無茶々園の生産者、森下孝さん

写真=坂本博和(写真工房坂本)

もうからない有機農業から始まった「無茶々園」が目指す、百歳まで笑って暮らせるコミュニティーづくり

  • 食と農

45年前、みかんの有機栽培を目指してたった3人から始まった「無茶々園」。今では地域協同組合として、地域の農産物や海産物、加工品や真珠なども広く販売する。数年前からは福祉事業も展開。雇用を生み、地域の若い担い手を呼び込んできた。今後は、エネルギー自給や観光事業にも取り組む計画だ。こうした挑戦の先に描くのは、「自立した地域」の姿。つねに10年、20年先を見据えて「種をまいてきた」という無茶々園の取り組みを紹介する。

45年かけて、目指してきたもの

 愛媛県の南西部、入り組んだ海岸沿いに車を走らせると、無茶々園の農地が7割を占める西予市明浜町狩浜地区にたどり着く。山と海の間のわずかな平地に家が密集し、急峻な斜面は段々畑で埋め尽くされている。白い石灰岩が特徴的な石垣は、江戸時代から先人がこつこつと築いてきたものだ。

段々畑のようす

地域の先人たちが、長い時間をかけて築いた段々畑(写真=坂本博和)

 この段々畑で、できるだけ農薬を使わずに栽培された柑橘類は、パルシステムをはじめとする生活協同組合などを中心に販売されている。もともとは3人から始まった無茶々園だが、今では明浜町以外にも取り組みが広がって、会員農家70人以上、売上高は加工品も含めて9億円を超える規模になった。

 1990年代からは新規就農者を積極的に受け入れており、職員の8割が移住者だ。周囲では過疎化が進む中、この地区では急激な人口減少は起こっていないという。2013年には福祉事業もスタートし、地域の高齢者の生きがいや居場所づくりにも取り組んでいる。

 農業だけにとどまらない活動のベースにあるのは、無茶々園が目指し続けてきた「自立した地域づくり」への強い思いだ。

市場価格の暴落から有機栽培へ

 昭和30年代、日本の農業は大きな変化を迎える。それまでの自給的な農業から、単一商品作物を栽培する「もうかる農業」への転換が進められたのだ。芋や麦を栽培していた明浜町の段々畑も、一面のみかん畑へと変わっていった。

 しかし、やがて全国的に生産過剰となって市場価格は暴落。農家は窮地に立たされた。そんな中で、狩浜地区の農業後継者3人が有機栽培を目指そうと立ち上げたのが「無茶々園」だった。

創設メンバーの斉藤正治さんと片山元治さん

創設メンバーの斉藤正治さん(左)と片山元治さん(右)(写真提供=無茶々園)

収獲前の極早生みかん

40年以上、柑橘の有機栽培を行ってきた(写真=坂本博和)

 「最初は、ほかの産地との差別化を図るための有機農業だったんですよ」と話すのは、無茶々園グループの商品販売を担う「株式会社 地域法人 無茶々園」代表取締役の大津清次さんだ。

 「創設メンバーが始めたときは、有機農業のことも産直のことも全然分からなかったそうです。日本有機農業研究会(※)を訪ねて、『有機栽培でみかんを作ったから買ってほしい』と頼んだら、『お前らはアホか!』と一喝されたと聞きました(笑)」

インタビューに応える株式会社地域法人無茶々園の代表取締役・大津清次さん

株式会社 地域法人 無茶々園の代表取締役・大津清次さん(写真=坂本博和)

 有機農業を行って消費者と産直関係を結ぶというのは、単純なモノの売り買いとは違う。生産者と消費者との相互理解があって初めて成り立つもの――そのことを無茶々園のメンバーは消費者運動を通じて学んでいったのだと話す。

 時代はちょうど、有吉佐和子の長編作品『複合汚染』が世の中に広まったころ。畑で農薬や化学肥料、除草剤を多用すれば、生産者の健康にも目の前にある海の生態系にも影響が及ぶと気づき、婦人部によるせっけん運動が始まるなど、地域の環境や暮らし方の見直しにもつながっていった。

収獲された極早生みかん

10月の極早生みかんから初夏の河内晩柑まで、季節ごとの柑橘を育てる(写真=坂本博和)

 「そもそも機械も入らない急傾斜の土地で『もうかる農業』なんてできるわけがない。じゃあ、お金がなくても地域で安心して暮らせる仕組みが必要だろう、と。産直運動で自立した百姓を目指し、楽しく農業ができる農村をつくっていこうと考えたんです。そこから、『自立した地域づくり』という発想が生まれました」と大津さん。

※:有機農業の探究、実践、普及啓発、交流などを目的に、生産者と消費者、研究者を中心として1971年に結成された団体。

無茶々園の組織図

地域の課題に取り組む中で、無茶々園の組織は多様に拡大していった

海と山の循環で、豊かな地域の環境を守る

 無茶々園は、一般的に知られる柑橘だけでなく、ちりめんじゃこや真珠の生産・販売も行っている。山と海がつながるこの地域では、それぞれの生産者が共に環境保全活動に取り組むことで、豊かな自然がお互いに恵みをもたらし合う地域循環型経済が生まれていった。

真珠を育てるアコヤ貝を洗浄するようす

真珠を育てるアコヤ貝を洗浄するようす(写真=坂本博和)

 真珠生産者の佐藤和文さん(佐藤真珠)は、「僕が子どものころは、5月になると畑のスプリンクラーから消毒液のにおいがしていたんです。でも、今はみかんの花が香る。農薬を使わない無茶々園の生産者が地域に増えたことで、海の環境は目に見えて変わりました」と振り返る。

 ちりめん漁師の佐藤哲三郎さん(網元 祇園丸)は、定期的に地元や関東の小中学校を訪れて食育活動を行い、豊かな生態系を守るために子どもと一緒に海藻を植えるなどの取り組みを行っている。

 二人とも親の代から無茶々園に参加しており、これからの地域を担っていく後継者だ。

真珠生産者の佐藤和文さんとちりめん漁師の佐藤哲三郎さん

ちりめん漁師の佐藤哲三郎さん(左)と真珠生産者の佐藤和文さん(右)(写真=坂本博和)

 和文さんは、大学卒業後に県外の企業で働いてから家業を継ぐために15年前に地元に戻った。そのとき、すでに青年団はなくなっていたため、新しく青年会を立ち上げたという。

 「青年会では地域の祭りとか運動会の運営もしています。青年会がなかったら地域行事は続かなかったかもしれない。この地区には無茶々園があるから、ほかよりも若い人が多いんです。消防団など地域活動はほかにもあって、飲み会も多い(笑)。お金がなくても、いつも地域の人がお酒を差し入れてくれます」

 地元を離れた同級生たちは多いが、地域の人がいちばん大事にしている秋祭りの時期には、仕事を休んでみんな帰ってくるのだという。

祭りで使う牛鬼のお面

佐藤真珠の事務所には、祭りで使われる牛鬼の面が飾られていた(写真=坂本博和)

 「働く場があれば戻りたいという人はたくさんいるだろうし、そういう場をつくっていくのも無茶々園の役割だと思っています。コンビニは一軒もないけど、山も海もあって、ここでの暮らしは楽しいんですよ」(和文さん)

新規就農者を受け入れる仕組み

 無茶々園には、県外からも農業をしたいという若者が集まってくる。しかし、独立農家として生計を立てていくのは容易ではなく、去っていった若者も少なくない。

 そうした経験からできたのが、「有限会社 てんぽ印」だ。県内で複数の大規模農場を運営し、新規就農者も給料制で働くことができる仕組みをつくっている。リーダー役を担っているのは、14年前に石川県から移住してきた村上尚樹さんだ。

有限会社てんぽ印代表の村上尚樹さん

有限会社 てんぽ印代表の村上尚樹さん。彼もまた移住者の一人だ(写真=坂本博和)

 「てんぽ印では、IターンやUターンの人が中心になって農業や加工をしています。農業はまったくの素人という人がほとんど。単純に農業を仕事にしたいだけでなく、多くがここでの生き方や暮らしぶりに引かれてやってくる。ただ農業の現実は厳しいので続かない人も多いのですが……」と村上さん。

 村上さん自身は、学生時代に初めて無茶々園を訪れ、ほかの産地も見て回ったうえでここに戻ってきたという。

 「無茶々園は、一つの組織の中で完結するのではなく、地域ぐるみで活動しているところがほかとは違った。景色もきれいだし、地域文化もあって、人づきあいが上手な人が多い。もちろん『良くも悪くも』という部分はあります。たまに東京に出張で行くと知らない人ばかりだから、すごく気が楽(笑)。でも、ずっといたら寂しくなるんじゃないかな」

極早生みかんを収穫する無茶々園の生産者、森下孝さん

「自分のペースでできる農業が性に合っている」と話すのは、20年前に新規就農して独立農家となった森下孝さん(写真=坂本博和)

移住者にとっての無茶々園とは

 パートナーが無茶々園で働き始めたのをきっかけに、岩手県から移住してきたという職員の藤森美佳さんにも話を聞いた。藤森さんは、柑橘や真珠を活用した化粧品ブランド「yaetoco(ヤエトコ)」にかかわっている。

ハンドクリームやタオルなどのヤエトコの商品

無茶々園の化粧品ブランド「yaetoco」。“家族みんなで使える安心”を大切にしている(写真=坂本博和)

 ジュースを搾ったあとの果皮やそのままでは出荷できないB級品を活用することで、柑橘生産者への支払い価格を少しでも上げたいという思いから「yaetoco」は誕生した。担当しているのは女性職員3人。みんな移住してきたメンバーだという。

 「小さい地域なので、無茶々園の中では職場の同僚でも、外に出ると同級生のお母さんだったり、地域活動の先輩だったりする。移住してきた私にとって無茶々園は、この地域で生活するための情報や決まり事を教えてもらう場でもあるんです」と藤森さん。

yaetocoを担当する藤森美佳さん

yaetocoを担当する藤森美佳さん(写真=坂本博和)

 仕事とプライベートの境があいまいなところはあるが、その分、子育てをしながら働きやすい環境なのだと話す。

 「夏休みで学童保育がないときには、子どもを職場に連れて行くこともあります。働いている姿を見た子どもから『お母さんも、お父さんも楽しそう』と言われました」

 藤森さんに無茶々園の取り組みについて尋ねると、「いろいろやっているので、何をしている組織なのかを説明するときがいちばん困りますよね」と笑う。

 「でも、無茶々園には『地域にとっていいことをしたい』というすごくシンプルな基準があるんです。それは売り上げよりも大事なもの。ここで働くうえで大きな不満がないのは、その基準がぶれることがないし、私自身もそこに共感できるからだと思います」

 このyaetocoの商品づくりには、地域の人たちも協力している。例えば、入浴剤に使うエッセンシャルオイルは、地域の高齢者が手むきしたポンカンの皮から抽出したものだ。

yaetocoのエッセンシャルオイル

yaetocoのエッセンシャルオイル(写真=坂本博和)

 「おばあちゃんたちが家に集まって、おしゃべりしながら皮むきをしているようすは、すごく楽しそうなんですよ。yaetocoの商品は全国のお店に卸しているので、東京のお孫さんから『商品を見かけたよ』と言われてうれしかったという話も聞きます。この商品が少しでも地域への恩返しになればいいなって思いながら働いています」

「農家組織」から「地域組織」へ

 こうして、さまざまな人を巻き込みながら、無茶々園は「自立した地域づくり」を原点に、産直運動、環境保全や雇用づくりに取り組んできた。しかし、本当の意味で「地域組織」になったのは福祉事業を始めてからだと大津さんは話す。

 「今までも地域のものを売ってきたけど、いってみれば無茶々園の生産者のためだったわけ。地域で福祉事業を始めたことで、やっと本当の意味で無茶々園は『農家組織』から『地域組織』になれたんです」

上空からみた秋浜の集落

高齢者の独居世帯も多く、介護は地域にとって大きな課題だ(写真=坂本博和)

 高齢化が進む中、地域の人同士で介護や介護予防に取り組むことは、大津さんにとって長年の目標でもあった。実は、無茶々園が初めてヘルパー養成講座を開催したのは1995年のこと。受講者に地域でヘルパーステーションをつくろうと提案したが、事業の立ち上げには至らなかったという。

 2009年に高齢者の見守りを兼ねた週1回の配食サービスが始まるが、本格的な福祉事業を担う「株式会社 百笑一輝」ができたのはようやく2013年になってから。ヘルパー養成講座開催から18年がたっていた。

 この立ち上げを支えたのは、長年ほかの地域で介護事業に携わってきた清家真知子さんだ。なんとヘルパー養成講座の第1期生だという。「放流したサケが、やっと戻ってきたようなもんやな!」と大津さん。

有料老人ホームの施設外観

百笑一輝が運営する住宅型有料老人ホーム、デイサービスの施設「めぐみの里」(写真=坂本博和)

この地域で、共に生き、共に働く

 百笑一輝という名前には「百歳まで元気で笑顔で過ごしてほしい」という思いが込められている。「共に生きる・共に働く・自宅で最期を迎える」を理念に、この地域ならではの福祉の在り方を考えてきた。

 農家のほとんどは国民年金のみの加入者で、受給額は月55000円ほど。そこで有料老人ホームの利用料を年金+αで利用できる月10~12万円にするなど、平均よりも低く設定している。さらにユニークな取り組みとして、デイサービスで仕事の機会も提供する。

 「いつもはほとんど寝ている104歳のおばあちゃんも、そらまめの皮むき仕事があるときは張り切ってやってくれるんですよ」と清家さん。

インタビューに応える百笑一輝の清家真知子さん

百笑一輝の清家真知子さん。子どもや障害者も含めた福祉の総合拠点をつくりたいと話す(写真=坂本博和)

 無茶々園で販売しているタオルの袋詰め作業もここで行っている。高齢者になっても、何かできることをしたい、誰かの役に立ちたいという思いは同じだ。仕事をすることが生きがいや介護予防につながり、わずかでも収入を得ることができる。

 さらに、清家さんは、百笑一輝を利用していない地域の高齢者にも、パーティー用のクラッカーづくりなどの仕事の機会を提供している。自分の休日を割いて行っている活動だが、「まちこちゃん、今日は来ないの?」「おかずを作ったから持って帰って」とみんなが待っているため、やめられないのだという。そう話す清家さんの表情はどこかうれしそうだ。

ポンカンの皮をむくお年寄り

ポンカンの皮むきは、介護予防であり、お年寄りの手仕事の場の提供にもなっている(写真提供=無茶々園)

 地域の人から介護相談を受けることも多くなり、居宅介護支援、介護タクシー、訪問看護、元気な高齢者のための居場所サロンなど、ニーズにこたえる形で百笑一輝は事業を広げてきた。

 「目指しているのは、地域の駆け込み寺のような場所。地域から若い人が減っていき、高齢者はこの先どう暮らしていくのか不安を抱えています。『何かあったらここに頼ればいいんだ』と安心してもらいたいんです」と清家さん。

老人ホームの個室の入口に、手作りの飾りが飾られている

個室の入り口に、手作りの飾りが掛けられていた(写真=坂本博和)

 今、百笑一輝で働く職員は50人以上。新しい雇用を生み出す場にもなっている。職員の年齢は19歳から68歳。最高齢では80歳のかたも働いていたそうだ。

 「76歳になってから初めてヘルパーデビューした人もいるんですよ(笑)。移住してくる職員のための住宅、子育てや介護をしながら働ける環境も整えていきたいと思っています」と清家さん。

 清家さんは、地域の個人や団体とも協力しながら、百笑一輝を地域の総合福祉拠点にしたいと思い描く。障害のある子どもたちの就労支援、高齢者向けの共同住宅、子ども食堂など、取り組みたいことは、たくさんある。

 子どもから高齢者までが、共に支え合い、活躍する場を持ち、最期まで笑って暮らせる地域――まさにそれは、無茶々園が目指してきた姿なのだろう。

未来を見据えて、種をまく

 活動を始めてから45年。無茶々園では、若い世代へのバトンタッチも進みつつある。2年前、柑橘生産者をまとめる「農事組合法人 無茶々園」の代表理事を継いだのは、40代の宇都宮幸博さんだ。

 「世代が替わっても、『地域のため』という活動方針は変わりません」と宇都宮さんは断言する。経営を持続できるように農家の収入を上げていくとともに、地域の観光業にも力を入れていくことが、今の目標だ。

農事組合法人無茶々園の代表理事、宇都宮幸博さん

農事組合法人 無茶々園代表理事の宇都宮幸博さん。山の上のほ場からは、明浜の海が一望できる(写真=坂本博和)

 「このきれいな景色は地域の宝。余計なものは造らずに、ありのままを楽しんでもらえる方法を考えています。そうすることで、地域を知ってもらって移住者を増やし、農業をしながら農家民宿や海のガイドをするなど、仕事の選択肢も増やしていきたい」と宇都宮さん。

明浜の海を上空から見た景色

景色はもちろん、この地域の暮らしを丸ごと体験できるような観光を考えている(写真=坂本博和)

 昨年の西日本豪雨によって山の斜面が崩壊し、柑橘の木が流されるなど、無茶々園も大きな被害を受けた。こうした自然災害のリスクに備えるためにも、「農業+α」の複業的な働き方を生み出していくことは切実な課題にもなっているのだ。

 このほかにも、太陽光発電によるエネルギー自給、廃校となった小学校跡地を利用したコミュニティースペースづくりなど、自立した地域づくりに向けた構想は尽きない。

ソーラーパネルが設置された、無茶々園の事務所の入る元小学校の建物

無茶々園の事務所が入る地域の元小学校。ソーラーパネルでエネルギー自給にも取り組む(写真=坂本博和)

 大津さんは、無茶々園の歴史を振り返りながら、「今思うと無茶々園の創設者の人たちは偉かった」と言う。

 「無謀な投資や失敗もあったけど、有機栽培への転換、産直や環境への取り組みといった未来への種をまいてきてくれた。その実りを、今僕らが刈り取っているんです。種をまかない農家に未来はない。僕らがしなくてはいけないのは、10年後、20年後の地域を見据えて、種をまいていくことだと思っています」(大津さん)

取材協力=地域協同組合 無茶々園 取材・文=中村未絵 写真=坂本博和(写真工房坂本) 構成=編集部