漁師は、全員正社員
早朝4時。森水産の加工場に隣接する港に、漁師たちが集まってきた。他社の船よりも先によい漁場を探し当て、日の出とともに網を入れたい。おのおの慣れた身のこなしで船の点検を済ませると、ゴゴゴーと低いエンジン音を響かせるや否や、まだ薄暗い港から出航していく。
2艘(そう)の網船と1艘の魚探船で1船団。2艘の運搬船と合わせ、毎日、約20名が漁に出る。魚群探知機で見つけた魚群に「パッチ網(※1)」を投入し、2艘の船でしばらく引いたあと、運搬船に引き揚げる。とれたてのしらすを回収した運搬船が、何度も沖と浜の加工場を往復し、漁師は網船の上で終日漁を続けるという仕組みだ。
最も労力を要するのは、しらすのかかった網を、海にのり出すような体勢で船に引き揚げるとき。ウィンチ(※2)は使うが、腰や背中に大きな負荷がかかり、表情は険しくなる。引き揚げてからも作業に切れ間はない。鮮度を落とさぬように、間髪入れずに船底の水槽にしらすを移し、氷を投入していく。
ほっとできるのは、しらすがかかるのを待つわずかな時間のみ。29歳という有田さんに、「仕事は面白いですか?」と聞いてみると、「うーん、面白いっていうか……しんどいだけやけんね」と照れたような笑いが返ってきた。知り合いに誘われてアルバイトから始め、5年余り。「でも、もう慣れたけん。苦にはならないですよ」と、日焼けした顔をほころばせる。
森水産で働く漁師の多くは20代後半から30代半ば。今現在は全員正社員だ。
「日本全体でいったら、漁師の平均年齢は60歳くらいやから(※3)、頼もしい限りよね」と森さん。「漁師って世襲でなるもんが多いけど、うちには、親の職業にかかわらず、息子たちの同級生やら知り合いやら、地元の若いもんが自然に集まってきたんよ」と、声が弾む。
※1:網漁具の一種で、引網類に属する。パッチとはももひきのことをいい、網全体の形がこれに似ていることから、パッチ網と呼ばれるようになったとされている。
※2:巻き揚げ機。ロープなどを巻き取って、物体の上げ・下ろし、運搬、引っ張り作業などに使用する。
※3:平成20年度の平均年齢は56.2歳。(水産庁)
社長の口癖は「従業員のため」
なぜ、森水産には若者が集まり、そして定着しているのか。
ためしに、森水産で加工を担当する田中友之さん(38歳)に、「辞めたいと思ったことはありますか?」と聞いてみると、即座に、「ないねぇ。生活をしっかり支えられとるけん」という答えが返ってきた。
生活の基盤となる給料は、同世代のサラリーマンと比較しても低くない金額だという。「とれた分は社員で分ける」が基本。年間予算を超えた売り上げは、賞与として社員に還元される。
森さんは「その代わり、とれんときはなぁ」と声を落とすが、田中さんに言わせると、「そんなときも会社が頑張って調整してくれとるから、そんなに大きくぶれることはない」そうだ。
取材中、森さんの口から繰り返し聞かれたのは、「従業員のため」という言葉。
「社員は家族やと思っとる。困ったりトラブルに巻き込まれたりしたら、その都度しゃしゃり出ていきますよ。わしの仕事はそろばんはじくことだけやない。みんなが体も気持ちも、健康に働けているかどうかを見るのが仕事なんやけ」
「社長はいつも現場にいますね。僕らと同じ目線で、たわいない話をしてますよ」と田中さん。「僕が結婚して家を建てようとしていたときに、社長が、土地はあるけん貸してやるって。会社からすぐの場所を貸してもらいました。親戚みたいよね(笑)」
漁師のために、いち早く6次産業化に挑戦
家族のように思う社員の生活を支えるため、また新たな雇用を呼び込むために、早くから森さんが目指したのが経営の安定。それを象徴するのが、森さんが社長を兼任する「有限会社カネモ」の設立だ。
1989年のカネモ設立まで、森水産は水揚げしたしらすを釜ゆでし、和歌山や大阪の加工会社に原料として出荷していた。しかし、それだけでは、漁のある夏場に売り上げが偏る。値付けも相手任せになり、買いたたかれることもある。そこでカネモを立ち上げ、釜あげしらすを冷凍・個包装して商品化、販売まで行うことにしたのだ。
「今でいう6次産業化やね。そのころは、漁師ではそんなことだれも思いついとらんかった。漁師の収入(仕事)は季節で変動するのが当たり前やったけん。でも、仕事っていうのは、常にないと生活が充実しないというのがわしの考え方。森水産でとったしらすを釜あげして冷凍保管し、カネモで仕上げて出荷すれば、漁師の仕事も一年間のものになるやろ」
設立当初こそ売り先が見つからず苦労したが、漁と加工工場との密な連携によって生まれたカネモの「釜あげしらす」は、その鮮度と品質のよさが評判を呼び、生協を中心に全国へ。晴れて仕事の通年化を実現した。
「最初は加工場もおそまつなもんやったけどな。けど、生協さんとつきあうようになって、やっぱり『安心安全』が大事なんやと意識が変わった。特にパルシステムは要求がきつかったな。食べる人が後ろにいるんだからきついのが当たり前。こうしたい、ああしたい言うのを受け止めて、順々にいいものにしてきた。もちろん、今でも毎日が改善よ」
過酷な労働を支える「母の味」
「生活を支える」というのは、単に収入の話にとどまらない。連日、体力仕事にいそしむ従業員の健康維持に寄与しているのが、森水産の名物ともいえる社員食堂だ。社長の妻、森みよ子さんを中心に、わずか3名で毎日50人分以上の食事を用意する。
みよ子さんは毎朝7時から一人厨房に立ち、まず、漁師たちが船の上で食べる弁当を作る。天ぷらに煮魚、和え物、酢の物、漬物など、ボリューム満点。パートも加わり弁当を詰め終えると、今度は加工場の従業員用の昼ご飯の支度。
40年以上前に森家に嫁ぎ、新婚旅行から帰ってきた翌日から、ほとんど休まず食堂を切り盛りしてきた。「毎日レシピのことばかり考えてますよ。夢も見るのよ。『あ、キャベツがない!』って。笑っちゃうでしょ。大変じゃないなんて言ったらうそになるわね」。ではなぜ続けられるのか。
「従業員は朝早いし、しんどい仕事だから、やっぱり体が資本。せめてお昼ご飯くらいは、しっかり食べてほしいのよね。私にできることはこれくらい」。卵を溶きながらそう言う笑顔は、どこまでも温かい。
11時過ぎ。次々にやってくる従業員を迎えるのは、炊き上がったご飯やみそ汁のよい香り。そしてみよ子さんの「おかえりなさい」の声。人が感じる安心の源は、ものだけではない。
一度は故郷を離れたが……
カネモの工場で話を聞いたのは、工場長の堀井敦史さん。新卒で東京の設計事務所に入社したが、通勤ラッシュが耐えがたく、故郷に戻ってきた。
「仕事は嫌じゃなかったけど、あの満員電車だけはどうしても慣れることができんかった。今は、子どものころから、釣りしたり虫捕りしていた地元で仕事ができとるのがうれしい。1回出てみて、ここのよさがよく分かりました」
帰郷してしばらくたったころ、声をかけられて森水産を手伝い始めたという堀井さん。
「最初の2年は船に乗っていました。いっぱいとれたときの喜びは格別です。ただ、僕の場合、どんくさくてね。周りのムキムキなやつらが8割の力でやるところ、僕は100%の力を出さないけんかった」と苦笑い。ちょうどカネモの経営が軌道に乗り始めた時期でもあり、カネモに籍を移したのだという。
話の途中、森水産から釜あげしらすが運ばれてきた。それをチェックしながら、「ちょっと食べてみてください。甘いでしょ? うちは自分とこでとって自分とこで加工するから、鮮度が違う。おそらく日本一ですよ」と誇らしげに語る。
「こっち(カネモ)も、忙しいときは1日じゅう立ちっぱなしで、歩数計見ると4万歩なんてこともざら。でも自慢のしらすを安心して食べてほしいから、選別や管理、確実なパッケージなど決して手は抜きませんよ」と堀井さんは表情を引き締める。
「会社に使われているんじゃない。自分の仕事にしとるんよ」
取材に訪れた前日に、会社始まって以来の水揚げ高を記録した森水産。この日もさらに記録更新かと、沖も浜も活気づいていた。
そんな社員たちの姿を頼もしそうに見守りながら、「みんな、会社に使われているんじゃない、自分の仕事にしとるんよね。どんどん走って、段取りよくして。いい製品つくらなきゃという考えが、一人一人の頭にある。船が傷んだりすると、夜遅くまで直してますよ。明日の朝には漁に出るぞって」と、みよ子さん。
森さんも、「自分で考えて動くくらいやないと、ここではやってられん。みんなそれができてる。どこに出しても恥ずかしくない子ばかりよ」と、胸を張る。
仕事はきつい。危険もある。ピーク時は休みも思うようにとれない。けれど、誇れる仕事があり、働きに見合った収入があり、親のように自分を心配してくれる社長がいて、喜びも苦労も分かち合える仲間がいる。自分たちがとって加工したしらすを、喜んで食べてくれる相手とのつながりも見える。そして、目の前には、恵みを与えてくれる豊かな自然がある。
「働き方改革」が叫ばれ、就労環境や労働条件の見直しが進んでいるが、人に「ここで働き続けたい」と思わせる要素は、単なる制度や仕組みのほかにもあるのではないか――。
「うちは、集まって話しているとどんどん声が大きくなっていくんです。ほんと、やかましい(笑)。けど、言いたいことを言い合えるんが、気持ちいい。仕事はしんどいけど、しんどいと言ったところで動かなあかんのは一緒やけん」と田中さん。屈託のない晴れやかな笑顔に、森水産に若者が集まる一つの答えを見たような気がした。