はじめよう、これからの暮らしと社会 KOKOCARA

食と暮らし、持続可能な社会を考える、
生協パルシステムの情報メディア

丸木美術館で踊る富永幸葵さん

丸木美術館所蔵の「原爆の図」の前で踊る富永幸葵さん(写真=写真工房坂本)

被爆3世のダンサー。亡き祖母の被爆証言を伝えていく。

  • 環境と平和

ダンサーとして東京都内で活動する富永幸葵(ゆうき)さんは、広島出身の被爆3世。祖母の岡田恵美子さんは1945年8月6日の原爆投下で被爆し、その後、被爆体験の語り部として生涯を貫いた人だった(2021年に84歳で死去)。その遺志を幸葵さんは、どう継いでいこうとしているのか? 丸木美術館所蔵の「原爆の図」を前に話を伺った。

「原爆の図」に映る、生前祖母が語っていた惨状

――今日富永さんにお話を伺っている場所は、画家、丸木位里・丸木俊夫妻の作品「原爆の図」を所蔵している丸木美術館の展示室ですが、作品をご覧になったのは初めてですか?

富永幸葵(以下、富永) はい、実物は初めて拝見しました。「原爆の図」は原爆投下の5年後にその第1部が発表されたそうですね(編集部注:その後32年の歳月をかけて15部まで制作され、第15部〈ながさき〉のみ長崎原爆資料館に所蔵されている)。子どものころから折に触れ、この作品にはさまざまな書物を通じて接してきました。こうして直接見ると、祖母が語り部の活動を通じて語っていた原爆の惨状が生々しく迫ってきて、とても苦しい気持ちになりました。

「原爆の図」を鑑賞する富永さん

初めて見る「原爆の図」に言葉を失う富永さん(写真=写真工房坂本)

――富永さんは10代のころから、祖母の岡田恵美子さんとともに核廃絶や平和を求める活動をされていますね。自身が同行するようになったきっかけは何だったのでしょうか?

富永 祖母は50歳ぐらいから30年以上もの間ずっと、被爆体験の語り部や、海外の紛争地の視察などをしていました。私は被爆3世。幼いころから祖母の活動は何となく知ってはいましたが、当初は祖母の話を興味を持って聞くことも活動に同行することもありませんでした。
 私が保育園のころは、祖母が園に招かれて、みんなと一緒に原爆の話を聞くこともありました。でも、広島って小学校から「平和学習」がごく日常にあって、だれでも少なからず「平和」を考える空気が暮らしの中にあるんです。しばらく興味がわかなかったのは、祖母の活動が特別なことだとは考えていなかったからかもしれません。
 転機は2009年、小学6年生(11歳)のときです。NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議の期間中に、ニューヨークの国連本部で祖母がスピーチする際に私も同行し、そのとき初めて、私自身、自分の言葉で広島や祖母のことをスピーチすることになって。それからです、次第に祖母の活動に興味がわいたのは。高校を卒業してからは、県内での語り部の活動を手伝うようになりました。

語り部の祖母はまったく違う人だった

――そこから、一対一でおばあさまの被爆体験を聞くようになったんですね。祖母としての岡田さんと、語り部としての岡田さんは、富永さんの中では何か違いはありましたか?

富永 全然違いましたね。祖母は、いつでも私を否定したり怒ることのない、穏やかでポジティブな、包容力のある人でしたが、被爆証言になると一転、険しい顔をして、叫ぶように語っていました。
 小学生に語りかけるときの訴えかける強い言い回しは、語り部のときの祖母でしか私は見たことがなかった。祖母自身、ふだんの暮らしの中で、孫の私に当時のことを話すことは一切なかったんです。
 祖母の語る原爆の話はすごく怖くて、もう聞きたくない、広島平和記念資料館にももう行きたくない、と思った記憶があります。ただただ怖い、核兵器なんてもう必要ない、みたいな気持ちだったと思います。

祖母の岡田恵美子さんと

富永さんは祖母の岡田恵美子さんとともに国連でスピーチを果たした(写真提供=富永幸葵さん)

――最初は恐怖心から原爆の話とは距離を取っていたのですね。

富永 それが11歳のときに祖母に同行し、国連でスピーチをすることになりました。「じゃあ、おばあちゃんとちゃんとお勉強しないといけないね、もう1回資料館見に行こうね」ってことになって。
 資料館に行くのは久しぶりでしたが、祖母の知り合いのガイドさんから一つ一つ説明を聞きながら、ああ、こういうことが広島で起きて、祖母はこれを経験したんだって、自分の心の中にスッと入ってきた。そうした感覚は、そのときが初めてだったと思います。

私にできること、あなたにできること

――そして今、20代の富永さんは、さらに下の世代の若者に、被爆者の声を伝えようとされていますね。戦争の記憶の風化が叫ばれる中、おばあさまの遺志をどう「継承」しようとお考えですか?

富永 最初は、祖母がやっていることを自分は引き継げないと思っていました。被爆証言をする祖母の力は被爆当事者だからこそのもので、当時を経験していない自分には人に伝えられる力なんてない、語っていいものだろうかと、「引き継ぐ」ことは一切考えていませんでした。
 でも、祖母は毎回、小学生の修学旅行生たちに、「あなたのできることで、平和を伝えていってくださいね」「私のやり方じゃなくていいから、あなたのできることを通じて、私の話をほかの人につなげてね」と言っていました。

「原爆の図」を背景に語る富永さん

富永さんは「自分なりの継承のしかた」をずっと模索してきた(写真=写真工房坂本)

――「あなたのできることで伝える」。富永さんにとっては、それは何なんでしょう?

富永 祖母は広島の平和活動の分野では有名人でもあったので、私はいつもその隣にいる孫、というポジションだったんです。今も、祖母の名前を通じていろいろなかたと出会います。
 そうそう、つい先日、華子ちゃんからSNSで連絡もらったんです!

――語り部として高校生のころから広島で活動されていた、奥野華子さんですね。富永さんと同じように国際会議の場でスピーチもされた、とてもエネルギッシュな20代ですね。

富永 同世代で、しかも同じテーマで広島での平和活動をしていたのに、実はそれまで会ったことがなかった。それがお互い上京しているのが分かって、それで華子ちゃんのほうから突然連絡をくれたんです。

――積極的ですね! 奥野さんはこのKOKOCARAでもインタビューにこたえてくださったことがあるんですよ。

富永 そうなんですね! 今度一緒にごはん食べようね、って言ってくれて。今、連絡を取り合っている真っ最中なんです。
 実は華子ちゃん、祖母のことを慕っていたそうで、「私自身、岡田さんの影響で被爆証言や平和活動に興味を持った。それでお孫さんである幸葵さんにごあいさつしたくて」と。ここでも、祖母が私をだれかと引き合わせてくれているんだな、って感じました。

被爆者は「暮らし」を語った

――偉大な存在ですね。おばあさまを介して、さまざまな平和のメッセージが今もつながっている。富永さんはそれをダンスで紡いでいるわけですね。

富永 そうですね。平和のバトンを、私は私にできることでつないでいく、ってことなんだと思います。
 今、広島出身のHIPPY(ヒッピー)さんというシンガーソングライター(編集部注:2015年にメジャーデビュー。代表曲の『君に捧げる応援歌』は多くのプロ野球選手が登場曲に使用している。被爆体験の伝承事業に取り組む「原爆の語り部 被爆体験者の証言の会」を開催している)が作られた曲、『日々のハーモニー』とコラボしてダンスをしています。HIPPYさん、祖母の「あなたのできることで伝えて」という言葉にインスパイアされて、祖母のことを題材に、曲を一から作ってくださいました。
 「今のこの広島っていうベースがあるのは、過去にこんな人たちが一生懸命生きて頑張ってくれたから。おかげで私たちは平和に暮らせています」ということを前向きに歌っている曲で、自分もそのメッセージにすごく共感してて。「HIPPYさんの思いも祖母の思いも入っている前向きな曲」ということをイメージしながら踊っています。

――今の日本では原発の再稼働が問題になったり、核兵器禁止条約を批准していないことの是非が問われ、ウクライナではロシアによる原発への武力攻撃や核兵器使用の可能性が話題になってもいます。

富永 被爆者の皆さんは、原爆が落ちたことそのものよりも、投下される前の暮らしや投下後の暮らしについて話すんです。
 原爆が落ちてからの皆さんの暮らしは壮絶でした。家族が亡くなった被爆者の思いを想像すると苦しくなります。そういう思いの一つ一つを丁寧に聞いて、人に考えてもらうためにも、私たちの世代はできるだけ丁寧につなぎ、正確に伝えないといけないと思います。
 国連でのスピーチが終わったあと、一人の男性がお孫さんの写真を見せながら「孫と同い年ぐらいの子がスピーチしているのを見てとても感動したよ」と笑顔で言ってくれました。「一人の人間として家族のことを話してくれた。共感もしてくれた!」と、小学生の自分にとってもすごくうれしかったのを覚えています。私が言ってることは人に伝わっているんだ、という実感です。

多くの出会いが祖母からもたらされた

祖母の存在を通じて多くの出会いが自分にももたらされた(写真=写真工房坂本)

祖母が出会いを運んでくれる

――今は東京で社会人をされているんですね。

富永 子ども向け教育のスクールを運営する会社でご縁をいただきました。スクール内にあるダンススクールでダンスのインストラクターをしています。

――その一方で、先日は「平和」についてのワークショップを子どもたちに向けて開催されたとか。

富永 スクールの社長が祖母の話に深く興味を持ってくださり、場を作ってくださったんです。
 子どもたちと車座になりながら、生前の祖母が語る動画を見てもらいながら、かつて広島で何があったのか、そして今、世界ではいまだに戦争に苦しむ人たちがいること、それは決して自分たちと無関係じゃないことを知ってもらえればと思って。
 小学校低学年の子どもが多かったのですが、想像した以上にみんな、真剣に聞いてくれてうれしかったですね。

子供たちへの平和のワークショップ

東京の子どもたちに「平和」について語るワークショップの機会を得た(写真=編集部)

――東京の、しかも原爆や戦争や、世界のことにはまだまだ実感のない年齢の子どもたちに、何を伝えられればと思いましたか?。

富永 かつてB29から広島に、長崎に落とされた原子爆弾で多くの人が苦しみました。今、戦争で苦しんでいる世界の人の上に、あるいはこの日本でも日々の暮らしに苦しんでいるかもしれない人の上に、飛行機から何か落とすとしたら何を落としてあげたい? って投げかけをしたんです。
 そうしたらみんな、「食べ物を落としたい」「お薬を落としたい」って。難しいことはまだわからなくても、どこかで苦しんでいる、困っている人がいたら何かしてあげたい、きっとこういうものを贈ったら喜ぶんじゃないか、って子どもなりに豊かな想像力が芽生えるんだな、って実感しました。

子供たちに語り掛ける富永さん

子どもたちの真剣なまなざしに、富永さんは確かな手ごたえを感じ始めている(写真=編集部)

――そこでも、きっとおばあさまの存在が富永さんと次の世代をつないでくださったのかもしれないですね。

富永 そうですね。改めて「生の声を聞けない下の世代」に原爆や平和を知ってもらうきっかけを作るのが私の役割、と思えるようになりました。
 原爆の事実を「怖い」だけで終わらせずに、もっと身近なことからアプローチして、これからの平和を作っていくためにつながる人、かかわってもらう人を増やさなきゃ。それが祖母の思いにこたえる私なりの方法だと思っています。

富永さんはさらに次の世代への「継承」を模索している

富永さんのダンスを通じた「継承」の模索は続く(写真=写真工房坂本)

取材協力=丸木美術館 取材・文=編集部 写真=写真工房坂本 構成=編集部