八帖町の多湿な土地が培った「木桶、石積み、二夏二冬」
愛知、三重、岐阜の東海3県は日本でも珍しい豆味噌文化圏。豆こうじに塩と水を加えて仕込む豆味噌の中でも、製造にかける時間や手間、そしてそこから醸し出される味わいも「別格」と評されているのが八丁味噌だ。
八丁味噌を、江戸時代初期から造り続けているのが、「合資会社八丁味噌(以下、カクキュー)」と「株式会社まるや八丁味噌(以下、まるや)」。そもそも八丁味噌という名は、徳川家康公生誕の岡崎城から西に8丁(約870m)の八帖町(旧八丁村)にこの2つの蔵元があることにちなむ。
旧東海道を挟んで南と北に位置するカクキューとまるやは、いわば商売敵。だが、「長い歴史の中、時に競い合い、時に手を取り合いながら、八丁味噌の味を守り続けてきた同志でもあるんです」と、カクキューの19代目当主・早川久右衛門さんは言う。まるや代表取締役社長・浅井信太郎さんも、「ここは何本もの川に挟まれた湿気の多い土地なんですが、こんな場所でも保存が利くようにと、切磋琢磨しているうちにおいしい味噌になったということらしいですよ」と柔和な顔をほころばせる。
薄暗い蔵には、整然と並ぶ大きな木桶。高さ2mほどの桶の上に、さらに3トンもの重石が円すい状に高々と積み上げられている光景は圧巻だ。重いもので1個50kg以上もある川石を、地震でも崩れないほど隙間なくガッチリ組めるようになるまでには7~8年の修行が必要とか。多湿な気候を逆手にとり、保存性を高めるために先人が編み出した『木桶、石積み、二夏二冬』。その伝統製法を、2社は今も忠実に受け継いでいる。
「こうじ菌だけではなく、蔵や木桶、土壌にすみつく雑菌を含めた菌類がそれぞれにいい仕事をしてくれます。円すい状に積み上げた重石には、塩分やうまみを桶全体に均一に回す役目がある。こうして2年以上かけ、四季の変化に任せてゆっくりと熟成させると、塩角がとれたまろやかな味わい深い味噌が仕上がるのです」(浅井さん)。
老舗2社が「八丁味噌」のGI登録から外れる
早川さんと浅井さんが、農水省のホームページを見て仰天したのは2017年12月のこと。GIの登録一覧表に「八丁味噌」と記載され、生産者団体として、カクキューとまるやが所属しない「愛知県味噌溜醤油工業協同組合(以下、県組合)」(※1)が登録されていたのだ。
生産地の欄には「八帖町」ではなく「愛知県」と記されていた。二人が驚いたのは、地域の問題だけではない。登録されたのは、熟成期間や仕込み方法など、製法の点でも明らかに伝統的な八丁味噌とは異なるものだったからだ。
両団体が提示する製造法の違い
味噌玉 | 直径20㎜以上、長さ50㎜以上 | 握りこぶしほどの大きさ |
熟成期間 | 一夏以上熟成(温度調整を行う場合は25℃以上で最低10ヶ月) | 天然醸造で2年以上 |
仕込み桶 | タンク(醸造桶) 材質は問わない |
高さ約2メートルの木桶のみ |
おもし | 材質は問わない | おもしは天然の川石に限る 約3トンを円すい状に積み上げる |
GIとは、「神戸ビーフ」「夕張メロン」のように、「地域名+一般名称」の形(※2)で商品の原産地を特定する表示。もともとヨーロッパで始まった制度で、地域との強い結びつきによって生まれる農産品に対し、その品質にお墨付きを与え、食文化やそれを支える環境、作り手を国内外で保護することを目的とする。
※1:愛知県内43社の味噌・醤油メーカーで組織。
※2:「すんき」のように一部例外あり。
「排除ではない」と農水大臣は言うが……
日本でGI制度がスタートした直後、「八丁味噌」という名称で先に申請したのは、実はカクキューとまるやで組織する「八丁味噌協同組合(以下、八丁組合)」のほうだった。遅れをとる形になった県組合の申請は意見書扱いだったという。ところが、「生産地 岡崎市八帖町」とした八丁組合に対し、農水省は「生産地を愛知県に広げるように」と要請してきたのだ。
「愛知県に拡大する理由についての明確な説明はありませんでした。けれど私どもは、八丁味噌の風味や味わいは、蔵のあるこの八帖町特有の地形や気候、それにここの土壌にすみついているさまざまな菌、400年続く伝統製法によって醸されるものと考えています。愛知県全域まで生産地を広げてしまっては、100年先までこの味を届け続ける保障ができない。検討の末、お断りしたのです」(早川さん)
老舗2社は、農水省の担当者を蔵に案内し、「なぜ八帖町でなければならないのか」を説明するなど可能性をぎりぎりまで探ったが、農水省は「愛知県に拡大しなければ登録は認めない」の一点張り。「八丁味噌」の名前を傷つけないために、八丁組合はやむなく申請を取り下げざるを得なかった。ところが、その直後に生産地を「愛知県」とする県組合の申請が公示され、半年後に県組合の「八丁味噌」がGI登録されてしまったのだ。
今回の登録によって、この先、県組合に所属するメーカーの造った味噌には国の認定を受けた生産者ということでGIマークがつき、県組合に加入していない老舗2社の味噌はGIマークのみならず、「八丁味噌」という名称そのものも使用できなくなる可能性があるという。(※3)。
「県組合の申請が公示されたのを見て、すぐに八丁組合、岡崎市役所、岡崎商工会議所の三者でそれぞれ異議を申し立てました。農水省も『登録には産地に関わる利害関係者の合意形成が必要』と説明していたので、まさかそのまま登録されてしまうとは思っていなかった」と早川さんは悔しそうな表情を見せる。
老舗2社が登録から外れたことについて、農水大臣は「2社を排除したわけではなく、認定した枠組みに追加申請すればGIの対象になる」との見解を示す。しかし、浅井さんは、「それでは土地由来の条件も製法もまったく異なる味噌に同じ名前がつくことになる。『八丁味噌』の名前は残るかもしれないけれど、実態はまったく変わってしまうでしょう。消費者に対しても無責任では」と憤る。
※3:国内の既存商品については「先使用権」によって当面、老舗2社が「八丁味噌」の表示をすることが認められるが、EUへの輸出に関しては、日欧EPA施行時点で「八丁味噌」と名乗ることができなくなる。また、国内でも老舗2社の八丁味噌を使った加工品に「八丁味噌使用」と表示できない可能性もある。
日本のGI制度には「テロワール(風土)」が欠如
八丁味噌を400年も守り続けてきた老舗が「八丁味噌」を名乗れなくなる――こうした事態に対し、「起こるべくして起こったこと」と語るのは、愛知学院大学経済学部准教授の関根佳恵さんだ。日本がモデルとしたEUのGI制度について詳しい関根さんは、「今の日本のGI制度にはいくつか課題がある。八丁味噌はそれが表面化した事例といえるでしょう」と分析する。
関根さんが最大の課題として挙げたのは、EUのGI制度の基軸となっている「テロワール」という考え方が、日本の制度では欠如していることだ。
「『風土』を指すフランス語ですが、風土というだけでは表現しきれないものも含みます。土壌、地形、水、気候、動植物などの遺伝資源に加え、人的要素、つまり技術や知恵、伝統や歴史、文化……そういったものが融合した、他の地域では形成できない唯一無二の味わいや風味、品質――それがテロワールです」
関根さんが地理的表示の研究の一環で農水省に説明を求めたところ、返ってきたのは「八帖町では範囲が狭すぎる」との回答だったという。「本来、GIという制度そのものが、農産品の生産地を他と区分けして、地域内の共有財産として保護するためのもの。八帖町で培われてきた伝統製法にこだわる老舗2社の主張がないがしろにされたことは、日本のGI制度でテロワールが尊重されていないことの証であり、私の周りのフランスやイタリアの専門家も首をかしげています」
さらに、「日本の制度では、申請された農産品を科学的、客観的に分析・評価する体制が確立されていない」と関根さん。
EUのGI制度では、受理するまでに徹底して成分分析や官能検査に基づく議論がなされるが、日本では、書類上の審査が基本。八丁味噌組合の八丁味噌と県組合の八丁味噌が、品質的にどう違うのか、あるいは違わないのかということについて、成分の比較や地域固有の条件と味や香りとの関わりなどの検証は義務化されていないのが現状だ。
「客観的評価を欠いた状態で学識経験者委員会の中で決められてしまい、意見書に回答する義務も国にはない。何が議論されたのかの議事録が公開されず、審理の過程が不透明なのも問題です」と関根さんは指摘する。
先述した農水大臣の「排除ではない」という発言についても関根さんは、「とても表面的な理解だと思います」と言う。
「実際に県組合に所属するメーカーの中には、工業的に大量生産している味噌もあります。そうなったら老舗2社の味噌とは価格的にも大きな差が生じるでしょう。たとえ同じ枠組みの中でGIマークをつけて販売するということになっても、小規模で時間をかけて造っている老舗2社が不利なことは明らか。長い目で見た場合、老舗2社の方が市場から排除される可能性を高めることになると思います」
消費者がブランドに求めているものは何か?
八丁味噌のGI登録の背景にある農水省の思惑を、「すでに世に知られている名前をつけることで愛知県全体の味噌の知名度を上げ、輸出を有利にしたいと考えたのかもしれない」と推察するのは、パルシステム生活協同組合連合会顧問の山本伸司さん。
「意図的に対象を拡大するようなことは、産地や食文化を守るというGI制度の趣旨からはずれています。大量生産も否定はしないが、原型モデルに対するリスペクトがあってこその普及版。金も銀も銅もあっていいが、金は金として違いを明確にし残していく必要がある。どちらも残したうえで、金も銅も一緒にしてしまえば、いずれ大量生産の安価品が市場を席巻し、我々には“金”という選択肢はなくなってしまうでしょう」
パルシステムでの商品開発を通し、地域社会に根ざした食づくりや食文化の保護、継承活動を牽引してきた山本さんは、消費者の視点からこう付け加える。「本来食とは、自然条件や人々の暮らしぶり、暮らしのリズムといったものまで含めた、土地に由来するすべてによって形作られるもの。特に味噌のような発酵食品の価値は、土地や作り手と決して切り離せるものではない。消費者がブランドに求めているのは、単なる名前ではありません」
価値を共有できれば本物は残る
今後、「八丁味噌」の問題はどう展開していくのだろうか。
八丁味噌のGI登録が明らかになって以降、両者の対立の構造を取り上げる報道が目立ったが、関根さんは、「この問題を、メーカー同士の争いに歪曲するべきではない」と言う。
問題の本質は、日本のGI制度が真に地域の伝統的な食品や小規模経営の作り手を守る制度になっているか、ひいては地域の活性化につながる仕組みになっているかということ。
「この問題を国民的議論にしていけば、GI制度をよりよいものに変えていけるはず。これを機に、行政がよき伴走者となって産地の合意形成をはかるなど、地域発展の土壌をつくるという本来の目的に沿った制度へと改善されていくことを望みます」(関根さん)
「この先どうなるのか……」と不安を口にしながらも、「今回のことで、岡崎市民に『八丁味噌は郷土の宝』という思いを改めて確認していただけたことはよかった」と早川さん。浅井さんも「これをきっかけに、国内外の人たちに、八丁味噌の歴史や味わいをこれまで以上にしっかり伝えていきたい」と意気込む。
「事は八丁味噌だけの問題ではない。食べ物とはどういうものなのか。本物とは何か。私たちの食に対する思想が問われている局面ではないか」と山本さん。
「まずは消費者や一般市民が、『八丁味噌とはそもそもこういうもの』と理解することが大事。本当の価値を作り手と消費者とでしっかり共有できれば、“本物”は必ず残ります」