帰りたいけど、帰れない
――25年以上にわたり、パレスチナの女性と子どもたちを取材し、作品を発表されてきた古居監督。本作では初めて、日本を舞台に選ばれました。”飯舘村の母ちゃんたち”を描こうと決めたきっかけを、まずお聞かせください。
古居 2011年5月に福島に入り、飯舘村の酪農家、長谷川健一さんと花子さん夫妻にお会いしました。その日は、酪農家のお母ちゃんたちが、泣きながら牛を出す日。故郷から追われたという意味で、私がライフワークとして追ってきたパレスチナと同じことが飯舘でも起きたと感じ、カメラを回し始めました。「この人たちを撮り続けよう」と。その縁で、飯舘村の佐須地区で味噌などの加工食品を作っていた菅野榮子さんと菅野芳子さんに出会い、2013年の味噌づくりワークショップ(※)からおふたりの取材を開始。それをまとめたのが、今回の『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』です。
(※)飯舘村佐須地区の「さすのみそ」を種味噌にして、新たな味噌を寒仕込みし、飯舘の食文化を後世につなげる「味噌の里親プロジェクト」主催。
――榮子さんと芳子さんが暮らす福島市伊達東仮設住宅で試写会をされたそうですね。
古居 笑ったり、うなづいたり、シーンとしたり、仮設で暮らす飯舘の人たちが、いろいろな反応を見せてくれました。面白かったのは、榮子さんと芳子さんご本人。「こんなに出るとは思わなかった」と。自分たちが主役なのに(笑)。
――絶妙のコンビです(笑)。
古居 でしょう(笑)。まるで漫才みたいなやりとりは試写会でも大受け。榮子さんと芳子さんもスクリーンのなかの自分を見て、ゲラゲラ笑っていました。映画では、自然体で撮ることにこだわったので、榮子さんはしゃべりっぱなしで、芳子さんは「だなあ」といつも聞き役。「よっちゃんも、しゃべんなよ」「榮子さんみたいにしゃべられねぇ」。ふたりのやりとりを追っていると、絆が深まっていくのが、よくわかるんです。
――榮子さんが、入院中の芳子さんをお見舞いに行く場面は、泣いてしまいました。
古居 映画を観ていただくとわかると思いますが、榮子さんひとりではダメなんですよね。最初は榮子さんのキャラクターに惹かれて撮影を始めたんですが、撮っていくうちに、芳子さんとふたりだからこその榮子さんだと痛感しました。
パレスチナと、飯舘と
――震災から5年。飯舘村の厳しい状況も作品の重要なテーマですね。
古居 原発事故が、故郷と家族とを分けてしまったわけです。芳子さんは、90代のご両親とともに、埼玉に住む息子さん一家のもとへ避難されます。ところが、ご両親が相次いで亡くなり、福島にひとりで戻ることを決意し、榮子さんが暮らす仮設の隣に引っ越すんです。「ふたりで生きていこう」と。ふたりでいると、悲しくても、笑うことができる。ふたりだからこそ、生きていける部分がある。飯舘のお母ちゃんたちの強さのひとつだと感じました。
おふたりは、今でも悩んでおられるはずです。飯舘に帰りたいけど、帰れない。除染が始まって、家財道具を無造作に捨てられて、がらーんとなったご自宅を見て、榮子さんは「もう帰れない」と。「伝えなければいけない」という想いが、榮子さんにも、芳子さんにもある。自分がこのときに何をしていたのか、何を考えていたのか、自分の子や孫、たくさんの人たちに伝えていく。
それって、とても勇気のいることだと思うんです。東北の人がそうなのかもしれませんが、飯舘の人たちはおとなしいし、とくに女性は発言を控える。悩まれたこともあったはずですが、榮子さんは「私は話す」と決められた。だからこそ、榮子さんの話は心に響く。ご自身で勉強をされているから、説得力もある。そこは自然体のまま、映画で描きたかったですね。
――榮子さんと芳子さんは、監督にとって母親世代でしょうか。
古居 母親というより、ひとまわり上の世代ですね。妹分的な感じで、私を受け入れてくれました。撮影していて感じたのは、おふたりとも、パレスチナのおばあちゃんと同じなんです。あたたかくて、知識と経験があって、自然体で本音を話してくれる。故郷への想いもある。パレスチナのおばあちゃんたちは、難民として暮らす先で、サボテンやオリーブを植えて、故郷を懐かしんだり、民話や歌を語り継いだりしているんです。昔に戻れないことを理解しているから、故郷を懐かしみ、恋い焦がれ、伝えようとする。福島の人たちも同じです。
今回は榮子さんと芳子さんを主人公に「土とともに」を完成させ、最初に撮影した長谷川花子さんたち酪農家のお母ちゃんは、飯舘村の帰村宣言をふまえて、どういう選択をするのかを見届けたうえで、第二章としてまとめる予定です。私としては、ようやく半分、完成した気持ちですね。
――飯舘村通いはこれからも続くと。
古居 そうです。本作では描けませんでしたが、飯舘村の若い人たちもつらい想いを持っています。榮子さんが言ってました。「年寄りが一番ひどい目に遭ったと思っていたが、若い人たちも傷つき、重いものを背負わされている」と。
笑顔の、その奥に……
――監督の作品は、有志の人たちによる「制作支援の会」が中心となって作られています。今回の作品もそうですね。
古居 本当にいろいろと助けてもらいました。金銭面の支援はもちろんですが、取材先まで車で連れていってもらったり、取材したテープを文字に書き起こしてもらったり、みんなで作ったという気持ちが強いですね。今後も自主上映の企画や映画のPRなど、いろいろとご協力をいただくので、ありがたいです。
――最後にメッセージをお願いします。
古居 自分の大切なものが奪われてしまったとき、どうなるのか。そこをしっかりと見ていただきたいです。そこから、原発が抱える問題点、原発の許されざる部分も見えてくると思います。
カメラを回していないとき、榮子さんが突然、啖呵を切られたんです。原発再稼働に対して、烈火のごとくお怒りになった。すぐに、いつもの柔和な笑顔に戻って安心しましたが、あのときは心にズシンと響きました。誰にでも起こりうる問題として、受けとめてほしいです。5年たって、福島のことが他人事になっている気がしますしね。
映画では、榮子さんと芳子さんの笑顔が、たくさん出てきます。その奥に、何があるのか、感じとってもらえるとうれしいです。飯舘村の畑で、黒い袋に入った除染された土を見て、「お前たち(土のこと)も、かわいそうだなぁ」と榮子さんがつぶやく。芳子さんが「だなあ」とうなづく。飯舘を本当に愛していらっしゃる。だからこそ悲しみも深い。
ただ、あんまり暗い気持ちになる映画じゃないですよ。家族やお孫さんのこと、老いのこと、食文化のこと、農業のこと、何気ない日常のこと、いろんな視点で見ていただける作品だと思います。なによりも、母ちゃんふたりの友情物語を、ぜひスクリーンで味わってください!
――ひとりでも多くの方が鑑賞されることを願っております。ありがとうございました。
※本記事は、パルシステム連合会発行の月刊誌『のんびる』2016年5月号より転載いたしました。
『のんびる』関連情報
2015年3月号『のんびる』総特集「震災、原発事故――それぞれの4年」