「母の病気が水俣病とは思いもしませんでした」
水俣市袋地区で柑橘類の有機栽培に励んでいる佐藤英樹さん。現在61歳の佐藤さんは、幼かった頃を思い出し、「私の母は歩くのがやっとなくらいの重症でした。患者認定されたのは、ずっと後になってからで、当時は、それが水俣病なんて知りませんでした」と語ります。自らも、すでに2、3歳の頃から、繰り返し襲ってくる「こむら返り」に苦しんできた佐藤さん。それでも、「親からも水俣病のことを聞いたことはありません。家のなかでも、地域の中でも、水俣病はタブー視されていたのです」
佐藤さんの父は漁師でしたが、水俣病が発生して漁で生きられなくなったため、山を拓いてみかん園やさつまいも畑に。「当時は、周りにそうした漁業者がたくさんいましたね」
鹿児島との県境、熊本県の最南端に位置する水俣。目の前に波の静かな不知火海が広がるこの地は、古くから豊かな海の幸に恵まれ、小さな漁村が点在する穏やかな地域でした。生活の糧はもっぱら漁業。人々はふんだんにとれる魚を毎日の食卓に乗せ、慎ましくも自足した生活を営んでいたのです。
汚染された魚を食べて水俣病に。胎内で毒に侵された患者も
後に”公害の原点”と呼ばれる「水俣病」がこの地を襲ったのは1950年代に入ってから。「水俣病」が初めて公式に確認されたのは、1956年でしたが、すでに53年頃には、ネコが狂ったように走り回って海に飛び込んだり、カラスが次々と落下するなどの異変が起きていたといわれています。手足のしびれやふるえ、耳鳴り、視野が狭くなる、ろれつが回らないなどの症状を訴える住民も急増。中には、急激に病状が進み、発病から1カ月ほどで亡くなる患者もいました。
水俣病の原因は、日本窒素肥料(株)(現チッソ)水俣工場からの廃液に混入していたメチル水銀でした。当時、大量に生産していた合成繊維、合成樹脂などの原料の製造過程で生成されるメチル水銀を、チッソは、何の処理もせずに海に排出していたのです。
メチル水銀は食物連鎖で魚や貝に蓄積し、それを食べたネコや鳥、人の脳などの中枢神経を破壊。さらに、汚染された魚を食べていた母の胎盤を通して胎児にまで被害が及び、生まれながらに障害をもつ胎児性患者も、認定患者だけで80人以上が確認されています。(朝日新聞、2010年4月10日)
なぜ、被害の拡大を防げなかったのか?
水俣病で問われるべき責任は、病気の発生はもちろん、その被害を拡大させてしまったこと。もし、チッソや国、行政が早い時期に的確な措置をとっていたら、患者の発生は最小限に食い止められていただろうとの指摘もあります。
じつは、被害の拡大を防ぐ機会は何度もありました。毒物による中毒であること、原因が水俣湾産の魚介類であることを突き止めた熊本大学医学部研究班は、57年、県を通して国に、食品衛生法の適用による漁獲禁止措置を強く要求。ところが、当時の厚生省は「原因物質が特定できないので漁獲禁止にはできない」と回答してきたのです。
その結果を受けた県も、食べた魚が病気の原因であることが明らかなのにもかかわらず、漁業者に漁獲・販売を禁止せず、自粛するよう指導するにとどまりました。
59年には、原因物質がメチル水銀であることが特定。魚介類を汚染したのがチッソからの廃液であることもほぼ確実視されていました。ところが、すでに自社内の実験で工場廃液を与えたネコに水俣病と同様の症状が表れたことを確認していたにもかかわらず、チッソはこの事実を隠ぺい。厚生省も水俣病の原因がメチル水銀であることは認めながら、発生源の追究はせず、チッソに対する排水規制なども行わなかったのです。
当時、チッソは国内屈指の化学工業製品メーカーであり、高度経済成長の牽引役でもありました。後の裁判で当時の関係者は、「チッソは、化学産業にとって重要な企業であり、操業停止などをして経済発展に影響を与えることはできなかった」と証言(日本経済新聞、2012年12月16日)。多くの犠牲者を出しながら、経済優先の論理の下、チッソは正式な公害認定がされる68年まで工場をフル稼働させ、メチル水銀入りの廃液を大量に排出し続けたのです。
患者や家族に向けられた、いわれなき差別と偏見
チッソが責任を認めず、国も対策を講じようとしないその一方で、働き手を失った多くの被害者家庭のくらしは困窮を極めました。追い打ちをかけたのが、患者やその家族に向けられた周囲からの差別や偏見。
子どもが学校でいじめを受けたり、近所から無視をされたり、魚が売れなくなるからと患者として名乗り出ることを止められたり、さらに、補償金や一時金をもらったことを非難されるなど、理不尽な仕打ちが繰り返されたといいます。
当時はチッソに勤める住民も多く、元工場長が市長になるなどチッソの発言力、政治権力は強大なものでした。59年には、患者や家族がチッソに補償を求める行動を起こしたことに対し水俣市民が反発。その後、裁判や補償を巡って、”地域経済を支えるチッソを脅かす存在”とされ、患者たちと地域社会の間の軋轢が長く続きました。
「水俣病は終わっていないし、この先も終わらない」
救済策などで一時金や医療費などの救済を受けた人は約7万人いますが、認定患者は、現在、2,280人(うち死亡1,879人)のみ。一方で、今も2,100人余りが患者認定を、約1,300人が裁判で損害賠償などを求めています(朝日新聞、2016年4月30日)。
「水俣病は終わっていないし、この先も終わらない」と語るのは、前述の佐藤さん。「国も県もチッソも、患者を患者として認めようとしないのだから、終わらせることはできない」と語調を強めます。
佐藤さんが「納得できない」と言うのは、患者と認定しないまま一時金や医療費を給付する、いわゆる「政治決着」といわれる救済制度のあり方や、厳しい認定基準。佐藤さん自身、何度も認定申請をしては棄却されています。
「8年前にも申請を出しましたが、”感覚障害がない”と棄却され、今回は感覚障害も認められているのに、”8年前に症状が見られなかった”という理由で棄却されました。ほかにも、家族内に患者がいないという理由で、症状があっても認定されない人もいます。こういう差別的な認定審査が今も行われているのです」。いまだに健康調査が実施されていないことにも、国や県のこの問題に対する不誠実な姿勢が現れている、と佐藤さん。
「水俣病は食中毒なんですよ。普通、食中毒が出たら、何が問題だったか、どんな被害があったかを調査しますよね。それなのに何の調査もしないというのがおかしい。国も県も水俣病の経験を生かして二度と起こさないようにしようなんて言っていますが、被害者の声には耳を傾けようとしない。これでは経験を生かすことなんてできるわけがありません」と憤ります。
「安全な食べ物を届けたいという気持ちは誰よりも強い」
メチル水銀に汚染された海を追われた佐藤さんの親の世代が甘夏の栽培を始めたのは、1960年頃。当初は畑で無防備に農薬が多用されていたため、肝臓を痛めるなど生産者の健康被害が頻発していました。
そこで佐藤さんたちは、水俣病患者や支援者を中心に勉強会を開き、「自分たちは化学物質で苦しめられてきた。農薬や化学肥料に依存することは、チッソがしているのと同じこと」と、農薬や化学肥料を使わない栽培に挑戦したのです。
畑で使う農薬を徐々に減らし、有機質肥料に切り替え、有機栽培に転換。パルシステムなど取り組みに共感する消費者団体と連携し、販路を広げていきました。
「”公害の原点”といわれる地だからこそ、自然に近い、安心安全な食べ物を届けたいという気持ちは誰よりも強く持っているつもりです」と佐藤さんは穏やかに、けれど力を込めて語ります。
「もし、自分がチッソの工場で働いていたら…」
一方、被害の当事者でありながら、人間の弱さや社会システムそのものから、水俣病の本質をとらえようとする人もいます。
2016年5月に東京・文京区で開催された「水俣病公式確認60年記念特別講演会」。登壇者の一人であり、『チッソは私であった』という著作をもつ漁師で水俣病患者の緒方正人さんは、「水俣病問題は、公害問題とか環境問題ととらえられがちですが、私は、文明の衝突の現場と思っています」と語りました。
緒方さんは、水俣病とは、伝統的なくらしを大切にしてきた水俣の人々と近代化を象徴するチッソという大資本との圧倒的な力の差がもたらした”支配構造の問題”であると指摘。そして、経済優先、効率優先の文明社会においては、誰しもが被害者にも加害者にもなりうると話します。
「もし、自分がチッソの工場で働いていたらと想像したら、たぶん同じことをしたんじゃないか、内部告発はできなかったんじゃないかと思い至った。チッソは決して遠い存在ではなく、文明社会のなかにあって、私たちと共犯関係で時代を作ってきたんじゃないでしょうか」
6歳のときに水俣病で父を亡くし、長い間、チッソを敵視してきた緒方さん。しかし今はチッソに対し、”課題を共有したい人たち”という思いをもっていると話します。
工業化、効率化を推し進め、急速に経済成長を遂げた戦後の日本。水俣病の発生と拡大は、その負の側面が形になって表面化した一つの事例といえます。経済優先の論理としくみに多くの人が限界を感じ、それでもなお同じレールの上を走り続けているように見える今の社会において、「自分自身が加害者にもなり得る」という現実と私たちはどう向き合ったらいいのでしょうか。
「どう転んでも、いかなる科学を用いても、人もこの自然界という大きな枠組みから逃れることはできない。ここで生まれて、許されて生かされている。そういう畏れをなくしてはいけないというメッセージを自然が発しているんじゃないかと思います」(緒方さん)
水俣病は今も私たちに、「人は人としてどう生きるべきか」を問い続けています。