うなぎのまち、鹿児島県・大隅半島
鹿児島を代表する観光地「指宿(いぶすき)」やかつおぶし産地の「枕崎」など、名の知れた地域が多い西側の薩摩半島に対し、鹿児島県の代名詞「桜島」と陸続きなのが東側の大隅半島。火山噴出物が堆積したシラス台地が広がり、地下水が豊富にわく地理的特徴を持つ。
「うなぎの養殖には、きれいな水が欠かせません。大隅の養殖池の中には、人が飲める品質の地下水を使っているところが多い。豊富な地下水を利用できる大隅は、本当に水に恵まれています」
話してくれたのは、大隅地区養まん漁協販売部・部長の奥園久人(おくぞのひさと)さん。大隅のうなぎの魅力を全国に発信し、パルシステムとの交流では、先頭を切って川に飛び込んで子どもたちと遊ぶ人気者だ。
「仕事でいろいろな産地のうなぎを食べますけど……、やっぱり大隅のうなぎはおいしいんですよ」。すっぱりと言い切る奥園さんを見つめていたのは、漁協の組合長・楠田茂男(くすだしげお)さん。大隅の養鰻技術を確立した立役者だ。
「こんなにうまい魚がいるんだ!って驚いてね。あぁ、もっと食べたいなぁ~っていう思いから、養殖を始めました」
若き日の楠田組合長を突き動かした衝動は、苦労や挫折を乗り越えるエネルギーとなり、斬新なアイデアを生んだ。養殖池の設計、水の温度、出荷選別の方法……。妻と一緒に泣きながら作業したこともあったよ、と話す組合長の横顔には、夢を果たした者だけが見せる、達成感がにじむ。
楠田さんが養殖を始めたころ、大隅はうなぎの稚魚である「しらすうなぎ」の漁獲にも恵まれ、静岡県などの養殖産地へ出荷もしていたのだという。しらすうなぎ、豊かな水資源、後に楠田式と呼ばれる養鰻技術が出合い、大隅はうなぎの町としての発展をとげた。
うなぎの危機に、関係者が集結
日本人が親しんできたうなぎの標準和名[2]は「ニホンウナギ」という。日本のほか、朝鮮半島や中国、台湾、フィリピンにいたる東アジアに分布することが知られている。河川や干潟などで暮らし、西マリアナ海嶺の南部水域で産卵することが突き止められたが、詳しい生態は分かっていない。
うなぎの養殖は、漁師が漁獲したしらすうなぎを養殖業者が仕入れ、養殖池で育てる。卵からの養殖は現在でも研究レベルの域を出ていない。ゆえに養殖はしらすうなぎがなくては始まらないわけだが、日本におけるしらすうなぎの採捕量は1980年代から長く減少傾向にある。
そして2013年、ニホンウナギは環境省の絶滅危惧種に指定され、絶滅危惧ⅠB類に区分された。
パルシステムはこの課題に対して、識者や組合員との議論を重ねた。そして「食べながら守る」という方針を掲げる。早合点しては詭弁にも聞こえるフレーズだが、真意はニホンウナギという生き物と、養殖を含むうなぎ漁業やうなぎ文化を担う人々の暮らしを守るため、うなぎ商品の利用を続ける、というものだった。
同年パルシステムは大隅地区養まん漁協と大隅うなぎ資源回復協議会を設立。なぞ多きうなぎの資源回復活動に、組合員とともに乗り出す。活動内容は、うなぎの現状を伝えることに始まり、うなぎのすみかとなる「石倉かご」やうなぎの通り道となる「魚道」など、うなぎが川で暮らしやすくするための環境整備、効果的なうなぎの放流方法を探る「放流モニタリング」、うなぎを大きく育て可食部を増やしかば焼きにすることで、資源を大切に利用する取り組みまで、多岐にわたる。
協議会の活動には、漁協、パルシステムの組合員と職員はもちろん、うなぎのすみかとなる河川を管理する行政、しらすうなぎの採捕業者、うなぎの養殖業者、研究者が参加。この体制は今も変わっていない。研究者として初年から参加し続ける、九州大学の望岡典隆(もちおかのりたか)特任教授は言う。
「いろいろなうなぎ産地の活動を見聞きしていますが、養殖業者が活動に加わっているのは大隅がはじめてではないでしょうか。それに活動を始めるときに、関係者の危機意識や互いの仕事への理解など、活動への意欲がそろっていました。『あぁ、これが日本一の生産地、鹿児島なんだ』と心を打たれたことを覚えています」
パルシステムは2013年から商品利用やポイントカンパで生まれた支援金を積み立て、この協議会を通して資源回復活動に活用している。2002年から職員たちがうなぎの放流に関わってきているが、協議会の設立により、より大規模に、より長く支援し続けられる体制となった。
すべては親うなぎを増やすために
じつはかねてより大隅地区養まん漁協では、うなぎの放流をしていた。しかしその効果を計る方法を、持ち合わせていなかった。
「自分たちではできそうにないことを、してくれているのが望岡先生。放流したり川で捕獲したうなぎにピットタグをつけて個体管理をしたり、データ管理をしたり。『何だかうなぎも近代化してきたな!』って思いますよ」
明るく話すのは、うなぎの生産者の一人、有明淡水の専務、久徳洋健(きゅうとく ひろたつ)さん。同社の2代目で、大隅地区の生産者としても第2世代。偉業を成し遂げた第1世代を尊敬し、技術などを学びながら、資源が厳しい今の時代の養鰻に全力で取り組んでいる若手生産者だ。
「しらすうなぎが取れず、25面ある養殖池のうち20面を休ませたこともありました。従業員を泣く泣く減らさなければいけなくなり、家族で楽しい会話もなく、親とのけんかも頻繁に……。あのときは自分も転職の覚悟をしました」
久徳さんは協議会が定期的に行う放流モニタリング活動に参加している。モニタリングの活動内容は、川に設置している石倉かごを引き上げ、うなぎを含め、どんな生き物がいるのか確認すること。捕獲したうなぎはサイズを測り、ピットタグをつけ、川に戻す。
「この10年間でいろいろなうなぎの放流を試してきました。大人のうなぎや子どものうなぎ、自然の環境に近い汽水域[1]で育てたり、養殖池で育てたり。今は汽水域と養殖池、2つの環境で育てた、10g程度の子どものうなぎを放流しています。石倉かごを引き上げたとき、どのパターンのうなぎが多く暮らしているか確かめれば、生存率の高い放流方法を見つけられるという計画です。実際はなかなか難しく、10年やってきても採捕数はやっと十数匹という実績です。しかし、河川に放流した養殖うなぎの成長に関する貴重なデータがとれ、蓄積できています」(望岡特任教授)
こうした放流モニタリング活動には大隅地区養まん漁協のメンバーのほか、養殖業者、川の漁師、県の水産技術開発センターや地域振興局水産部の方々が定期的に参加。パルシステムの組合員や職員も、産地交流の機会に参加し、共に汗を流している。
活動のゴールはシンプル。うなぎを増やすために、卵を産む親うなぎを増やすことだ。だから放流するうなぎをどのような環境で、どのくらいの大きさまで育てたらよいのか。またそのうなぎが川で生き残るために、必要な環境はどういったものか。手探りの活動なだけに、歩みの幅が一歩に届かないことも珍しくない。それでも10年の実績を重ねてきた。
夏休みの時期、放流モニタリング活動中の川を訪ねると、久徳さんの周りに同世代の生産者の姿があった。楠田由佳(くすだゆか)さんは、楠田養殖の代表。楠田和也(くすだかずや)さんは楠田淡水の代表だ。産地交流で訪れたパルシステム組合員の子どもたちと川で遊び、職員とモニタリング活動を共にして交流を深めている。
そこに生産者と消費者の垣根はなく、大人と子どもの垣根すらなさそうに見える。うなぎが暮らせる川の心地よさを、共に楽しんでいるように見えた。
「特別な意識はしてないです。都会にはない田舎の心地よさを知ってほしいだけ」という由佳さんの言葉に、久徳さんも同調する。「組合員を、お客さんとは思っていなくて、近所の人くらい近い距離感の存在と感じています。これは絶対に途絶えさせてはいけない」
パルシステムでは産地を組合員が直接訪ねて交流する「産地へ行こう。」のほか、奥園さんが生協に出向く学習会など、さまざまな形で産地交流を続けてきている。その成果が久徳さんの言葉を生んだのだろう。
「10年後もうなぎを育てる、この仕事をしていたい」(由佳さん)
「うなぎのためにという覚悟は強い。乱獲なんて言われないよう、資源回復も含めた仕組みを作りたい」(久徳さん)
協議会10年の活動を経てなお意気軒昴だ。ニュースのヘッドラインを飾る成果こそ出ていないが、地道な10年の取り組みは、あらゆる地域でのうなぎの資源回復に向けた動きを加速させるきっかけとなってきた。大隅から全国に広がった石倉かごの取り組みは代表例。その価値は計り知れない。
人が関わるから、できること
河川のはんらんを防ごうと、土や石組みの護岸をコンクリートで造り変える。せきを造る。無自覚に天然うなぎを乱獲する。少なからず、人はうなぎに好ましくない影響を与えてきた。
2013年の大隅うなぎ資源回復協議会の設立以後、活動メンバーの多くは、うなぎの目線で川を見つめ、生き物としてのうなぎに興味を持ち、生態などの理解を通じて資源回復活動を重ねてきた。まだ確固たる確証はないものの、親うなぎに育ってくれそうな放流うなぎの傾向などをつかみかけている。
「うなぎは日本の川で7年くらい過ごし、親となり海へ産卵に出ます。だからもう少し長く見ていく必要があります」
うなぎの研究に人生を費やしてきた望岡特任教授の知識と経験をもってしても、うなぎの生態にはまだまだなぞが多い。
鹿児島県は日本一のうなぎの産地。販売価格や資源回復活動など、一挙手一投足が注目される。それを分かったうえで、うなぎという食文化を守るためにどうするべきか、常に考え行動する誇りを、うなぎに携わる大隅の人々は持ち合わせている。
大隅でうなぎに携わる人たちに共通していることが一つ。それはうなぎが好き、ということ。だからきっと次の10年も資源回復活動は続いていくだろう。そのときわたしたちは、これまでの10年と同じ心持ちで、支え、共に悩み、笑う存在でありたい。絶滅危惧という冠がうなぎから外れる、その日まで。