がんになって直面する生活の課題に、「おもろく」こたえる
――岸田さんが2014年に始めた「がんノート」とはどのような取り組みなのか教えてください。
岸田 ひと言でいうと、がん経験者へのインタビューを通して、患者や家族が求めているリアルな情報を提供する活動です。
現在は、「がんノート origin」という90分のロングインタビューと30分程度のショートインタビュー「がんノート mini」、毎回テーマを絞ってゲスト2人とゆるくトークする「がんノート night」をインターネット上で発信しています。originとnightは生配信ですが、放送終了後も動画配信サービスで見ることができます。
――がんに関する情報はほかにも数多くあるように思いますが、「がんノート」の特徴はどのあたりにありますか?
岸田 僕自身が患者になって痛感したのは、がんになると、医療や治療のこと以外にもいろいろ戸惑うことや迷うことが出てくることでした。たとえば、家族にどうやって打ち明けようとか、仕事を休んでも大丈夫なのかとか、お金はどのくらいかかるのかとか……。
とくに思春期から30歳代までのAYA世代[1]や家族の生計を支えているような働き世代にとっては、日々の仕事や生活がどうなるのかということは切実な問題です。ところが、治療方針や医療情報については医師が説明してくれたり、ネット上に大量に情報がアップされたりしているのですが、それ以外の情報となると意外に見つからないんです。
そこで「がんノート」では、お金や家族、学校や仕事に関することなど、がんになってから直面する生活全般の課題について、患者自身の経験談を通して一歩踏み込んだリアルな情報を発信することに力を入れています。
――動画を拝見すると、ときに笑いがあり、ゲストのみなさんが明るい表情で話されているのが印象的です。
岸田 日本ではどうしてもがんについてネガティブなイメージが強く、患者は「かわいそう」「不運な人」という見方をされることが多く、患者自身も、どうして自分ばかり……とか、苦しいことしかないと悲観しがちです。
けれど僕自身は、がんになったからこそできたことがありました。がんになっても苦しいことや暗い未来ばかりが待っているわけじゃないし、がんになったからこその気づきや新しい可能性がある。それを伝えたいから、「がんノート」は、おもろく、ポジティブに、ということを大切にしています。
肉体的にも精神的にもつらいことがたくさんあったとしても、あえて、「そのなかでも何か楽しいことを見つけていく」というスタンスです。
――インタビューの際に岸田さんが心がけていることは何ですか?
岸田 ゲストを招くときも自分の話をするときも、「等身大」であることですね。ゲストのなかには「緊張する」とか「私の話なんか役に立つのかしら」としり込みされる方もいるのですが、うまく話す必要はない。たどたどしくてもかまわない。目的は一人ひとりの生の情報をシェアすることですから、出演してもらうだけで目的の9割以上は達成です。僕も放送でめちゃくちゃ噛んだりしますけれど、それはそれで等身大だなと。
25歳で全身がんを発症。両親を必死でなぐさめた
――岸田さんは25歳で最初にがんを告知されたそうですが、そのときのようすを教えてください。
岸田 最初に異変を感じたのは、大学卒業後就職して2年目の春先でした。首の根元に腫れ物ができ体調もすぐれなかったんです。でも、近所のクリニックや会社の健康診断でとくに問題は見つからなかった。仕事に追われていたこともあり、そのままになっていました。
ところが秋口になると、週に何度も休まなければならないぐらい体調が悪化。二日酔いと船酔いがダブルで来たような気持ち悪さに、さすがにこれはおかしいともう一度検査したら「リンパ腫かもしれない」と。当時の僕はリンパ腫と聞いてもピンと来なかったのですが、その後、血液内科がある大きな病院で改めて検査した結果、とても珍しい「胎児性がん」で、首とおなかと胸に転移していると告知されました。
――診断結果を聞いたときはどんな気持ちでしたか?
岸田 最初は現実を受け止めきれずボーッとしていたのですが、ふと横を見ると、同席していた両親がパニックになっている。これはあかんと思い、慌てて「大丈夫やから」と必死で両親をなぐさめましたね。これは若い世代のがん患者「あるある」なんです。僕の周りでも、2人に1人は親のなぐさめ役になっているようです。
一方、僕自身は生存率が50%、五分五分と聞いて、「まだ何とかなるかもしれない」と気持ちを奮い立たせました。
――「五分五分」をポジティブにとらえたんですね。
岸田 実はこれには前提があって。学生時代に世界を旅して回ったとき、インドとパキスタンの間にある紛争地帯で、一時的に軟禁されてしまったんです。このときは「このままここで死ぬかもしれない」と本気で死を覚悟しました。肌感覚でいうと、あのときの生存率は数%だったかもしれない。それに比べたら、五分なら御の字やんって思えたんです。
戻る場所があると思えれば、力も湧く
――治療が始まって、生活はどう変わりましたか?
岸田 仕事は休職という形になりました。当時の僕は、頭の中の99%を仕事が占めていたので、悔しい気持ちもありましたね。
ただ、がんということを職場でオープンにしていたので、引き継ぎはスムーズでした。最初の診察のころから病状や治療の経過については上司に逐次報告し、相談しながらなるべく滞りがないようにしました。
もちろん不安もありましたが、お見舞いに来るたびに社長や上司が、「お前が帰ってくるまで待っているから」「仕事のことは心配せずに、ちゃんと治して戻ってこい」と声をかけてくれたんです。治療を終えたあとの生活についてめどが立たないケースが多い中、こういった言葉は、ゴールの先に続く道が見えるようで、すごくありがたかったですね。
――周囲の人の存在や言葉が大きな力になったんですね。
岸田 はい。僕は、お見舞いに来てくれた一人ひとりにメッセージを書いてもらったんです。その言葉を見ているだけで、つらさが和らぎました。いま伝える活動ができているのも、当時の周囲の人からの支えやメッセージのおかげだと思っています。
メッセージのなかでとくに印象に残っているのが、ある先輩が書いてくれた「Think Big」という言葉。人生で起きる出来事にはすべて意味があるから、目先のことだけではなく長い目で考えろという意味です。そのときはつらさしか見えていなかったけれど、俯瞰してみれば、人生100年とすれば、いまこのときはただの点にすぎない。この点を何とか乗り越えればいいんだって元気が湧いてきました。
同じ経験者のブログが一筋の光に
――逆に、がんになってとくにつらかったのはどういうことでしたか。
岸田 腹部のがんを取り除く手術の際、神経に影響が出て性機能に障害が残ってしまったことです。これから恋愛して結婚して子どもを持って……というライフプランを当たり前のように描いていたので、落ち込みました。
がんについては、こういう治療をしていけばこうなると、先の見通しがある程度立ちますが、当時は生殖機能に関する情報はほとんどなく、医師に聞いても「ちょっと様子を見ようか」と言うばかり。デリケートな話だから、だれかれ構わず相談するというわけにもいかなかった。僕にとっては、がん宣告そのものよりもしんどかったです。
――その体験が、患者自身の生の声を情報として発信する「がんノート」の原点だったそうですね。
岸田 そうなんです。というのも、僕自身が、数週間ネットを検索し続けた末にやっとたどり着いたブログに救われたからです。
僕と同じ症状を患った人のパートナーのブログだったのですが、さっそく連絡を取ってみたところ、すぐに「夫は約3か月で元に戻りましたよ」と返信があり、暗闇に一筋の光が見えたようでした。治る可能性があると分かっただけでありがたかった。同じ悩みを抱えているのが自分ひとりじゃないと思えたことも励みになりました。
だから、僕も経験したり感じたりしたことを発信すれば、少しはだれかの役に立てるかもしれないと考えて、治療日記のようなブログを始めた。それが「がんノート」の前身です。
生配信の醍醐味は、「ひとりじゃない」という実感
――今のようなインタビュー形式にした理由を教えてください。
岸田 患者が本当に知りたい情報って、「こんなこと聞いていいんかな」とつい躊躇してしまうようなセンシティブなものが多いんです。でも、あるとき若年性がん患者団体のイベントに参加して僕の悩みを率直に打ち明けてみたところ、みなさん、どんな質問にも真摯に答えてくださったんです。
考えてみたら、僕だって生殖機能の話をわざわざ自分から持ち出したりはしないけれど、聞かれれば答えるのにやぶさかじゃない。それなら、知りたいことは経験者に直接聞くのが一番じゃないかと、インタビュー形式に行き着きました。
――「生配信」というのもこだわりですか?
岸田 はい。がん患者、とくに若年層は同世代の患者が周囲にあまりいないことが多く、「こんな経験をしているのは自分だけだ」と孤独感に陥りやすいんです。
「一緒に悩もうや、ひとりじゃないよ」って伝えたくて方法を模索しているときに、たまたま生配信の番組に出演する機会を得て、視聴者から届いたコメントに受け答えしているうちに、「あっ、これや!」と。患者と相互にコミュニケーションを取るのに、この方法はぴったりだと思いました。
――とくに今のコロナ禍では、直接人に会うのも制限がありますから、オンラインの生配信は貴重ですね。
岸田 そうですね。僕もいろいろな患者の集まる会に出掛けて、当事者どうしが悩みを共有できる場の意義を肌で感じていました。けれど、そもそも会に出掛けられない人もいる。スタート当時はコロナ禍ではなかったけれど、場所という制約を取っ払い、時間を共にする感覚を持ってもらえたらいいなと思い生配信に決めました。
実際、配信中に「病院のベッドの上から見ています」というコメントもいただきますし、コメント欄で視聴者どうしのやり取りが生まれることもあります。だれかが「明日手術なんです」と書き込むと、ほかのだれかが「がんばって」とエールを送る。こんなリアルタイムのコミュニケーションも、生配信ならではの醍醐味ですね。
お互いが、温かい手を差し伸べ合える社会に
――「がんノート」の活動を通じて、岸田さん自身の意識にはどのような変化がありましたか?
岸田 正直いって、以前はがんといえば「死」とか「ベッドの上で横たわっている」というイメージしかありませんでした。
けれど自分自身も体験し、多くの経験者の話を聞いて実感するのは、いまは、がんを患ってもがんと共存していく時代であるということです。がんになったら終わりではなく、社会復帰して活躍できる時代になってきている。
――そうであればなおさら、「生きていくため」「生活していくため」の情報が必要になってきますね。
岸田 はい。ですから、まずは「がんノート」を何としても続けていかねば。
ブログも患者の集まる会も途中で終わってしまうものが多くて、僕はそれが残念なんです。とくにAYA世代、働き世代の人たちへ、希望とまではいえないかもしれないけれど、先の見通しにつながる材料を提供していきたい。大げさにいうと、それが、僕ががんになって生かされている理由なんじゃないかと思います。
――今後の「がんノート」の活動について、抱負をお聞かせください。
岸田 「がんノート」は、もともと「がん経験者の情報をいま闘病中のあなたへ」をコンセプトに、患者間のコミュニケーションを想定したものでした。けれどいまは、「『あなた』か『わたし』のがんの話をしよう」という言葉を掲げ、患者だけでなくだれにとっても必要で知っておくべきこととして、がんにまつわる情報を発信していきたいと考えています。
というのも、この社会にはまだまだがん患者に対する偏見があると感じるからです。職場で不利益を被った、逆に腫れ物に触るような扱いを受けたという話もよく耳にします。それもこれも、がんについての誤った先入観と理解不足から来るものでしょう。
「がん=死」というイメージや、カミングアウトすることが不安になるような世の中を変えていかないといけない。がんであることを抵抗なくオープンにでき、オープンにすることで周囲の援助や必要な情報が気軽に得られる社会に変えていけたらいいなと思っています。
――学校でも講演されていますが、そうした思いがベースにあるのでしょうか。
岸田 はい。子どものうちからがんについて学ぶことは、とても意味あることだと思います。「患者は病院にいる」というイメージを払拭し、社会で普通に暮らしている人もいることを知ってほしい。「がん=死」ではないことを早くから理解していれば、自分や身近な人ががんを患ったときも、見方や関わり方がずいぶん変わってくるのではないでしょうか。
がんだけじゃなくほかの病気や障がい、マイノリティーについての偏見や差別も、無知に由来する場合が少なくないと思います。これからは、さまざまな立場の人たちとつながりながら、お互いに手を差し伸べ合える思いやりにあふれた社会づくりに貢献していきたいです。