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写真=編集部

[戦後72年]「私は、人間を信じる」 漫画家・ちばてつやさん 満州引き揚げの記憶に思う

  • 環境と平和

『あしたのジョー』で知られる漫画家のちばてつやさんは、今年78歳。6歳のとき、旧満州(中国東北部)で敗戦を迎え、命からがら日本へ引き揚げた経験を持つ。帰国後、しばらくは戦争のことは伏せていたが、ある時、同じような体験を持つ漫画家の仲間たちと意気投合し、それぞれの記憶を漫画にして本にまとめた(『漫画家たちの戦争』)。そんなちばさんが大切にする「人間を信じる」というメッセージは、今を生きる私たちに、どんな意味を持つのか。

父と仲の良かった中国の人が、かくまってくれた

――6歳の時、満州で敗戦を迎えたそうですね。命からがら日本に引き揚げていらした。「屋根うらの絵本かき」(『子どもたちの戦争』所収)や「家路 1945~2003」(『引き揚げの悲劇』所収)を読むと、家族全員で無事に帰ることができたのは奇跡だと感じます。

ちば 4人兄弟で、3番目が2歳、一番下は生まれたばかり。私とすぐ下の弟は親のリュックにつかまって、必死についていきました。手を離したら最後、命があるかどうかもわからない。何しろ食べる物がなかった。日本人だけでなく、中国の人も食べる物がない状態でした。敗戦まで日本人は威張っていたので、中国の人たちからは恨まれていましたね。大混乱の状態ですから、日本に帰りたくてもなかなか帰れないんです。

――その中で、ちばさん一家をかくまってくれる中国の人がいたそうですね。

ちば 本当に運がよかった。父と仲の良かった中国の人と偶然、出会うことができました。父とは本を貸し借りしたり、漢詩を作ってお互いに見せ合ったりしていたそうです。しかし、日本人をかくまっていることが知られたら、その親友も危険なことになる。命がけで助けてくれました。

――それだけお父さんは、中国の人たちからも信頼されていた。

ちば そうですね。中国の人たちと仲良く肩を組んでいる写真も残っています。

写真=坂本博和(写真工房坂本)

――今、中国や朝鮮・韓国の人々に対する憎悪をあおるヘイトスピーチが問題となっています。差別しない、威張ったりしないということが、自分と家族の命を守ることにもつながるのですね。

ちば もちろん父も、どこかで恨まれることがあったかもしれない。ただ、あまり体が丈夫ではなかったし、おとなしい人でした。戦争が終わる直前に兵隊に取られて軍馬の世話をしていましたが、「馬がバカにして笑うんだ」と言っていました。そんなおとなしい人でしたから、中国の人も怖がらずに友達でいられたんでしょうね。

弱い人たちは犠牲になり続ける。「戦後」なんてない

――故国に帰り着けず、亡くなった方もたくさんいます。

ちば 中国から引き揚げてくるとき、20万の人が亡くなっています。どういう人が亡くなったかというと、兵隊ではないんですよ。お年寄りとか、身体が弱い人、足が不自由な人。そして、子ども。たくさんの子どもたちが、親とはぐれたり、亡くなったりしました。遺体は放置されたまま。その人たちにはお墓も何もない。そこで20年前、浅草の浅草寺に満州地蔵が建立されました。私たち引き揚げ者の漫画家もお手伝いしながら、慰霊祭を続けています。

――東京や大阪の大空襲でも、広島・長崎の原爆でも、沖縄戦でも、そして満州からの引き揚げでも、犠牲になるのはいつも弱い人たちですね。

ちば 日本は戦後72年といいますが、しかしこの間も世界のどこかではずっと戦争が続いています。だから、本当は「戦後」はないんです。日本についても、1945年8月15日で平和になったわけではない。日本が降伏してからも、引き揚げがあったり、シベリア抑留があったり。殺戮が続き、たくさんの人が亡くなりました。10年以上もシベリアに抑留された人がいます。

 帰ってから生まれた子どもはその出自から就職で差別され、飢え死にした人もいます。水木しげるさんのように片腕を失って帰ってきた人もいる。たくさんの人が、敗戦の後も戦争を引きずって、大変な思いをしました。戦争はずっと続いているんです。

写真=編集部

列車内の空気を一変させたもの

――秘密保護法や安保法、そして共謀罪など、ここ数年の間に起きた日本の状況を、どう感じていますか。

ちば 従っていればそんなにひどいことにならないだろう、自分自身が危険にさらされているわけではない、という感覚は共通のものかもしれません。心のどこかに引っかかるものがあっても、日常生活にまぎれて忘れてしまったり、煩わしさに口をつぐんでしまったり……言論統制だとか、いろんなことが秘密にされたり、集まって話しているだけで捕まったりという時代は、私はまだ赤ん坊でしたから、ほとんど記憶がありません。ただ、戦前の日本がどうしてああなっていったのか、色んな文学作品や記録、手記などで読むと、子どものときの記憶と結びつくことがあります。

――満州にいらしたころの記憶ですか。

ちば ええ。一度だけ家族旅行をしたのを覚えています。奉天(現在の瀋陽)から大連まで、列車に乗りました。うれしくて、楽しい思い出なんですが、ちょっと怖い記憶があるんですね。列車の中で楽しくおしゃべりしていたとき、乗り合わせていたみんながピタッと口を閉ざし、静かになった。本を読んでいた人は本を閉じ、話していた人はだまって窓の外を見ている。

 私は子どもでしたから、なぜ空気が変わったのかと見まわしていると、革靴を履いてサーベルを下げた憲兵さんが2人、入ってきたんですね。怪しいヤツがいないかと、見回りに来たのでしょう。私は思わず憲兵を見ていました。すると母が私に、「景色を見なさい」と顔を窓のほうに向けさせました。それで「ああ、憲兵さんを見てはいけないのだな」と思いました。

――にぎやかだった車内の空気が、一瞬で冷たくなった。

ちば 後に日本に引き揚げてから、憲兵というものがどれだけ怖がられていたかを知り、あのときのことを思い出しました。国が危険な方向に突っ走っているとき、「止めろ」といったために捕まり、ひどい目に遭った人たちがたくさんいた。小説『蟹工船』を書いた小林多喜二もそうですね。ああいう時代は怖い。ああいう時代を繰り返してはいけない。

写真=坂本博和(写真工房坂本)

あの時代を知っている者としての責任

――まさか日本がまた戦争をすることはない、と多くの人は思っています。一方で、北朝鮮がミサイルを発射したら撃ち返せ、いや、やられる前にやってしまえ、という人もいます。

ちば 攻撃と反撃では、どちらも傷つく。地球を身体と考えると、自分で自分の身体を殴っているようなものです。これからの若い人たちが「戦争ってこんなことだったのか」とまた体験するとしたら、なんともつらいことです。

 二度と戦争をしてはいけないと思いながら死んでいった兵士がたくさんいるでしょう。このままでは、あの人たちの死を無駄にしてしまう。今死者たちは「生き残った人たちは何をしているんだ」と、あの世で情けない思いをしているんではないでしょうか。

 だから、私たちは声を上げ続ける責任があるし、できると思う。まだまだ私は、人間を信じていますよ。

※本記事は、2017年8月2回のパルシステムのカタログ記事より再構成しました。

取材・文/永江朗 構成/編集部