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高齢者に食事を介助する技能実習生

技能実習生の誠実さが利用者の心をとらえて離さない(写真=豊島正直)

今、ミャンマーの技能実習生は何を思うのか? 仕事、家族、そして、母国の悲劇

  • 環境と平和

労働力不足を補う特効薬として注目される、技能実習生制度。その制度設計の問題が取りだたされつつも、40数万の若者が日本各地で就労し、日本社会を下支えしている。2021年2月にクーデターが起きた母国、ミャンマーとその家族を想いながら介護現場にいそしむ女性を訪ねた。

小さな技能実習生は、高齢者たちのアイドル

 品川区の湾岸、京浜運河にかかる長い橋を渡った先に八潮パークタウンがある。80年代に開発された巨大公営団地、最盛期には17,000人ほどだった住民も現在は12,000人ほど。高齢化は30%を超えるという。

 そんな場所柄なこともあり、団地の一角に居を構える生協パルシステム東京運営のデイサービス施設「八潮陽だまり」が、広く住民たちの支持を得ているのもうなずける。開所は1998年(平成10年)。すでに20年余、地域の高齢者サポートの拠点として機能してきた。

多くの利用者の対応に追われる技能実習生

介護現場の仕事はいつも目まぐるしい(写真=豊島正直)

 「利用者さんたちですか? とっても可愛らしい方々です!」

 あどけなさが残る笑みで、屈託なく即答するのはピョウ・ヤダナー・トェさん。ミャンマーから一年前に技能実習生として来日した20代だ。「日本語はぜんぜんダメですー」とはにかむものの、一年前と比べれば格段にうまくなった。記録簿はすべて日本語。利用者一人ひとりの状態を漢字で記録していた。

 毎日利用者として通ってくる近隣の高齢者たちにとっても、孫ほどの年齢のトェさんの存在は、なぜかほっとできる光明でもあるらしい。彼女の話す「基本に忠実な正しき日本語」、少なくともそうあろうとする彼女の姿勢が、高齢者たちには微笑ましいものとして映っているようだった。

 「トェさんたち実習生は、母国語の違いこそあれ、その持って生まれたあふれんばかりのホスピタリティから、日本人スタッフにとっても、本来あるべき介護の姿を思い起こさせてくれる大きな気づきにもなっているんです」と、所長の清水結花さんは実習生たちに全幅の信頼を寄せている。

技能実習生なくして日本の介護現場は成り立たなくなっている

 加速する少子高齢化の一方で、介護人材の確保は容易ではなくなっている。その活路を外国人労働者に委ねるのは必然とはいえ、言葉の壁はもちろん、介護技術の習得は容易なことではない。

高齢者の手を取る技能実習生

国や民族を超えた先に介護の姿がある(写真=豊島正直)

 一方、介護職の技能実習生受け入れ事業に挑戦する人たちもいる。「一般社団法人 国際介護人材育成事業団」を仲間たちと設立した専務理事・小沼正昭さんは、パルシステムのOB。在職中は、生協の個配事業立ち上げの中心メンバーとして、また、組合員のくらし全般をサポートする共済事業の統括としても手腕を発揮した経験を持つ。

 「良質な介護人材の確保は、これからの日本社会にとって必須条件になります。外国人労働者を招き入れることは、結果的に日本の高度な介護技術を広く世界に広げることにもなる。いつか彼ら彼女らが帰国した際には、母国で介護問題の解決に広く貢献してもらえれば本望、と考えたんです」

 清水さんを含む日本の介護事業所の責任者たちは、人材発掘のため小沼さんと共にアジア各国を歴訪した。中国、ベトナム、ミャンマー。結果、満場一致で白羽の矢の立ったのがミャンマーだった。

 「敬虔(けいけん)な仏教徒の多い国柄。控えめながら人を敬う姿勢が広く国民に浸透していました。若い方々は、みなさん明るくて真面目。介護職の人材としても最適だと感じました」と、清水さんも訪問したときの感動を語る。

入管法改正案に垣間見える、外国人の労働力に対する日本社会のまなざし

 しかし、技能実習生をめぐる制度設計には問題も多々ある。

 技能実習生制度は1993年(平成5年)に導入され、2019年4月の入管法改正時には、「特定技能」という就労ビザも新設された。この特定技能ビザは、日本国内で人材確保が困難な業種の「補てん」として、外国人労働者の労働力を活用することを目的に、促進もされている。

 それまでの入管法では、日本で就労できる外国人の資格は、高度な技能を持つことが条件とされていた。そのため、工場でのライン作業やサービス業、清掃業などの単純な業務には在留資格がなかった。2019年の入管法改正は、まさにそこに風穴を開けた。産業界の強い要請もあり、14業種を対象に「特定技能ビザ」が新設された形だ。

 その「入管法」が2021年に入って、再び注目を集めた。その新たな改正案では「難民認定手続き中の外国人であっても、申請回数が3回以上になった時点で母国への強制送還を可能にする」というものだった。しかし、難民申請で日本に滞在する外国人の多くは帰国すると身に危険が及ぶ恐れがあったり、長い滞在の末に日本に家族を残さざるを得ないこともあり、残留を強く希望するケースが多い。

 「在留資格を失った人の中には、過酷な労働に耐えかねた技能実習生や、学費が払えず退学を余儀なくされた留学生もいる。“不法滞在の外国人への対応”という単純な図式で捉えられないのが本質的な問題なのです」と小沼さんは語る。

 3月には入管施設で収容中にスリランカ人女性が亡くなる事件も発生。改正案を強行採決しようとする与党に批判が高まり、4万筆超えのオンライン署名が集まるなどした結果、国会での成立は見送られ、廃案となった。

 改正案に対しては、国連の難民高等弁務官事務所が懸念を表明、人権理事会の専門家からも「国際的な人権基準を満たしていない」と指摘されてもいた。小沼さんは「こうした動きの根っこには、外国人を単なる“安価な労働力”と見かねない、日本社会の考え方が少なからずあるのではないか。そこを私たちは改めて見つめ直さないと、また新たな改正案が現れないともいえない」と言う。

小沼さんは技能実習生を空港に迎え入れた

来日した技能実習生を空港に出迎える小沼さん(右端)(写真=国際介護人材育成事業団 写真は2019年のもの)

 その日――非番のため休んでいたノ・トォ・セイさんを、品川区内のアパートに訪ねた。トェさんを含む同僚3名との共同生活。真新しいアパートではないなりに、よく整理整頓された住まいは居心地がよさそうで、セイさんも「とくに不自由はないですよ。いつか一人暮らしはしてみたいですけどー」と笑った。

 ミャンマーでは公務員の父のもと、母と妹、兄の家族と共にミャンマーの首都、ヤンゴン郊外の小さなアパートでつつましく暮らしていた。父の定年退職が迫るなか(ミャンマーの公務員は60歳で一律定年を迎える)、妹の学費をはじめ、まだまだ家計はやりくりしなくてはならなかった。人一倍責任感の強かったセイさんは自身が家族を養うこと、そして将来の自分の未来を切り開くためにも技能実習生として日本へ渡ることを決意した。2017年のことだ。

 「父は渡航に必要な語学学校へ通うため、借金をして私の夢を後押ししてくれました。2年間の寮生活で日本語はもちろん、介護技術の基礎を学び、国際介護人材育成事業団を通じて日本へ渡ることができたんです」

 近年、ニュースに取りだたされる技能実習生をめぐる人権侵害の事件事故の話をすると、セイさんはひどく驚いた。「私の知っている日本の人は皆、やさしい。今日もこの後、清水さんと待ち合わせてパソコンを買いに行くんです。日本にいる間に、勉強できることはいろいろやっておきたい。まわりの皆さんがそれを応援してくれている」と、複雑な心情をあらわにした。

ヤンゴンの日本語学校時代のセイさん

セイさん(右)はヤンゴン郊外の日本語学校で介護も学んだ(写真=豊島正直)

継続か否か――母国は混乱状態に

 セイさんは、国際介護人材育成事業団による技能実習生としては、一期生にあたる。技能実習生の任期は3年。その時点で帰国するか、継続雇用を選択して働き続けるかは、本人の意思、そして就業先の意向に左右される。

 所長の清水さんは、かねてから継続就労を願ってきた。「セイさんは人一倍、勉強熱心。パソコンで勉強したい、と言ってきたのも『パソコンでできる仕事を覚えれば、忙しい清水さんを手伝えるから』が理由なんです。日本人のスタッフだって、そんなこと言ってくれないのに」と笑った。セイさんに限らず、出会った技能実習生は一様に「日本の職場のみなさんは、お父さん、お母さんです」と言う。

 しかし――セイさんは来年3月に迎える「満3年」のときどうするか、実は決めあぐねていた。来日して毎日、利用者と関わり、入浴介助やオリエンテーションを学び、次第に多くの仕事を任されるようになるなかで、確実に介護技術と日本語を習得していた当初は「3年たったら帰国して、日系企業に勤めたい」と言っていた。技能実習生になるため両親が工面してくれた学費も、すでに1年ほどで完済させていた。つつましく自炊を続けながら、収入の大半は母国の家族に仕送りし、3日に一度はSNSで家族と近況をやり取りする日が続いていた。それが揺らいだのは、今年2月1日の大事件だった。

東京・渋谷で行われた抗議デモ

東京・渋谷で行われた抗議デモ(写真=豊島正直)

 母国で発生した軍部によるクーデター。それは突然のことで、最初その事態が何を意味しているのか理解できなかった。90年代生まれのセイさんをはじめ、トェさんたち20代前半のミャンマーの若者たちにとっては、アウンサン・スー・チーがリーダーとして推し進めようとしていた民主的なミャンマーが、自分たちにとっての母国のすべてだった。

 「政治のことはよくわかりません。今、母国に帰るのは危険かもしれない。でも、家族が待っている」

 清水さんたちも、安全の確保という意味からも継続雇用をより勧めるようになった。クーデター後の日本では、各地に派遣されていたミャンマー人技能実習生たちが声を掛け合ってデモを開催していた。その度にSNSでは応援の声に交じって「このコロナ禍の中で集まるなんて」と非難の声も垣間見られた。そうしている間にも、国軍の弾圧による市民側の死者は870人。4999人が不当に拘束されている、とも報道された(6月19日時点)。少数民族支配地域では、空爆も繰り返されているという。

ミャンマーの家族たち

母国には、残してきた家族がいる(写真=豊島正直)

 そしてついに、セイさんは日本に残ることに決めた。

 「もう少し日本で勉強して、将来の夢のために資金を貯めることにしました。両親もそれがいいと言ってくれたし…」とセイさんは言うが、納得しきれていないのは見て取れた。技能実習生の多くが、20代の短くない期間を異国で過ごす。その多くが「家族を養うため」に海を渡るが、そこには自由も余裕もさほどない。数年後の自分がどうなっているかもわからない。母国に異変が起きているとなれば、その杞憂は大きくなるばかりだろう。

アパートで過ごすセイさん

アパートの一室でセイさんはボーイフレンドの写真を見せてくれた(写真=豊島正直)

 アパートの一室で、セイさんは、ふとスマホに保存された写真を見せてくれた。首都ヤンゴンにいるボーイフレンドだという。

 「いつか帰国したら、彼とレストランを開くのもいいなと思ってます。結婚できれば、ね」とはにかむセイさんは、その彼と必ず毎日一回はSNSで互いの顔を確認するそうだ。遠くにいても、心はいつも近くにあるのだろう。

 「それでも私は、日本に来てよかったと思っています」とセイさんは言う。彼ら外国人が少しでも安心してこの国で生きていけるようになることは、ひいては日本人にとってもここは住みやすい国となるに違いない。セイさんたち技能実習生、40数万人が、今日も日本のどこかで夢を抱きながら働いている。

取材協力=一般社団法人「国際介護人材育成事業団」 取材・文=編集部 写真=豊島正直 構成=編集部