「喜びの汗を流したい」
発電事業に関わって4年になります。原発事故後、全村避難となって荒廃し、そして2017年にそのほとんどが避難解除となった飯舘村で太陽光発電を行い、首都圏へ電気をお届けしています。しかもその太陽光発電は「ソーラーシェアリング」といって、太陽光パネルの下では牧草を育てています。育った牧草は牛たちのエサとなり、良質な牛肉が生まれます。かつて飯舘村には「飯舘牛」というブランド牛があり、全国的にも知られる存在でした。それが原発事故で絶えてしまった。私はその復活を夢見て、電気を作っているんです。
ただ――もともとは有機農家だった私が、なぜ発電事業に取り組んでいるのか? 多くの方に同じ質問を受けますが、そのたびに「喜びの汗を流したいから」とお答えすることにしています。全国各地から寄せられる「福島への応援」に応え、より発展させるためにも、福島と共に“生きる歓び”を分かち合ってもらうことを心から願っています。
全寮制の学校で学んだ「自ら考えよ」
振り返ると、人生の最初の転機になったのは高校進学で山形へ単身わたってから。基督教独立学園高等学校という全寮制の学校でした。この学校には全国から変な奴がたくさん集まってきていたのですが(笑)、学校自体がとても変わったところで。キリスト教系の学校といっても「無教会主義」といって礼拝はあるものの、牧師や神父はいません。受験勉強も公然と否定する方針だったので、暗記よりも「思考と行動」を何より重視し、18泊19日にもわたる“修学旅行”のプログラムも生徒自身に考えさせる、という徹底ぶりでした。
1934年創立の学校が理念としたのが、無教会主義の創設者であり、日本を代表する思想家のひとり、内村鑑三の地方伝道の意思。この学校には校則らしいものはなく、「自ら考えよ」の一本でした。自分たちでルールを作るので、時代によって校則自体も変わりました。球技に夢中になりすぎる時代に「球技禁止」というルールができたり、1年生が風呂洗い当番だったのを、私の時代に“全員当番”に変更したこともありました。
巨大地震のさなかにも、絶対的に揺るがなかった「自信」
卒業後、農業、それも有機農業を目指して千葉や福島を転々としながらも、なかなか収入は増えず、一度農業を挫折したことがありました。すでに子どもは二人いて、自身は24歳のときでした。
でも捨てる神あれば拾う神あり。パルシステムへ農産物を納める二本松有機農業研究会の大内信一さんが「大変だが、もう一度農業を始めてみないか?」と声をかけてくれました。2006年のことです。
農薬や化学肥料を使わずに作物を育て上げるのは、毎回挑戦の連続で、運不運もある。大内さんからは「失敗する者は、必ず何かのせいにする」と教わり、与えられたチャンスとご恩は絶対にお返ししたい一心で、農業経営に努め、3haの専業農家になりました。そして2011年のあの日、私の農場も立っていられないぐらい大きく揺れました。地面が“波打って”ました。でもそんな揺れに翻弄されながらも、ぜんぜん怖くなかったんです。「オレには自分で作った米も野菜も味噌もある。井戸には水もある。全部自分で作ったんだ」って妙な自信があって。
“自給農家”の敗北
でも、間違ってました。
収穫しようにもトラクターなんて燃料がないと、ただの鉄のかたまりです。トラックも動かなければ、作物は腐っていくだけ。電気がなく、温度管理のできなくなったハウスなんて単なる箱でしかありません。自分は“エネルギーを自給できていなかった”。電気をつくっていなかった。これは決定的な敗北でした。
原発事故後は東京の実家に一時避難したものの、4月には二本松に戻って米の発送や種まきをしました。応援してくれるお客さんもいたし、自分でももしかしてなんとかなるんじゃないか、って気持ちもあって。
7月からは妻子を他県に避難させ、ひとりで農業を続けたものの売り上げを回復させる余力はなく、12月に2度目の廃業を余儀なくされたのです。個人の力の限界を痛感しました。
そのとき呆然としつつも、ふと高校時代に教わったことを思い出したんです。「自ら考えよ」。そして、農業時代に恩師、大内さんから言われた「失敗する者は、必ず何かのせいにする」。自分は“自給”したくて農業をしてきた。誰のせいにもしたくない。じゃあ、どうする? 自給に足りてないものは「エネルギー」だということははっきりとわかった。
じゃあ―― 自分のくらしだけを「自給」するんじゃなくて、自分がくらす福島の「自治」に参加できるんじゃないか?――って思えたんですよね。
電気をつくるのと食べものをつくるのは同じこと
そう確信してからは早かったです。二本松有機農業研究会にエネルギー部会を立ち上げ、再生可能エネルギーを事業展開する拠点探しに奔走しました。そのなかで飯舘電力を立ち上げたばかりの千葉訓道さんに出逢い、直談判で社員にしてもらったんです。それが2015年の6月、今度は発電を通じてパルシステムとつながるとは思いもよりませんでした。
パルシステムでんきの発電事業者に、もともと米農家や畜産農家の方々が多く見られるのは、食糧生産の現場が、電力事業を立ち上げるのに適した土地が確保できたり、現場で生じる残さが発電に利活用できる、という物理的な因果関係はもちろんあります。でも本質的に大事なのは、そこじゃないんです。発電は、食べものをつくるのと同じこと。いや、“同じでないとダメ”なんです。
安全で安心できる食べものをつくり、味わう。子どもたちが健康に育まれて、次の社会をつくる。誰も傷つけることなく、みんなが等しく幸せにくらせるようになる――おいしい食べものをつくることと、安全で安心な電気をつくることの目的は、同じなんです。
しかし、いま再生可能エネルギーをこの国で推進していくには、さまざまな壁があります。許認可制度の壁、法律の壁、資金の壁。でももっとも大きな壁は「立場を超えた人たち同士で語り合えない壁」です。日本に足りないのは「議論すること」。福島の、しかも飯舘で電気をつくることは、そうした壁を壊すひとつのきっかけになるかもしれないし、しなくてはならない―― 福島から本当の自治を実現し、“生きる歓び”をそのメンバーで分かち合う。有機農業を志したときの熱意が、別の意味を帯びて復活したように思います。
エネルギーの自治を成し遂げた福島の牛肉の味わいは、きっとひと味もふた味も違う趣があるはず――商品化にはまだまだ試行錯誤が続きますが、いつか飯舘牛が復活したとき、「電気と食べものはつながっている」ことを身をもって証明できるんだ、と今からとても楽しみです。
※本記事は、パルシステムのチラシ「月刊きぼうのでんき」2019年3月号より再構成しました。