コウノトリが日常の町 兵庫県豊岡市
「コウノトリは元気ですよ。新型コロナウイルスなんて関係ありません。前の取材の時は160羽ほどでしたが、今は220羽以上になりました」
市民、行政、JA、三位一体でコウノトリの野生復帰に取り組むストーリーを「KOKOCARA」で紹介したのは2019年夏のこと。その後2年で50羽以上も増えたわけだが、変化を話るJAたじま・住吉良太さんに、気負いも、成果を主張する様子もない。
「豊岡ではもう当たり前の存在になっていますからね。関東へは少ないかもしれないですが、ここから全国へ飛んで行っているんですよ」
注目すべきは、コウノトリの数よりも、増える命を支え続けている豊岡市の豊かな自然環境だ。コウノトリは翼を広げると約2m、1日の食事量は約500gという大食漢。魚やカエル、蛇まで食べる。
薬剤などが多く使われた田んぼで、生き物が命を育むのは難しい。そこで豊岡市とJAたじま、市民は動いた。「コウノトリのために」と、JAと農家は減農薬や無農薬栽培にかじを切り、市民は多種多様な命を育む湿地を整え、市は理解と共感の拡大に奔走した。
「その結果でき上がったのが、減農薬と無農薬、二つの『コウノトリ育むお米』です」
こうした活動が評価され、2021年、JAたじまは、農林水産省が主催する「未来につながる持続可能な農業推進コンクール」で農林水産大臣賞を受賞した。
世界に羽ばたくコウノトリ米を、もっと皆さんの近くに
2020年度はコロナウイルスに始まり、終わり、今も続いている。お米の出荷にも、変化が生じたという。
「無農薬のコウノトリ米への注文が急激に増えました。2021年4月現在、今年の秋からのお届けにさせてくれないかとお願いしているくらいなんです。一方、減農薬米にその動きは見られず、むしろ動きが鈍いくらいです」
招かざるウイルスは、出会いも生んだ。
「テレワークが普及したこともあり、よりよい環境で社員を働かせたいと、神戸市の会社が豊岡市を見にいらしたんです。そこで『コウノトリ育むお米』のことを知り、『これをヨーロッパに出さないか?』と。実はヨーロッパなど海外にコーヒーや日本食を輸出する商社さんだったんですね。とんとん拍子で話は進み、スイスを皮切りに、フランス、オランダへ出荷しました」
ほかにもアジア圏やアメリカ、アラブ圏へも安定的に出荷されており、令和2年度では約22トンの「コウノトリ育むお米」が海を越えた。
「こうした声がかかるのも三位一体で取り組んでいるからですね」と住吉さんは謙虚で冷静だ。人気のお米になっても、「コウノトリ育むお米」を始めたころと変わらず、作る人と食べる人の話を真摯に聞き、正直に対応し続けている。
「お米の味やコウノトリを育める環境作りにつながる米作りに共感いただき、利用し続けてくださったり、口コミを広げてくださるかたも多い。本当にありがたいです。しかし価格が利用のネックになっている事実は、直視しなければいけません」
「そのため、無農薬米は栽培方法の見直しを進め、収穫量の増大に取り組んでいます。そして減農薬米については、『つきあかり』という多収穫品種の栽培を視野に入れ、コストを抑えることで、多くの人が選びやすいお米にするための挑戦をしています」
食べる人のみへのメリットに聞こえるかもしれないが、そうではない。JAたじまでは、「コウノトリ育む農法」で栽培された米は全量買い取る。つまり収穫量が増えることは、農家の所得が増えることを意味するのだ。さらに多収穫米の「つきあかり」は早生品種。主力のこしひかりと収穫時期がずれるため、生産者に過剰な負担をかけることもない。
華やかに舞うコウノトリの眼下では、持続可能な農業の模索と変化が続いている。
生き物も文化も多様。その価値を全国へ
多様な生き物が躍動する豊岡市は、多様な文化都市としての顔も持つ。代表的なものには城崎温泉を中心としたアート活動や、かばん産業。近畿最古とされる芝居小屋もある。
こうした何かをきっかけに「地域おこし協力隊」に参加した人の中には、定住して米作りを始めたかたもいるという。
「少し前、コウノトリが徳島県のれんこん畑の近くで営巣・繁殖し、ヒナが巣立ったみたいなんですね。そしたら『鳥に悪いから』って、そこの生産者さんが農薬の使用を控えてくれて、慣行栽培だったれんこんが、結果的に特別栽培になったんです。コウノトリが農法を変えたんですよ!」
住吉さんはこの日初めて、少し自慢げな表情を見せた。それは空飛ぶ同僚を誇るようであり、コウノトリを養い続けている豊岡市の自然を誇るようでもあった。
“有機へ挑戦”せざるを得ない理由 熊本県宇城市
「20年、有機農業に取り組んできたことを認めてくださったんですかね。とてもありがたいことだけど、でもこの集落一体で有機をやってるのは、結局うちだけなんですよね」
自嘲ぎみにとつとつと語るのは、「肥後あゆみの会(水俣不知火ネットワークを含む)」の代表、澤村輝彦さん。今回のコンクールでは「生産局長賞」を受賞し、地元熊本でもその名前を知らない農業者はいない、といわれるほど「有機」の第一人者でありながら、しかし澤村さん自身は言葉の一つ一つを慎重に選び、しごく謙虚であり続ける。
「何でこの地で有機が広がらないか分かります? 冬場も温暖で土も肥沃、露地野菜は年に2回栽培できるし、農業でしっかり潤ってきた土地。要は“危機感がない”んですよ」
東には阿蘇の頂が控え、西には穏やかな不知火海が広がり、古くから風光明美な土地柄としても知られてきた。葉もの、根菜、かんきつ――多種多様な恵みは地元の自慢でもあった。
しかし、30代に有機に目覚めた澤村さんは地元のJAも巻き込んで、その拡大を図った。その歩みは実に10余年にわたった。しかし、根づかなかった。そのことは、今も歯ぎしりするほど悔しい現実だ。
海と畑はつながっている
「農業を始めたのは二十のころ。家業は漁師だったんです。でも次第に魚が捕れなくなった。しかたなく、しばらくは農薬や殺虫剤、殺菌剤を使いまくる農業で荒稼ぎしてたんです」
しかし、ある日気づいた。畑に来る虫たちが激減していた。土がやせて、野菜たちのみずみずしさが失われた。それはかつて、親たちが追われた海の衰退の姿と重なり合った。
振り返れば海が“やせた”のも、諫早をはじめとした干拓事業が国策として強引に進められた末のことに思えた。親に言われた言葉を思い出す。「のりは、海の植物なんだ」。
「私を変えた決定打は、韓国の有機農法の第一人者、趙(ちょう)先生と出会ったこと。そして水俣病から復興しようともがく農家たちとの出会いでした。“海と畑はつながっている”。自分はたった独りでも、有機でその両者をつなぎ止めなければならない、と使命感にも似た決意を抱いたんです」
地域で完結するのが「有機」
澤村さんの有機の定義は「地元の環境と共生すること」。自然環境と折り合いをつけながらよりよい恵みをもたらすには、地域を浮遊する菌や、土の中の生き物、そしてビニールハウス一つ建てるにも資材の調達先のことまで考えなくてはならない。澤村さんはそのすべてで「地元のものを使う」と決めた。
「よその土地でよいとされている菌を持ち込んでも、菌は菌のみで生きてるわけじゃない。その土地の水や空気と調和して育まれるんです。慣れない土地に来ても、野菜は気持ちよく繁殖はできない。“地元同士”ならケンカしないんですよ。有機は、花が咲き、受粉し、実がつく“命の循環”全体を見ないとうまくいかないんです。そのことを皮膚を通じて本気で理解できるようになったのは、ここ数年のことかもしれない」
そこまで有機を極めていても、澤村さんは「あきらめない」という言葉を何度も繰り返した。
「有機は失敗の連続なんです。ちょっとした環境の変化、読み間違いですべてが泡となってしまう。どんなにベテランぶっていても失敗するときは初心者と同じですよ。だから、何度失敗しても“あきらめない”で地域の未来を見据え続ける視点が欠かせないんです」
後継者の育みが、有機を進化させる
古くは「西南の役」の合戦場ともなった一帯。幾多の歴史を重ねながら、代々その土地を守ろうとした先人たちのことに思いをはせながら、澤村さんは有機に取り組んでいる。
孤軍奮闘してきたわが身を振り返り、ここ数年は後継の育成にも力を入れている。「1年間研修を受けたら独立せよ」という条件のもと、これまで5人の若者が、有機の世界に飛び出した。
「彼らを育てるのは、彼らが育てた野菜を選んだ消費者の“食べる”にかかっているんです。だからこそおいしいものを作らなきゃいけないし、有機が次世代に残してくれる豊かな環境の意味を伝え続けなくちゃいけない。有機が日本の国土を守るんですよ」
コウノトリが飛び交う豊岡市、そして、苦しみを乗り越えた熊本の地に、今日も自然とともに歩む“農家”たちがいる。そのメッセージの数々は、食と農を営み続ける意味を私たちに問い続ける。