活動を展開させてきた。現在では、三鷹だけでなく、練馬、世田谷、神奈川県の相模原にまで、活動範囲を広げている。
農業を活動に取り入れるようになったのは、今から15年以上前のこと。長野県望月町に毎年数回通い、不登校の子どもたちと米作りを続けてきた。
「外の世界を拒絶してひきこもっていた子どもや若者は、心だけではなくからだも閉ざしています。農作業をすることで、冷たい、暑い、気持ちいいなど、五感が覚醒していく。ある若者が、農作業でからだが動くようになると、そのぶん心が動く範囲も広がったと話していました。さらに『仲間と作業する』、『命を育む』という、働くことの根源的な喜びに気づくこともできるのです」と佐藤さん。
こうした活動をもっと近くでもできないかと相模原市に土地を借り、2004年に本格的な活動を始めたのが風のすみか農場だった。韮尾根の地名をもじって、ニローネという通称で呼ばれている。
自然と声を掛け合えるように
農場が始まった頃、三鷹市にある協同ネットの事務所1階では、就労研修の場となるベーカリー「風のすみか」をオープンさせたばかりだった。農場は、パンに使う小麦や具材にする野菜など、ベーカリーに安心・安全な原材料を供給するという役割も担っている。
当初から、さまざまな形で若者の農業研修を受け入れてきたが、現在は相模原市のサポステに通う若者を主な対象に農業体験プログラムを行っている。作業日は週1回。その日だけ参加する若者もいれば、3カ月や半年といった長期で通う若者もいる。就農が目的ではなく、農作業を通じて生活リズムの改善や人とのコミュニケーションに慣れていく。
私たちが農場を訪れた日は、初参加者も含めて5人の若者が参加。農場スタッフ2人のほか、市内にあるサポステや若者の居場所事業で働くスタッフも手伝いに来ていた。
この日の作業は、じゃがいもの植え付けと野菜の収穫。農場主任の山口解さんが、若者のようすを見守りながら指示を出していく。
若者たちは2人ひと組になってロープを張り、それを目印にじゃがいもを植えていた。口数は少ないながらも、ときには声を掛け合って一生懸命に作業を進めていく。
そのようすを見ていた山口さんは「ああやってチームワークで作業できるのが農作業のいいところ。最初は一緒に作業するのが苦手で黙々と草むしりをする人もいますが、それでもいい。そうやって必ず一人ひとりにフィットする作業があるんですよね」と話す。
だんだん笑顔が増えていく
参加者のなかでも、ひと際手慣れたようすだったのは、以前に半年間のプログラムにも参加したことのある23歳のグッチくん。一度は就職したものの仕事を辞め、再び農場に通いながら次の進路を考えているところだ。
「半年通ったときはメンバーとよくケンカもしたけど、そのぶん仲良くなれました。一から野菜を育てて収穫したり、みんなと一緒に作業するのが楽しいんです」とグッチくん。
オクラを収穫していると、まだ参加して数回目のノンちゃんが、遠慮がちに「私もやってみたい」と近づいてきた。グッチくんがそばでかごを持ちながら手伝う。「これはもう収穫していい?」「変な形の野菜があるよ」と話しながら作業をするうちに笑顔も出て、2人の表情がほぐれていくのがわかる。
今日が初参加だというタッくんも、両手に大きなオクラを抱えて収穫。「楽しかったからまた参加したい」と話してくれた。
作業は午前中から始まり、昼食をはさんで夕方で終了。昼食は収穫した新鮮な野菜を使い、一緒に食事をつくって食べる。ここに通うようになってから苦手だった野菜が食べられるようになったという若者も少なくない。
「種まきから収穫まで続けていくと、一つひとつの作業の意味がわかってきてやりがいが出てきます。午前中から作業があるので生活リズムも整うし、身体を動かして元気になる。顔色がよくなって笑顔が増えるなど、どんどん変わっていくのを現場で実感します」と山口さん。
「働くことって楽しいんだ」
この日は、サポステで相談員を務める團村冴子さんも手伝いに来ていた。
「最初は人と目を合わせられなかった若者が農業体験に参加したのですが、『この間の野菜がおいしかったと近所の人に声をかけられて、うれしかった』と報告してくれました。それをきっかけに、自分からどんどん話をするようになっていったんです」と團村さん。
サポステに来る若者の中には、働いた経験が全くない人もいれば、以前に勤めていた職場でつらい思いをしたことが原因でひきこもってしまったという人もいる。
「働くことに強い不安を感じている人が多いんです。農作業の場合は、自分がやったことの成果が目に見えるし、誰かにおいしいと言ってもらえる。そういう積み重ねが、『働くのって楽しいんだな』という発見につながっていくのではないでしょうか」(團村さん)
農場では、年間30品目を超える野菜や小麦の栽培だけでなく、地元農家さんの協力でジャム加工をしたり、地元市民や企業も参加するブルーベリー狩りのイベント開催など、年間を通じてさまざまな活動をしている。
なかでも、週1回、近所で開く直売所「ニローネマルシェ」では、若者たちが近隣農家の野菜や果物を預かって販売。農家さんは、販売利益の一部を若者の交通費に充ててくれるなど、地域での交流や支え合う仕組みが生まれている。風のすみか農場は着実に、若者が社会と出会える拠点になろうとしているようだ。
「農業体験の成果は数字では測れないものですが、若者はここで確かに生きる力を身につけています。農業とは、食べるものを作ること。つまり、生きることに結びついた作業です。そのことを身体で感じるから、大変でも『やってよかった』となる。そして地域や仲間との交流を経て自信や働くことの喜びを知り、変わっていくのだと思います」(山口さん)