被爆者の呼びかけによる日本で初めての署名活動
――「ヒバクシャ国際署名」とは、どんな活動ですか?
林田 日本で初めて、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)、つまり被爆者のみなさん自らが、「核兵器をなくしていこう」と呼びかけた署名活動です。2016年4月にスタートし、集めた署名は核兵器廃絶に向けての議論が進められている国連に、2020年まで毎年提出されることになっています。今年も6月16日に約300万筆分の目録が、被爆者の方から直接、国連のホワイト議長と中満軍縮上級代表に手渡されました。
今も世界には1万5000発もの核兵器が存在し、もし使われたら、その被害規模は広島や長崎の数百倍とも数千倍ともいわれています。平均年齢80歳を超える被爆者のみなさんが立ち上がったのは、「核兵器を何としても世界からなくしたい」「悲劇を二度と繰り返してはならない」という切実な願いからでした。
――これまでの署名活動とは何が違うのですか?
林田 「ヒバクシャ国際署名」は、被爆者が呼びかけ人となった初めての署名活動です。これまで核兵器をなくすための署名はあらゆる団体が行ってきましたが、被爆者が呼びかけ人ではありませんでした。今回は、当事者である被爆者が呼びかけ人となったことで、これまでにないほど、多様な団体がこの署名活動に参加しています。
主旨に賛同できるなら、個人でも団体でも誰でも参加できる。このシンプルで、かつ力強いメッセージが、これまで政党色が強くて日本の中でもバラバラだった反核平和運動を、一つにまとめる力がこの署名活動にはあると思います。
――林田さんは、なぜこの署名活動に参加したのですか?
林田 僕は長崎の浦上という爆心地近くで生まれ育ち、中学生の頃から地元の署名活動など反核平和運動に関わってきました。幼い頃は被爆体験を聞くのが辛かった時期もあったのですが、いつからか、このままでは被爆者のみなさんの体験がなかったことにされてしまうと危機感を抱くようになった。被爆者だけが当事者で、それ以外が「自分は当事者じゃない」という姿勢でいたら、原爆の悲劇は忘れ去られてしまうと感じたのです。
100年後、200年後に、原爆投下が作り話だと言わせないためには、きちんと被爆者のみなさんの体験を語りつないでいかなければならない。自分にできることは何かと考えていました。日本被団協の前事務局長・田中熙巳(てるみ)さんに「この署名の広報をお願いしたい。情報が拡散するしくみをつくってほしい」と声をかけていただき、お引き受けしたのです。
“人道的見地”から、核兵器廃絶へ向けて舵を切る世界
――現在、核兵器を巡る世界の情勢はどのようになっているのでしょう?
林田 今、国際社会では、核兵器廃絶へ向けての機運がにわかに高まっています。7月7日には、核兵器を法的に禁止する初めての「核兵器禁止条約」が採択されました。これによって核兵器も、他の大量破壊兵器――生物兵器、化学兵器、対人地雷、クラスター爆弾と同じように、国際人道法によって禁止されることになったのは大きな前進です。
実は核兵器に関する国際的な取り決めには、1970年に発効された、米、仏、英、露(旧ソ連)、中の5カ国のみに保有を認める「核兵器の不拡散に関する条約(NPT)」があります。しかし発効後も米露間の核開発競争は止まず、結局、核兵器は大幅に増加してしまった。これを憂慮した非核保有国からの禁止条約を求める声にも、核保有国やその同盟国は「段階的に減らしていくのが現実的」と耳を傾けず、禁止条約の実現は難しいといわれていました。
――そんな中で、今回、禁止条約の採択にまでこぎつけることができたのはなぜですか?
林田 ターニングポイントとなったのは、2010年、赤十字国際委員会が、核兵器の“非人道性”に初めて着目して出した声明文でした。破壊力が甚大で、世代をまたいで健康面の影響が心配される核兵器が非人道的であることは明らか。それまでアメリカへの批判につながるからと、誰も追求してこなかった人道的側面に、赤十字国際委員会が一石を投じたのです。
彼らが人道性に言及できたのは、医療従事者だからです。例えば、今核兵器がどこかで使われたとしても、放射線量が高すぎて救護のために医者や看護師が現場に入ることはできません。生存者がいても治療ができないなんて医療従事者として許せない、こんな非人道的な兵器は禁止すべきと訴えたのです。
この声明をきっかけに、非核保有国やNGOが中心となって「核兵器を使用することがいかに非人道的か」の議論が繰り返されました。そしてそれを土台に、核兵器禁止条約をつくるための交渉会議が、今年3月にニューヨークの国連本部で始まったのです。
唯一の戦争被爆国である日本が禁止条約に反対!?
――核兵器禁止条約の成立によって、今後世界にどんな変化があると思いますか?
林田 これまで、核兵器に対する世界の人々の見方は、“戦争で有効に使える強力な兵器”というものでした。長崎で7万人、広島で14万人亡くなったといっても、被害も数字でしか捉えられてこなかった。けれど今回、この条約で非合法化されたことで、核兵器に対する認識が、“人道的に許されない最悪の兵器”というように変わっていくことが期待できます。
1999年に発効した「対人地雷全面禁止条約」がよい例です。条約が結ばれて世界的なキャンペーンが行われた結果、それまで軍人のロジックで“使い勝手がよい”と評価されていたところに民間人の感覚が持ち込まれ、地雷のイメージは “悪魔の兵器”へと一転しましたから。この条約に真っ向から反対して今も批准していないアメリカも、実際には、対人地雷の製造も使用も止めています。核兵器禁止条約も同じように、保有国にとってのプレッシャーになっていくと思います。
――核兵器廃絶へと大きく前進する国際社会の中で、日本はどのような立場をとっているのでしょう?
林田 そこが問題なのです。残念ながら、日本は禁止条約への参加はおろか、交渉会議の開催にすら反対しました。これまで日本政府は、「核兵器には断固反対」と唱えながら、その一方で、アメリカの核の傘を否定しない、いわば“二枚舌”でした。しかし、交渉会議については二枚舌さえ捨て、アメリカに準じて「NO」という態度を明確にしたのです。
僕は、日本こそ核兵器廃絶のための最前線に立てると思っています。2度の原爆を体験した日本が「非人道的だからなくしていくべきだ」と言えば、誰も異論はないでしょう。今回の禁止条約の前文にも、「核兵器の使用による被害者(Hibakusha)ならびに核兵器の実験によって影響を受けた人々に引き起こされる受け入れがたい苦痛と危害に留意する」と、“ヒバクシャ”という日本語が盛り込まれました。
――国内にも、「アメリカの核の傘は必要だ」という意見もあるようですが……。
林田 僕たちは、国を守るというような話のときに、相手がナイフを持っているからこっちも持つ。あっちが10cmのナイフならこっちは15cm……と、ついゲームみたいな感覚に陥りがちです。でもそのロジックでは、互いに永久に性能を強化し続けるしかない。段階的に減らしていくなんてあり得ないのです。
そうではなく、僕たちが『はだしのゲン』を読んだり、広島や長崎を訪れたりして抱いた感情をそのまま、安全保障の議論にも落とし込みたい。例えば敵国だといわれているような国にも、僕らと同じように人々の暮らしがあって、家族がいるということを思い描いてみる。不条理に命や暮らしを奪われたくないのは相手も同じだと気づくでしょう。そうした想像力こそが、人類の英知ではないでしょうか。
日本と同じようにアメリカの同盟国であるオランダは、交渉会議の開始に棄権票を投じました。というのも、投票の直前に国民が署名を集め、「交渉会議に反対しないで」と政府に請願書を提出したからです。それが議会に承認されてオランダ政府は投票を棄権し、その後の交渉会議には参加しています。市民の声や署名が政府を動かした。これは注目に値することだと思います。
「ヒバクシャ国際署名」はスタートラインに立ったところ
――禁止条約が採択された今、これからの「ヒバクシャ国際署名」にはどんな役割が期待されますか?
林田 今、交渉会議参加国の間でも、広島・長崎の被爆者のみなさんの存在や体験談が、禁止条約の必要性を世界に訴えていく上で大変重要だとの認識が共有されています。
核兵器のない世界へ舵を切るために、唯一の戦争被爆国である日本の僕らがやるべきことは、核兵器が使われたときの惨状をリアルに想像できるように、被爆者のみなさんの体験を正確に世界に伝え、人々の持っている核兵器のイメージを変えていくことです。そのためにも、いろいろな人たちとコミュニケーションをとりながら、被爆体験を広げていきたい。署名はそのためのツールであり、議論の入口でもあります。
禁止条約はできましたが、残念ながら、今はまだすべての国が批准するという状況ではありません。「ヒバクシャ国際署名」が目指すのは、世界の人々の声で、核保有国も含めたすべての国を動かし、核兵器を完全に世界からなくすこと。条約ができたことがゴールではなく、むしろようやく今、スタート地点に立ったところです。
「自分たちが生きている間に、なんとしても核兵器のない世界を実現したい」――被爆者のみなさんが訴え続けてきた心からの願いをかなえるために、どうかみなさんも、署名にご協力ください。