単身北海道に渡り、酪農の世界に飛び込んだ
「ああ、牧場にお嫁に来てよかったなあ、ってほんと思ってるんです」
大西麗子さんは、笑いながら、迷いなくそう言いきった。宮崎生まれで、大阪育ち。酪農を体験したくて20代前半に一念発起、単身で北海道へ渡った。そこで夫となる大西博さんと出会い、そしてプロポーズされた。
「付き合ってもなかったんですよ。えー!ってびっくりして。2週間ほど考えさせてください、とは言いましたけど、でもどこかでこの人いいなって実は思っていたので、さほど迷いはしなかったんですけどね。だって男女がどうのの前に、牛の世話を一緒にするうちに、人として素敵な人だなって信頼していたので」と麗子さんは、また笑った。
それから約20年。二男二女をもうけた。三人は実家を離れて、下宿生活をしながら道内の高校に通っている。
「北海道で酪農を営む家庭では、どこでも子どもたちは高校進学とともに家を出るんです。通えるような近場に学校はないですしね。自分はサラリーマン家庭で育ったので、そのこと自体、カルチャーショックでしたね」
長女が家を出るときは、やはり寂しくて仕方なかった。このまま進学し、いつか好きな人が出来れば、遠い町でずっと暮らしていくのかもしれない。これでもうここに帰ってくることはないかもしれない。その現実をひしひしと受け入れながら、切なさがどっと押し寄せた日のことを、いまもよく覚えている。
子どもが熱を出しても、牛の世話はやめられない
麗子さんはずっと、実の父親とあまりよい関係ではなかったという。家を出て北海道という新天地で新たな人生を歩んでみようと決めたのも、そんな環境から解放されたい、という思いもあったのかもしれない。
研修先の酪農家はどこも家族が仲良しだった。牧草地が四方にどこまでも広がり、隣の家までは車に乗って行くしかない日常。冬になれば長く閉ざされる地にあって、「家族」は文字通り一心同体の運命共同体だった。家族であれば同じように起き、同じように働いた。それまで感じたことのない充実感に、麗子さんは次第に憧れるようになる。
「とはいえ酪農の仕事は、やっぱり楽ではないです。朝は4時に起きて、5時には牛舎で牛にエサをやり、生乳の収集車が来るまでの3時間ほどの間に90頭あまりの牛の搾乳をすべて終わらせないといけない。おいしい牛乳は新鮮できれいな生乳から出来ます。乳房の一つひとつを手抜きせずにちゃんと拭いてあげることも絶対なんですよね」
牛舎の倉庫には、パルシステムの組合員から届いたタオルがあった。乳牛の繊細な乳房はちょっとしたことで乳房炎になりやすい。小まめな消毒が必要だ。
「子どもが熱を出しても、牛の世話はやめられない。寝かしつけ終えたら、後ろ髪をひかれる思いのまま牛舎に向かったことも何度もあって。“ごめんね”って心の中で謝りながら、このタオルで乳を拭いてました」
酪農の仕事は、家族みんなでやること
「こんせん牛乳」を作るために大切なのは、生乳の細菌数が少ないこと。徹底した衛生管理が必要な中、大西牧場はとくに牛舎の中が清潔なことに驚かされる。ゴミひとつない通路、整然と整理された農機具たち。
麗子さん夫婦が搾乳に奔走する一方、通路を小まめに掃除していたのは博さんの両親だった。
「ゆっくりうちの中で休んでいてもいい歳なのに、毎日毎朝こうやって丁寧に掃除してくれるんです。黙々と。すごいなあ、ってずっと思ってます」
酪農の“ら”の字も知らず飛び込んできた麗子さんを、大西農場は自然に受け入れ、多くを教えてくれた。牛との接し方、病気の見分け方。それは「命」の育み方だった。しかも、牛舎での仕事に男も女もなかった。阿吽の呼吸でテキパキとこなす。自分が楽をしたら、相手が辛くなるのが手に取るようにわかる仕事だ。
「かわいがればかわいがるほど、牛はいい子になるんです。でも、乳牛としての役目を終えたら農場を出ていかなくてならない。はじめのころはとくに意識していなかったけど、別れる牛の数が一頭一頭増えてきて、だんだん切なくなってしまって。もしかして私、酪農向いてないんじゃないか、って思ってしまうほど思いつめたこともあって」
解決策はひとつしかなかった、という。「それは“一頭でもたくさんの牛をかわいがる”ってこと。愛する対象が増えれば、自分にとっても牛たちと一緒に過ごす喜びがどんどん増す。喜びが大きくなればなるほど、いつかは来る別れの切なさに次第に耐えられるようになることに気づいたんです」
「俺たち、継ぐよ」と長男と次男は言った
大西牧場はもとをたどると、入植は大正七年。先祖は四国の出身。明治38年に北海道に渡ったが、小作農のため道内を転々とし、風雪に耐えながらようやくたどり着いたのが、ここ根釧地区だった。
「100年、重みがありますよね。自分がこうして酪農の仕事を博さんとしながら、家族とも幸せに歩んでこれたのも、何代も前の先代たちのご苦労があったからこそなんですよね」
ただ、子どもたちには「好きなことをしてほしい」と願い、本人たちにもそう言い続けてきた。にも関わらず、長男と次男は最近「俺たち農場継いでもいいよ」と言い始めた。
「不思議ですね。博さんも一言も“継げ”なんて言ってないのに。でも、じいちゃんやばあちゃん、私たち親の背中見てたら、何か思うところがあったのかなあ」
聞けば、ふたりの息子は現在、家に帰ってきているという。コロナ禍で対面授業が禁止となり、ずっとリモートによる授業を受けているそうだ(注・2021年10月から対面授業は再開された)。「また、家族全員のごはんを作らなきゃいけないくなったから、もう大変!」と言う麗子さんは、とてもうれしそうに見えた。
ずっと相手のこと考えていれば、お互い幸せでいられる
365日休みがない、と言われてきた酪農の仕事だが、ここ10年ほどは、地元の農協に依頼すれば、酪農技術を持つ専門の「酪農ヘルパー」が数日間作業を代行してくれるしくみもあるそうだ。たまの休みには近場へ旅行することもある。もちろん家族一緒に。
また、大西牧場では牛のエサやりには、全自動の「エサやり機」を導入していた。家族経営の限られた人数では、多忙な酪農の仕事を毎日まかなうのは重労働。少しでも機械化できるところはチャレンジし続ける。
「私や両親をちょっとでも休ませようと、博さんがあれこれ奔走してくれた結果なんです。だからその気持ちに応えられるように、ますます牛の世話をがんばらなきゃって」
麗子さんの口癖は「一緒にいる間は、みんなが幸せでいられるようにがんばる」だ。それは子どもたちに対しても、牛たちに対しても変わらない。「どうやったら心地よくなれるか、自分も心おだやかでいられるか、ずっと相手のことを考えていればきっとずっとお互い幸せでいらえるはず、って」
今日も朝4時に麗子さんたちは目覚め、牛たちの世話をしている。そのひと搾り、ひと搾りがいま『こんせん72牛乳』となって遠く首都圏まで運ばれ、組合員のもとに届いている。