「核兵器は必要悪」の言葉にショック
――奥野さんは3年前、10代のころから核廃絶や平和を求める活動をされています。きっかけは何だったのでしょうか?
奥野 私は広島で生まれ育って、多くの都道府県とは違う平和教育を受けてきました。小学校でも被ばく者のお話を聞く機会があったし、「核廃絶」や「平和」という言葉はすごく身近なものだったんです。だけど、自分から何か行動していたのかというと、全然そんなことはありませんでした。
平和活動に参加したのは、17歳の時に広島で日米の高校生が集まるサマースクールに参加したのがきっかけです。最初は「英語がしゃべれるかも」くらいの気持ちで参加したんです(笑)。みんなで一緒に平和記念公園や広島平和記念資料館にも行きましたが、最後のディスカッションで、米国の高校生が「原爆は落とす必要があった。平和のために核兵器は必要悪」と言ったのです。私は「ええっ!?」と思って、本当にショックで。「核兵器は絶対ダメ」「原爆は二度と落としちゃいけない」という考えを当然のように聞いて育ってきたので全然理解できなかったんですよね。
「被ばく者たちがあれだけ苦しんだ原爆を必要だったと言うなんてありえない」と怒りや悔しさがわいて、必死で反論しました。そんな私のようすを見て、サマースクールを主催していた平和教育を広めるNPO法人「Peace Culture Village(PCV)」のスタッフから活動に参加しないかと声をかけられたんです。
――それは、すごくショッキングな経験でしたね……。
奥野 そうなんです。でも、後から勉強したり考えたりしていく中で、あの発言は彼が受けてきた教育によるものなんだと思うようになりました。教育はすごく大切なんだな、とも改めて感じました。それまで私は日本以外で核兵器がどう認知されているのかを知る機会がなかったんですよね。
その米国の高校生も私も、「平和な世界がいい」と思っている点では同じです。単純に「こっちがよい、あっちが悪い」というのではなく、いろいろな視点を知ったうえで、どう理解し合えるのかを考えることが平和な未来につながります。当時は感情的になってしまったけど、今だったら「核を持っていても戦争が起きることはあるよね」と、もう少し時間をかけて相手と対話をすると思います。
広島では「平和」を考える機会が多い
――広島で受けた平和教育の経験について、もう少し教えてもらえますか?
奥野 広島市内の公立小学校に通っていたのですが、その小学校での経験が私にとってはすごく大きいです。学校に保護者が来て絵本の読み聞かせをする時間があったのですが、夏が近づくと平和関連の絵本になる。そうした絵本を通じて「ああ、戦争はいけないことなんだ」と学んだ気がします。
ほかにも、校外学習で平和記念公園や資料館に行き、音楽の授業では平和の歌を覚えます。総合の授業でも平和について学びましたし、夏休み中も原爆が投下された8月6日は登校日でした。そういう意味では、平和教育をたくさん受けて育ちましたね。
市内にいると生活圏内に原爆ドームやいろいろなモニュメントがあるので、平和や戦争について自然と考える機会がたくさんあるんですよ。
――被ばく者のお話を聞く機会も多かったそうですが、その影響も大きいですか?
奥野 戦争を体験した人が目の前にいるインパクトはやはり大きいです。逆にいうと今後、原爆の被ばく体験を語れるかたがいなくなってしまったときに、どうしていくのかという課題があります。私たちが広島の被ばく者の声を直接聞ける最後の世代になると思うので……。
今広島では、被ばく体験の継承者を育てる事業や、まるでその人が目の前にいるかのようなバーチャルリアリティー映像の制作など、いろいろな試みがなされています。でも、被ばく者の声を残すだけでなく、それを多くの人にどう届けるのかも、みんなで考えていかないといけないですよね。
中高生に戦争や原爆をどう伝えるか
――現在は東京の大学に通われていますが、広島と行き来しながらPCVで修学旅行生への平和学習ツアーのガイド活動を続けているそうですね。
奥野 年に数回、とくに修学旅行シーズンに合わせて広島に帰ることが多いです。修学旅行で広島に来るのは中高生が多いのですが、小学生の子供たちもいます。最近はガイドをやりたいという大学生のメンバーが増えてきました。広島にいる大学生を中心に、10代の高校生から30代の社会人まで約50人が平和学習ツアーのガイドをしています。
――ツアーでは中高生にどんな話をするのでしょうか?
奥野 被ばく者のお話ももちろん聞いてもらいますが、それ以外にも平和記念公園のある旧中島地区で当時の人たちがどんな生活をしていたのかを知ってもらい、今の私たちの生活と照らし合わせてイメージしてもらうこともします。そうすると、自分たちと同じような日常があったんだなと気づく。そこから、「その日常を一瞬にして奪うのが核兵器なんだよ」という話をするんです。
戦争や原爆のことを「自分事」にしてもらうためには、過去を知ることだけでなく、平和な未来を作るために「自分たちに何ができるのか」を考えることも大事です。一緒に話し合うと「当たり前の日常に感謝する」「募金をする」「広島のことを周りの人に伝える」など、いろいろなアイデアが出てきます。それを「いいね、私もやってみよう」とみんなで共有する。
最初は「修学旅行は東京がよかったのに」と言う子もいるんですけど(笑)、ツアーの最後には顔つきが全然違っています。ガイドのメンバーは中高生と世代が近いので、友達としゃべっているみたいな感覚で聞いてもらえるのだと思います。
自分の行動が政府の姿勢にもつながる
――「平和な未来を作る」ためには、何が必要だと思いますか?
奥野 自分自身や顔の見える範囲を平和にするところからでしょうか。自分の心身の状態が安定していないと、世界平和のことは考えられないですよね。日々生活していたら意見の食い違いも起きる。でも、それは社会の縮図で、自分の周りで起きていることは地球規模でも起きていることだと思うから、まずは自分の周りを平和にしていくことが必要だと思います。
――日本は核兵器禁止条約を批准していません。その状況に対してはどう思っていますか?
奥野 それはもう、すぐに批准してほしいです。総理大臣の岸田文雄さんも補佐官の寺田稔さんも広島選出の政治家です。それなのに批准できないなんて、希望がないと思ってしまう。今すぐ批准するのは無理でも、せめて締約国会議にオブザーバー参加してほしかったです。
ただ、こういう状況になっているのも、やっぱり自分の周りから始まっていると思うんです。自分の住んでいる自治体の議員がどう考えているのかを知り、ちゃんと動いてくれる政治家を選挙で選ぶ、そこから始めていかないといけない。結局、自分たちの行動が今の日本政府の対応にもつながっています。
気候変動と自分の日常がつながった
――平和活動と同じ時期に、気候変動へのアクションも始めています。気候変動に関心を持ったきっかけを教えてください。
奥野 平和学習ツアーのメンバーから、環境活動家であるグレタ・トゥーンベリさんのスピーチ動画を見せてもらったんです。それまでは気候変動と自分の生活のつながりを実感できていませんでしたが、自分と同世代のグレタさんが気候変動による危機的な状況を必死に訴えていました。
科学者の研究によると、私が27歳になる時までに気候変動対策が進んでいないと手遅れになるという指摘もあります。グレタさんがスピーチで、将来子供や孫たちに「なぜ、あなたたちは声を上げなかったのか」と思われるはずと話していて、今行動しないといけないと思いました。
考えてみたら、広島ではひざまで水につかるような豪雨災害がけっこう起きるのですが、それも気候変動と無関係ではないんですよね。こうした災害がもっとひどくなるかもしれません。
――気候変動と身の回りの出来事が結びついたのですね。
奥野 もう一つ大きな衝撃だったのが、私たちの生活が気候危機の原因になっていて、そのせいでほかの国のだれかが苦しんでいるという事実でした。ちょうど高校2年の時にフィリピンに短期留学して、発展途上国の現状を見ていました。
気候変動は発展途上国により深刻な影響を及ぼしています。フィリピンでは日々の暮らしが大変な人がたくさんいる中、台風被害でさらに家を失うといったことが起きています。それは私たち先進国が大量に温室効果ガスを出してきたことが原因でもあるんです。
――平和活動を始めたのと同じ時期に、気候変動に対する世界的な若者のムーブメント「フライデーズ・フォー・フューチャー(FFF)」の広島支部を独りで立ち上げています。
奥野 FFFはグレタさんに共感した世界中の若者によって広がったムーブメントで、日本でも高校生や大学生を中心に全国で活動している人たちがいます。当時は広島で活動している人がいなかったので「FFF広島」を立ち上げて、気候変動の問題を多くの人に知ってもらいたいと思いました。
気候変動対策は政治が取り組むべきですが、そのとき私は17歳で選挙権もありませんでした。自分にできることを考えたときに、気候変動対策を求める署名運動やマーチなどのアクションだったのです。
核兵器も気候危機も「平和」を奪う
――「核の問題も気候危機もつながっている」とよく話されていますが、それはどういうことなのでしょうか?
奥野 例えば気候変動によって世界中で災害や食料不足が起きていますが、それが紛争や戦争を引き起こす原因になる可能性があります。もし戦争が起きれば核兵器使用のリスクも高まる。また、気候変動対策として原発を推進する動きがありますが、今回のウクライナ侵攻の状況を見ても、戦時には原発が攻撃されれば、放射性物質をまき散らす核兵器になりうる恐ろしさを、多くの人が実感したのではないでしょうか。
そう考えると、この二つはつながっている問題です。核兵器が平和を奪うものであるのと同じように、気候危機も平和を奪う。地球環境問題に取り組むことは、戦争のない平和な未来を作ることにもつながると思って活動しています。
――先ほどもおっしゃっていたように、発展途上国など社会的に弱い立場にある人たちが、より深刻な影響を受ける点でも共通しています。
奥野 そのとおりです。一部の富裕層が大量の二酸化炭素を出しているのに対し、二酸化炭素排出にほとんど関わっていない途上国や貧困層の人々が気候変動による災害や食料不足に苦しんでいる不公正な状況を変えようという「気候正義」という考え方があります。
気候変動に影響を及ぼす石炭火力発電所が建てられる場所は、先住民の土地であったり、経済的に苦しい地域であったりすることが多いんです。気候変動で食料不足や災害などの影響を受ければ、途上国の人たちの被害はより深刻なものになる。核兵器や原発など「核」の問題でも同じようなことがいえるのではないでしょうか。核や気候変動の解決策を考えるときには、こうした社会の格差に視点を置くことが必要だと感じています。
――奥野さんは、この二つの問題の「橋渡し役になりたい」とも話されていました。
奥野 この二つに限らず、さまざまな社会問題が根っこでつながっていると思うのですが、独りの人間が複数の問題に取り組むのはすごく大変なことです。だから、それぞれの活動をしている人たち同士がもっとつながり合えればいいと思う。
実際に気候危機を訴えるマーチに被ばく者のかたが参加してくださることもありますし、反対に地球環境問題に取り組んでいる大学生の仲間たちに私が広島の原爆のことを伝えることもあります。そうやってお互いのアクションに参加するような動きを作っていきたいと思っています。
抵抗を感じていた「デモ」は、声を届ける手段の一つに
――日本では、社会問題に声を上げることに対してのハードルや、アクションを起こす人を特別視するような傾向があるように思います。
奥野 子供のころ、街頭でデモをしている人に対して周りの大人があまりよく思っていない雰囲気を感じていました。だから、何となく私も怖いイメージがあったし、「デモしている人」みたいに見られたくない気持ちはずっとありましたね(笑)。
初めて原爆死没者慰霊碑前で気候変動対策を呼びかける座り込みに参加したときは、親には言わないで参加したんです。参加したい気持ちとためらう気持ち、両方があったことを覚えています。
でも、今はデモもマーチも市民の声を届ける手段として必要だと実感しています。これだけの人が関心を持っているんだ、というのを可視化できるし、同じ思いを持った人と出会えるのも大事なこと。私自身、「それは大事だよね。何ができるかな」と一緒に考えてくれる仲間と出会えたことが大きかったからです。
世代にかかわらず「みんなの問題」
――今取り組まれていることについて教えてください。
奥野 もっと社会運動全体を盛り上げたいという気持ちがあって、気候変動だけでなくLGBTQやジェンダー平等など、さまざまな社会問題に取り組む同世代の人たちや臨床心理士のかたと一緒に「アクティビストのためのメンタルケア・ガイドブック」を作っているところです。
私自身、「もう頑張れない」と思って活動を休んだ時期もありますが、周りには無理をしすぎて燃え尽きてしまったり、周囲からの誹謗中傷に傷ついたりして、せっかく志があっても活動をやめざるをえなかった人が多くいました。
とくに気候変動はすぐには解決できない大きな問題なので、気持ちが折れてしまいやすい。持続的に活動していくためには、やっぱり自分自身をケアすることも大切です。
――メディアなどで「若い世代が頑張っている」という取り上げ方をされることも多いと思いますが、それに対して「若い世代だけの問題ではない」という発信をされていますね。
奥野 メディアが注目してくれるのはとてもありがたいのですが、私がいつも話しているのは「気候変動も核兵器も若者だけの問題じゃなくて、今生きている人すべての問題」だということです。気候変動にしても、核の問題にしても、影響を受けやすいのは将来世代ではあるのですが、若者だけで解決できる問題ではありません。
世代にかかわらず、「何かしたい」という思いを持っている人はたくさんいるので、それぞれが自分たちの周りの仲間と、それぞれにできることからアクションを起こしていってほしい。人間が作り出した問題は人間が解決できるはずだと信じています。そのためにも、みんなで声を上げて、みんなで解決していきましょう!