「難民にも、私たちと同じ生活がある」
安田さんは、海外での取材活動に力を入れる一方、その視点は、国内で暮らす難民の人たちにも向く。さまざまなメディアで発信するかたわら、各地での講演活動に足を運ぶなど、忙しい毎日を送っている。
2019年1月31日、パルシステム東京新宿本部で開かれたトークセッション「記憶を宿す故郷の味―日本で生きる難民の人々を知る―」(主催:朝日新聞社、協力:パルシステム東京、認定NPO法人難民支援協会、Dialogue for People)にも、安田さんは登壇した。当日は、会社員から子育て中の母親、高校生まで、100名以上が参加。普段あまり知る機会がない日本の難民認定の実態、難民の方の日本での暮らし、故郷の料理への想いなどを、安田さんは語った。
トークセッションに参加したチョーチョーソーさんは、ミャンマー出身の難民で、都内でミャンマー料理店を経営する。「祖国にいる妻を日本に呼び寄せるまで、何年もかかった」とチョーチョーソーさんは語った。トークと質疑応答の後は、ミャンマー、カメルーン、クルドなど、日本で暮らす難民の方たちの故郷の料理をケータリングで用意。参加者みんなで味わう企画も好評だった。
参加者からは、こんな感想が聞かれた。「実際に食べると、そこの国をもっと知りたい、応援したい、という気持ちになる」「難民とはいえども、私たちと同じ生活があるということに思いが至った」「難民の受け入れに、日本があまりにも消極的でショックを受けた」。このように、日本における難民をめぐる現状は、まだまだ知られていない。
写真は“知る”という最初の扉
少しでも、日本で暮らす難民の人たちのことを知ってほしい。安田さんはその思いから、1冊の本を出した。2019年12月に刊行した『故郷の味は海をこえて 「難民」として日本に生きる』(ポプラ社)がそれだ。本の表紙を飾るタン・スィゥさん、タン・タン・ジャインさんご夫妻も、都内でミャンマー料理レストランを営んでいる。
「日本で暮らす難民の方々がつくる祖国の味には、故郷の思い出と想いが宿っています。愛する故郷をなぜ、離れなければならなかったのか。食文化を通して日本の人たちに届けようと書きました。難民問題は、遠い国の出来事ではなく、身近な隣人のことなんですよね」(安田さん)
安田さんが認定NPO法人「国境なき子どもたち」の「友情のレポーター」(※1)で、内戦終結後のカンボジアを旅したのは16歳のとき。貧しいなか、自分と同じ世代の子どもたちが、家族を一番に思う姿に衝撃を受ける。そして、「出会った人たちのことを伝えたい」と雑誌社などに売り込み、自ら記事を書いたのだ。
「もともと海外に興味のなかった高校生が、帰国していきなり“燃える高校生”になったんです。ところが、文章だけだと伝えたいはずの同級生や友人になかなか届きません。逆にカンボジアの写真を見せたら、ふだん話したことのない同級生が、すごく関心を持ってくれたんです。写真が“知る”という最初の扉をつくる存在だと、そこで知りました」
安田さんは大学生のとき、一枚の写真と出会う。フォトジャーナリストの渋谷敦志さん(※2)が、内戦中のアフリカ・アンゴラの難民キャンプで撮った母親と赤ちゃんの姿だ。それがフォトジャーナリストを志すきっかけだった。安田さんの著書『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)には次のようにある。
顔と顔を合わせ、「置き去りにされた悲しみ」に耳を傾け、それを写真に込めて持ち帰ること。それが今、フォトジャーナリストとして私がすべきことなのだと――
「写真家だから撮って当然、ジャーナリストは伝えるのが仕事、そうわりきった瞬間に、人の心のなかに土足で踏み込むことになると思います。今は心を開けなくてもいい。いつか話したいと思ったときに、聞かせてもらう。津波で被害を受けた陸前高田にずっと通っていますが、震災から何年も経って、あの日のことを話してくれる人もいます。細く、長く、その人に関わり続けたい。私たちの仕事は、コミュニケーションをていねいに重ねることに尽きます」
※1:開発途上にある国々のストリートチルドレンや、人身売買の被害に遭った子ども、大規模自然災害の被災児などを支援する認定NPO法人 国境なき子どもたちが毎年、中学生・高校生を「友情のレポーター」として現地に派遣する。
※2:しぶや・あつし。1975年生まれ。東京を拠点にアフリカやアジア各国を取材、紛争や貧困、災害の地で生きる人たちの姿を伝え続ける。
次の世代に争いを持ちこさない
今回のインタビューの直前、シリアとイラクを取材したそうだ。「クルド人部隊はテロリスト」との名目のもと、トルコがシリア北部に侵攻、多くの一般市民が巻き添えになった。シリアで安田さんは、ある家族と出会う。
「お母さんは私と同世代で、避難準備のさなかに砲撃を受けました。13才の息子さんが亡くなり、8歳の娘さんは右足を失い、左足も大けが。11才になる下の男の子は片目に大けがを負い、失明するかもしれません。娘さんはサラちゃんといいますが、彼女が私を見て言ったんです。『こんなことをやめるように、大きい人たちに伝えて』。戦争を起こす権力者を指すと思いますが、一人の大人としての、私自身が問われている気がしました」
次の世代に争いを持ちこさない。そのことを教えてくれた友人もいた。安田さんが中東に関わるきっかけとなったイラクの友人、アリさんだ。「人間である限り、争いはなくならないのかな」と言う安田さんに、アリさんが返す。「人間だから、じゃないよ。どうせそういうものだって諦めてしまう、人の心がそうさせるんだ」
「アリとこの前会ったとき、『トランプさん、ひどいよね。ムスリム(イスラム教徒)のことを悪く言ってさ』と話したら、『僕は彼を憎まない。本当のムスリムは、悪く言われようと、石を投げられようと、それさえ受け入れる』と言われました。私は、憎しみの感情に対して、憎しみで返そうとしていたんですね。アリは、そういうことに気付かせてくれる、大事な存在です」
「写真に撮る」とともに、「言葉に書く」ことも多い安田さん。そこには写真とはまた違う、言葉ゆえのこだわりがあると言う。
「抽象的な言い方になりますが、寝る前に『世界はもしかしたら、悲しいこと、つらいことばかりではないかもしれない。明日も生きていける。生きていたい』。読んだ人が、そういう気持ちになれる言葉を書きたいし、届けたいです」
“明日を変える”世代からの学び
志を同じくする“明日を変える”世代を育てることも、安田さんの大切な活動だ。中学校や高校で講演する機会が多く、中学生・高校生に向けた著書『写真で伝える仕事 世界の子どもたちと向き合って』(日本写真企画)もある。
「高校生のときに機会をいただき、いろんな大人から学びをもらって、今の私があります。今度は私が、その機会を返す番です。次の世代への種まきのような仕事と人でありたい。写真や言葉で届けたものが、若い人たちの心に残り、自分のペースで育てて花を開かせていく。その種は確実にまかれていると感じています」
かつて講演や本を通じて安田さんを知った若者たちが、写真展やイベントに訪れることも多いという。「言葉で伝える仕事をしたい」とジャーナリストを志す新社会人や、「命を救いたい」と医師を目ざす大学生もいる。
東日本大震災の被災地を訪ねる高校生のスタディツアーも、安田さんが熱心に取り組む活動だ。この旅をきっかけに、動き出す高校生もいる。学校内に防災サークルを立ち上げたり、津波による田畑の塩害に心を痛めて、塩害に強い農作物の研究を志したり、そのかたちはさまざまだ。16歳のとき参加した「友情のレポーター」にも、先輩として同行。2017年、フィリピンへの旅に同行したときのエピソードを話してくれた。
「13歳の男の子と15歳の女の子と、青少年鑑別所を訪れました。そこには犯罪に巻き込まれた側の子どもたちもいます。友情のレポーターの彼女が、収容された13歳の女の子に話を聞いたら、泣いて、泣いて、言葉にならなくて。少しずつ話を聞くと、性犯罪に巻き込まれ、本来はケアされるべき子だとわかりました。センターの人たちも事情を知ったわけです」
その取材がきっかけで、女の子はそこから出ることになる。しかし――
「友情のレポーターのふたりは『あそこにはまだ、そういう子たちがいるんですよね』と言うんです。一人の女の子を救ったことに、決して満足しない。まだまだ伝えなければいけないことがたくさんある。そういう視点を持っている。具体的な出会いがあって、五感で感じたからこそ、その子たちが気付けた。大人の側がそうした出会いと対話の場を、もっとつくらないといけないと思います。中高生といっしょに旅をしたり、話すのは、私の大切な学びの時間です」
2020年は、どういう年にしたいですか。最後にそう訊いた。
「オリンピックイヤーですよね。たくさんの方を海外から迎える前に、私たちが聴くべき足元の声がたくさんあるはずです。日本の難民認定率(※3)は世界的にも極端に低いし、収容施設での長期収容と虐待は、世界から批判を集めています。難民の問題だけではありませんが、『あなたのすぐ隣りにいるよ』『私たちの気持ちを聴いてほしい』といった声に、私たちはどこまで耳を傾けることができたのか。そのことを、一人ひとりが考える年にしたいです」
※3:2018年に日本で難民認定を受けた外国人は42人。前年の20人より増えたとはいえ、1万人以上いる申請者に対し、認定率は1%に満たない。