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日本の公園を歩くナターシャ・グジーさん

ナターシャ・グジーさん 写真=スズキアサコ

ウクライナ出身の音楽家。「小さな平和」を積み重ねるために今、私にできることを

  • 環境と平和

ウクライナ出身の音楽家・ナターシャ・グジーさんは、6歳のときにチョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故で被ばく。つらい気持ちを支えたのは音楽でした。2000年から拠点を日本に移し、音楽と共に自身の経験を伝えてきました。「大きな平和を実現するには、一人ひとりが『小さな平和』を積み重ねるしかない」と話すナターシャさん。ウクライナ支援プロジェクトにも取り組み、故郷の人々に思いをはせながら平和への願いを込めて各地で歌っています。

原発事故からの避難、音楽が支えてくれた

――ウクライナ出身のナターシャ・グジーさんは、20年以上にわたり日本を拠点に歌手・バンドゥーラ奏者として活動をされています。音楽を始めたきっかけは何ですか。

ナターシャ・グジー(以下、ナターシャ) ウクライナの人たちは、みんな音楽が大好きなんです。
 幼い頃は、プリピャチという街の近くにある村に住んでいたのですが、夕食が終わると小さな家の中で両親や遊びにきた友達とよく一緒に歌っていました。
 そんな環境で育ったので、自然と私も音楽が大好きになりました。5歳くらいのとき、家族に「歌手になりたい」と言ったことを今も覚えています。

ウクライナの小麦畑

ウクライナの小麦畑 写真=©photo AC

――小さい頃から、歌手になることを決めていたんですね。

ナターシャ その後、私が6歳だった1986年、父親が働いていたチョルノービリ原発で事故が起きて、私は原発から3.5km地点で被ばくしました。大好きだった家や友達とも別れ、避難のため転々として首都に落ち着いたのですが、原発事故を経験した子供たちはみんな、大人に言えない悩みをたくさん抱えていました。
 それで、(心の回復のために)子供たちに音楽やスポーツ、絵画などを習わせる家庭が多くあったのです。私の両親もいろいろな習い事をさせてくれたのですが、いちばんしっくりきたのは、やはり音楽でした。
 被ばくした子供たちが中心になって参加していた民族音楽団があり、私もそこに入って、音楽に満ちた日々を過ごしていました。

チェルノ―ビリの廃墟

チョルノービリの廃墟 写真=©photo AC

――ウクライナの民族楽器バンドゥーラを演奏するようになったのも、その頃ですか。

ナターシャ 8歳のときに音楽学校でバンドゥーラを専門に習い始めました。バンドゥーラは、日本の琵琶(びわ)にも似た形の大きな楽器で、弦の本数はそれぞれ違うのですが60本以上、重さも8kgほどあるんですよ。
 当時、ただつらくて泣いているだけの時期もあったのですが、そんなときに何げなくバンドゥーラを手にすると、心がすーっとして悲しい気持ちが一瞬消える。まだ私は幼かったけれど、「音楽はこんなに大きな力を持っているんだ」と強く感じました。

ウクライナの民族楽器バンドゥーラ

バンドゥーラを弾くナターシャさん 写真=スズキアサコ

日本で経験を伝えることに大きな意味がある

――その後、2000年から日本で音楽活動を始めたのですね。

ナターシャ 高校を卒業したら歌手になろうと決めていましたが、事故後も原発で働いていた父親が体調を崩して長期入院することになりました。経済的負担をかけられなかったので、一度はあきらめてウクライナで会社に就職しました。でも、周りに人がいないときは、こっそり歌っていました。実は会社の人たちにも聞こえていたらしいのですが(笑)。
 1996年と1998年に日本の市民団体が私たちの民族音楽団を招いてくれ、全国で救援コンサートを行うことになりました。それを機に、2000年から日本でソロでの音楽活動を始めることになりました。今も全国各地で演奏をしながら、音楽を通して原発事故の経験を伝えています。

バンドゥーラの美しい装飾

写真=スズキアサコ

――日本でご自身の経験を伝えていくことについて、どのように感じていますか。

ナターシャ コンサートで、長崎、広島に何度か行かせていただきました。ウクライナの学校でも日本で起きた悲劇について習いましたが、日本に来てから実際に被ばく者の方々からお話を伺う機会もありました。
 日本は原発が各地にあり、地震も多い国。ここで私の経験を伝えることには大きな意味があると思っています。長崎、広島だけに限らず、私の話を「遠い国の出来事」ではなく、自分ごととして受け止めてくださる方たちが全国にたくさんいます。

ウクライナと日本の子供たちに、平和な未来を築いてほしい

――2011年3月に発生した東日本大震災では、日本でも深刻な原発事故が起きてしまいました。

ナターシャ 東日本大震災で原発事故が起きたときは虚しくなりました。同じことが繰り返されないように、と願って活動してきたからです。それでも、自分が経験したことを伝え続けることには意味があるはず、と思い直し、何度も被災地へ伺い、復興支援活動にも取り組みました。そして、チョルノービリ原発事故から30年、東日本大震災から5年を迎えた2016年には、「ピースオンウィング ~翼に平和をのせて~」というプロジェクトを行いました。
 私が日本に来てすぐの2000年に、広島の原爆の子の像のモデル、佐々木禎子さんの小さな赤い折り鶴をご家族から頂いたのですが、事故から30年の4月26日に、日本とウクライナの平和と友好の印として、私の宝物である「禎子の折り鶴」をウクライナ側に寄贈しようと、このプロジェクトがスタートしました。
 その折り鶴は、現在ウクライナの国立チェルノブイリ博物館に展示され、訪れる人々に平和を訴え続けています。

佐々木禎子が折り続けた折り鶴は今、ウクライナにある

佐々木禎子さんが折り続けた折り鶴は今、ウクライナにある 写真提供=オフィスジルカ

――どんな思いで、そのプロジェクトを始めたのでしょうか。

ナターシャ 悲劇を忘れないでほしい、過ちを繰り返さないでほしい、そう願って、私はこのプロジェクトを始めました。
 プロジェクトのもうひとつの目的は禎子の折り鶴を寄贈することだけでなく、日本とウクライナの子供たちが自分たちの手で平和な未来を築いていってもらうために、お互いの国で起きた悲劇について勉強したうえで、翼に平和のメッセージを書き込んだ折り鶴を作り、それを両国で交換することにあります。
 それによって、子供たちが「平和とはどういうものなのか」を考えるきっかけになれば、と思います。

「平和について一人ひとりが考えることが大切」とナターシャさん

「平和について一人ひとりが考えることが大切」とナターシャさん 写真=スズキアサコ

ウクライナ侵攻の知らせに「まさか」

――とても聞きづらいことですが、2022年2月にウクライナ侵攻が始まったときは、どのような気持ちでしたか。

ナターシャ 2021年の年末から、毎日のようにウクライナにいる家族や友達と連絡をとっていたのですが、「何がいつ起きてもおかしくない」という状況で、みんなの不安が伝わってきていました。
 でも、2月24日に侵攻が起きたときには、ウクライナでも「まさか」と思った人が多かったのではないでしょうか。私もそうでした。昨日までの生活、描いていた自分たちの将来、夢、やりたいことが、いきなり失われてしまった。その気持ちは、日本にいる私には想像しきれません。
 家族や友人になかなか電話がつながらず、おびえていて会話にならないこともありました。あのとき「死にたくない」と泣きながら話してくれた友達の声が、今も忘れられません。

――昨年から、さまざまな形で故郷であるウクライナの支援を始めていますね。

ナターシャ 最初は「遠くにいる自分には何もできない」という無力感でいっぱいでしたが、泣いていてもだれの役にも立ちません。それなら私にできることをするしかない。
 何より自分がつらかったときに救ってくれたのは音楽ですから、その音楽が今苦しんでいる故郷の人たちの支えになったらいいと思い、47都道府県を回る「CFU47 希望の大地」というチャリティツアーを企画しました。2022年は36都道府県を回ることができたので、今年は残りの場所でも開催したいです。

バンドゥーラの演奏を通じて平和を伝える

バンドゥーラの演奏を通じて平和を伝える 写真=スズキアサコ

沖縄で感じた「平和」への特別な思い

――印象に残っている場所はありますか。

ナターシャ 「CFU47 希望の大地」以外にも、各地でコンサートに呼んでいただく機会が多くあり、少し前には沖縄に行ったのですが、本当に温かく迎えていただき感激しました。
 沖縄戦の歴史もあり、沖縄の人たちにとって「平和」は特別な意味があると感じます。観客の皆さんの表現がすごく豊かで、一緒に歌ってくれました。音楽が大好きで、音楽を通して喜びや悲しみを受け止めるところは、ウクライナの人たちとも似ているように感じました。

――ツアー以外にも、さまざまな支援プロジェクトをされていますね。

ナターシャ 報道では大変な状況ばかりが伝えられますが、ウクライナが築いてきた豊かな文化のことも知ってほしいと思っています。
 ウクライナ支援のクラウドファンディングでオリジナルレシピのボルシチを作りましたが、それも大切な食文化のことを伝えたかったからです。
 私と同じように原発事故を経験した幼なじみが今もウクライナにいるのですが、彼女は大変な人たちのところを1軒ずつ回って直接支援活動をしています。支援プロジェクトからの寄付は、彼女を通して現地での支援に使ってもらっています。

――民族衣装のプロジェクトについても教えてください。

ナターシャ ウクライナの人たちから民族衣装を買い取らせてもらい、チャリティーコンサートの会場で展示しています。寄付として購入していただくこともできます。
 ウクライナの民族衣装の刺しゅうには魔よけの意味があり、赤い糸は愛や喜び、黒い糸は悲しみを表します。赤と黒が混ざっているのは人生と同じですよね。
 展示している民族衣装には、それを身に着けていたウクライナの人たちが書いたメッセージカードを添えています。

――メッセージカードには、どんなことが書かれているのでしょうか。

ナターシャ 最初の頃は日本の人たちへの感謝のメッセージがつづられていましたが、最近では長い手紙が添えられていることが増えました。
 そこには、どれだけつらく大変な思いをしてきたのか、だれにも言えずにいた心の中のストーリーが書かれています。日本の皆さんにも読んでほしくて可能な限り私が翻訳していますが、本当に涙なしには読めません。でも、これを伝えるのはすごく大事なことだと感じています。

ナターシャさん

写真=スズキアサコ

悲しみを乗り越え、希望をもたらす音楽の力

――改めて音楽の力を感じている部分もあるそうですね。

ナターシャ もともとウクライナの人たちは音楽が大好きなので、たとえシェルターの中でもひとりが歌いだすと、みんなが一緒に歌うんです。どんなにつらくても、音楽さえあれば乗り越えられる。音楽が希望をもたらしてくれることを、人々はよく分かっているのではないかと思います。
 おそらく言葉ができる前から音楽は生まれていたはず。国を問わず、どんな人々の心の中にも音楽があるのではないでしょうか。私自身、音楽に何度も救われてきた一人の人間ですし、音楽家としても音楽の力を信じています。

――「平和」をつくるために必要なことは何だと思われますか。

ナターシャ 私たちが「平和」と言うとき、何か大きなものを想像しがちです。でも、実際には身の回りにある「小さな平和」を積み重ねていく、その一歩一歩が大きな平和へとつながるのだと思っています。
 私たち一人ひとりが「小さな平和」を見て見ぬふりすることなく、きちんと大切にしていく。そのことでしか本当の平和の実現には近づけないのではないでしょうか。

取材協力=オフィスジルカ 取材・文=中村未絵 写真=スズキアサコ 構成=編集部