「今までに食べた中で一番おいしかったもの」は?
座談会に参加した中高校生たちは、藤原さんから出された事前アンケートに答えていた。それは、「今までに食べた中で一番おいしかったものは何ですか」と「その理由」というシンプルな問い。藤原さんは「これから皆さんに自己紹介と、アンケートに書いたことをしゃべってもらいます」と告げると、「まず私から」と、話し始めた。
「私は、今、41歳です。島根県の農家で生まれました。おじいちゃんが、パッカー(三輪トラック)で畑や田んぼによく連れていってくれました。夏になると、じいちゃんが畑のトウモロコシをボキッともいで、コンロで炙ってくれました。パッカーって何をのせると思う? 牛のうんちです。そういうにおいをわあーっとかぎながら、トウモロコシをばりばり食べたというのが、印象に残っている、いい思い出です。さて、皆さんはどうですか?」
12歳のコーセイさんの答えは、こうだ。
「お母さんの作った新じゃがのフライドポテト。できたてのほかほかのが食べたいなーと言ったら、サッカーの帰りとかに作ってくれて」
「お母さん、毎回は作れないでしょ?」と聞く藤原さん。
「だから、サッカーの試合で優勝したときとか、すごいことがあったときに、おめでとう!みたいな感じで」(コーセイさん)
「いいなー。あなたのお母さん欲しいね。いい話ですね」(藤原さん)
続いて「夏休みに岩手県の民宿で出された前沢牛のステーキ」と答えたのは、18歳のアヤさん。理由には、こう書いた。
塩コショウで焼き、ポン酢でいただく。シンプルな味付けがよかったのではないでしょうか。また、お肉自体が上質なのではないかと思います。
これは、震災後、観光客の減少に直面していた平泉の近くへお母さんと旅したときの思い出だ。
「猫も一緒だったんですけど、民宿の皆さんがすごくあたたかくて、よりおいしく食べました」(アヤさん)
「なるほど! 肉がおいしかっただけじゃない。そのあたたかさ、雰囲気ですよね。民宿の話がすばらしいなと思って聞いていました」と、藤原さん。
ほかの人たちの答えは……
「自分で種を採って育てているトマト」、「佐渡島のアゴだしの味噌汁」、「家庭菜園のキュウリに味噌をつけて食べる」、「家族と食べるお好み焼き」などなど。
みんなの「一番おいしかったもの」が語られるたびに、藤原さんはうらやましそうに相好を崩し、軽やかにユーモラスに、発表者との言葉のキャッチボールを重ねていく。
その食べ物のいろいろなつながりが、おいしさを増している
実は、藤原さんは、自身の大学の講義「食と農の現代史」を選択した学生にも毎回同じ質問をしている。
「幼稚園児でも答えられるような単純な問いがどうしておもしろいかというと、『どこどこの高級店のふかひれ』だとか、そういうふうに答える人が少ないんです。だいたいご家族とか友人とか、人との関係性で話をする人が多い。僕は、これはすごくおもしろい、不思議だなと思っています」と藤原さん。
さらに、この質問をすると、その食べ物が持つ多様なつながりに触れる人が多いそうだ。
「先ほども単に味噌汁じゃなくて、佐渡という地域のアゴだしの味噌汁という話が出てきました。その食べ物にあるいろいろなつながりが、おいしさを増しているということなんですね。人は食べるとき、人間関係やその食べ物をめぐるいろいろなネットワーク、風景、思い出も一緒においしく食べている。そのことを伝えるために、このアンケートを取っているわけです」(藤原さん)
「食べ物」で哲学してみよう
そして、話題はいよいよ本題へ。「今日お話ししたいことは、実は『食べ物の哲学』なんです。哲学の本って、本屋さんにいっぱい並んでいるけど、おそらく私でさえも、ものすごく難しくて、読むのが大変です」
そう前置きをした藤原さんは、12歳のコーセイさんに質問した。「『どうしてこの世に生まれてきたんですか』と聞かれたら、何て答えますか?」
少し考えてから、「分かりません」とコーセイさん。同じ12歳のシュンスケさんも、「テストで出たらどう書く?」と聞かれ、「たぶん、何も……」と、考え込んだ。
「あなたなら何か書くよね」と、やや挑戦的に藤原さんに水を向けられたのは、15歳のそらさん。アンケートの答えに、自分で育種したトマトのことを書いた強者だ。
「理由じゃないみたいな感じがします。たまたまそうなったみたいな」(そらさん)
では、18歳の答えは? 達兄さんが「これから探すって感じですか」と言うと、場の空気が一気にゆるんだ。
「これから!? うまいなー。なるほどね」と藤原さん。
この流れを受けて、藤原さんは言った。
「これが哲学ってやつです。出された問題を解くのではなく、自分で問いを立てる。1時間で答えるのが無理なような問題を考えるのが哲学です。それはすごく大事です。皆さん、今からどんどん考える訓練をしておくと、将来とても役に立つと思います。そのときに一番とっかかりやすいのが食というテーマなんです」
「食べ物とはいったい何ですか?」
ここで議論は「食の哲学」第1ステージへ。藤原さんは、達兄さんの弟のユータさん(15歳)に問うた。
「テストで『食べ物とは何ですか』という問題が出たら、どう答えますか?」
「人にとって必要なもの」。ユータさんは、すぐに答えた。誰もがうなずく答えだ。
でも、藤原さんは、さらに突っ込んだ。「必要なものは食べ物以外にもありますよね。それと比べて食べ物はどこが違う? 答えはないから自由に答えてくれたらいいです」
ユータさんはしばし沈黙し、「難しいです」と一言。
同じく「生きるのに必要なもの」と答えたアヤさんも、食べ物の特徴を問われると、答えに詰まった。
そんな中、議論を進める扉を開いたのが、14歳のリョウタローさんだった。「建物はなくても生きていけるかもしれないけれど、食べ物がなかったら絶対生きていけない」
間髪を入れず「よし、来た!」と、藤原さん。
「京大でこの議論をやるときも、今のリョウタローさんのような話が出てきます。野宿をしても何とか生きてはいけるけれど、食べ物がなくなった瞬間に生きることができなくなってしまう。切実なものですね」
藤原さんの深掘りは、まだ続く。「そらさん、どうでしょう?」
「最低限必要なものだけを毎日食べているだけじゃ、生きていけない」(そらさん)
「今、すごく大事な話が出ました。生きるのにぎりぎりのものを食べている。それは生きているということになるのか。深い問いですね」と藤原さん。生きることと、食べること、その根幹に迫る問いが、次々に生まれていく。
そして、達兄さんに問うた。「どういうふうに深いと思いましたか?」
「ちょっと過激かもしれないけれど……」と前置きして達兄さんが触れたのは、経管栄養(※1)のことだ。これも「食べる」営みとしてとらえていいのか、迷いながら考えている様子だ。
藤原さんは、さらに17歳のケイさんに聞く。「私、小学校のころ、すごくからだが弱くて点滴で育ったと言われているくらいなんです。点滴で栄養をからだに入れることと、食べることってどこが違うと思いますか」
「(食べるほうは)おなかがすいたというからだの要求にこたえられて、おいしいものを食べたいという欲も満たせる」と、ケイさん。
「なるほど。点滴だと欲を満たしている感じがしないよね。欲望があるということが、食べることじゃないか、ということですよね」(藤原さん)
さて、この先の議論はどうなっていったか。それは、このたび出版された本でぜひ読んでいただきたい。
※1:口から食事を取れない、または摂取が不十分な人の消化管内にチューブを挿入して栄養剤を注入し、栄養状態の維持・改善を行う方法。
食べ物というテーマで、考えるための種をまく
座談会の最後に、藤原さんは参加者一人一人がこの場で果たした役割について語り、それぞれが個性を発揮したことを讃えた。
「今日の議論に答えはありません。答えを探すことが目的ではなく、みんなに考えるための種をまくことが今日の目的でした。今日、一番よかったのは、みんながほかの人の話を興味を持って聞いていたということなんです。これは食べ物というテーマが持っている可能性であるとともに、皆さんそれぞれの個性がよく立っていたからだと思います」
藤原さんに導かれ、12歳から18歳までが混じり合って、とことん語り、考えた「食べるということ」。最年少のコーセイさんは、こんな感想を語っていた。
「食べ物を食べるということは、何かを殺して食べているということだから、そのことをちゃんと考えて食べられるようになろうと思いました」
フライドポテトのことを楽しげに語っていたところからのこの着地に驚かされる。「考えるための種」は、それぞれの参加者の中で芽吹き始めているようだ。