完成していない、ほころびがある詩だから、読んだ人が入ってきてくれた
永江朗(以下、永江) 絵本『生きる』は、谷川さんの詩と岡本よしろうさんの絵で構成されています。この詩「生きる」は、1971年に出た詩集『うつむく青年』に収録されていますから、書かれたのは60年代後半。半世紀にもわたって愛され続けている詩です。
谷川俊太郎(以下、谷川) 自分としては、そんなによくできた詩だと思っていなかったんですよ。でも、きっちり完成した詩よりも、どこかほころびがあるほうが、人は入っていけるんですね。この詩には、「ミニスカート」とか「ヨハン・シュトラウス」とか具体的な固有名詞がちょこちょこ出てきます。そういうことがあるから、読んだ人は自分たちも「生きるとはどういうことか」と参加してくれたわけですね。
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
(詩「生きる」〈谷川俊太郎〉より)
永江 この詩とは別の「生きる」という詩を、20代のころにもお書きになっていますね。
谷川 ええ。僕には「書く」よりも「生きる」が大事でした。普通、詩を書く人はみんな、書くことが大事でしょう? 僕は「生活しなきゃ」と。「いい詩を書こう」とか「将来に残る詩を書こう」ということよりも先に、「どうやって金を稼ぐか」が大問題だったの(笑)。
永江 切実だったんですね。
谷川 そうですね、いつも。それと、僕は若いころから「生きる」ことと「生活する」ことを区別していました。人間にとっては生活よりも生きることの方が大事です。生活するということは、どうしても社会との関係で、給料をもらったりとか、人とつきあったりすることが必要でしょう? 生きるというのは、人間も哺乳類の一つとして、命をもった存在として、宇宙の中で生きるということ。自分が宇宙の中の存在であると同時に、人間社会の中の存在であるという二重性がある。詩を書くときはその両方をちゃんと持っていなきゃいけない。
この絵本は「死」から始まり、「生きる」につながる
永江 絵本化について出版社からお話があったとき、どんなふうに思われましたか?
谷川 この詩が割とポピュラーになって、いろんな人がいろんな形でかかわってきていたのが、僕はすごくうれしくて。こういう形で詩が広まっていくのが、若いころからの理想だったんですよ。ほかにも「生きる」に新たな言葉や写真をつけてくれた人たちがいたりします。
今回の絵本は、描いた岡本さんの解釈の仕方というか、絵の場面がすごくいいなと思って。僕が考えていたことをさりげなく絵にしてくれた。すごく気に入っています。
永江 岡本さんとは何度も打ち合わせをなさったんですか。
谷川 僕は会ったことがないの。連絡は出版社の福音館書店の編集者を介してで、でき上がったのを見て「これはいいな」と伝えました。
永江 絵本の担当編集者さんは、どうしてこの本を作ろうと考えたんですか?
現代に響くのは、「いま」を書いているから
永江 作者の想像を超えて多くの人に読み継がれていることについて、ご自身ではどのようにお考えになっていますか?
谷川 この詩がなぜポピュラーになったのかについて、自分なりの分析はあるんですよ。評論家の加藤周一さんが『日本文化における時間と空間』(岩波書店)で、「いま・ここ」というのは日本人の感性の基本だと書いています。必ずしも肯定的に評価しているわけではないのですが。この詩では、「生きているということ」だけじゃなくて、「いま」とついていることがミソなんじゃないかな。
ウォーコップというイギリスの哲学者は、生きることを「生きる挙動:living behaviour」と「死を回避する挙動:death-avoiding behaviour」の二つに分けています。僕には、現代人の行動のほとんどは死を回避する挙動ばかりに見える。「生きる挙動」というのは内部からわいてくるエネルギーみたいなもので、こっちのほうが大事だと思う。この絵本は、死を回避するほうではなくて、生きる挙動について書いている。
永江 ここ最近、世界中で分断と対立が激しくなっていると感じます。インターネットが登場し、SNSのように誰もが発信できるツールが手に入ったのに、むしろ人々は孤立するようになりました。まるでバベルの塔の神話[1]のよう。この時代に、「生きる」という詩によって人々がつながっていくのは感動的です。
谷川 それは言葉の力ですね。僕は作者の力だとはあまり思わない。もちろん僕が書いたんだけど、自分の中から言葉が出てきたというよりも、過去の膨大な日本語の集積の中からこういう言葉を自分が選ぶことができた、という感触なんですよね。
谷川さん宅の本棚。“膨大な日本語の集積”の一部
永江 以前、谷川さんは「僕は詩を書きはじめた十代のころから、言葉を信用していない、詩も信用していない人間なんです」とおっしゃっていました。そして、信用していないということで、詩を書き続けることができた、とも。
谷川 書いているときは信じざるを得なくて、でも詩の中ではさんざん言葉を疑い、詩を疑っています。そのダイナミクスがいいんじゃないか。詩に限らず、100%信じるということはなくて、どんなことでも、たとえ90%は信じても、10%は疑う。
永江 そして、書き続ける。
谷川 だって、ほかに生活の手立てがない(笑)。詩はどんどん売れなくなってきている。ロックとかの歌詞も詩の一種なんだけど、音楽と一緒になると強くて、ものすごい数が売れたりする。CDの売れ行きが落ちても、ダウンロードして聴いているわけだから。僕も今度出す詩集は、紙の書籍ではなく、『今日の一篇』[2]みたいに、インターネットで見てもらうような形にしようと思っています。
永江 インターネットや電子書籍にも早くから取り組んでこられましたね。
谷川 割と早くからCD-ROMとかそういうもので絵を見たり読んだりすることが好きでしたから。メディアが広がっていくことは詩にとっていいことだと思っているんですよ。
永江 ああ、ラジオ少年らしい発言です。
谷川 元ラジオ少年[3]ね。
永江 この記事の読者の中には、お子さんのいるお父さんお母さんも多いのですが、子どもが詩や絵本に触れるきっかけを作るのにはどうしたらいいでしょう。
谷川 何か好きなものを見つけるのがいちばんだと思う。書店で立ち読みしてもいいし、テレビでも本の紹介番組がけっこうある。自分の感性に引っかかってきたものを読んでみて、それがおもしろかったら同じ作者のものをまた読んでみる。あまり世間の評価に流されないほうがいい。わたしはこれが好き、というのがいいと思います。