「地元・宗像市民として、大島を何とかしなくちゃいけない」
福岡県宗像市。神湊(こうのみなと)港からフェリーで25分。玄界灘に浮かぶ大島へと向かう。
大島(宗像大島)は、周囲約15km、人口約700人、漁業が中心の島だ。晴れた日には、約50km離れた沖合に、入島が厳しく制限された沖ノ島も見える。
大島には、旧大島村が産業活性化のために1970年に開発した村営牧場があった。広大な牧草地を生かし、最盛期には約300頭の牛が飼育されていたが、出荷に船を使うことなどから採算を取るのが難しく、2010年に民間経営に移された。しかしそれも長くは続かず、2016年に廃業してしまった。
そのころ、沖ノ島を初めとする宗像の遺産群を世界遺産に登録しようという動きが注目され始めていた。牧場は丘の上にあることから、島内でも特に景観が良く、晴れた日には沖ノ島も望める。地元・宗像市は、牧場として維持できないか模索していた。
宗像市の職員で離島振興を担当する「元気な島づくり係」の濱村隆さんは、次のように話す。
「島民の方たちと話してみると、小さいころから牧場がある中で育ってきた人ばかりなんです。“大島には牧場がある”というのが島民の心の中にはあるようで、それがなくなるということに、とても抵抗がある。市としても、何とか牧場として続けたいと願っていました」
採算の問題などから、引き受ける農家がなかなか見つからない中、市が最後に声をかけたのが、宗像市で牧場を経営する株式会社すすき牧場・代表取締役の薄(すすき)一郎さんだった。地元で生産した飼料で牛を育てるなど、福岡県内でも一目を置かれる肉牛農家だ。
「自分が住んでいる町の近くにありながら、大島に来たことはほとんどなく、大島の価値も全然分かっていなかったんです。ところが、市の方に案内されて、牧場を見てみると、こんなに素晴らしい土地があるのかと。地元・宗像市民として、ここで何かやらなくちゃいけない、やれるんじゃないかと思い、引き受ける決心をしました」(薄さん)
最初の1年は、荒れた牧草地の草刈りに費やす
2016年4月、薄さんは、株式会社大島むなかた牧場を設立。初年度は荒れた放牧地の整備、草刈りに費やした。
「最初は牛を飼える状況ではなく、まずは手作業で草刈りをしていました。しかしこの土地は、丘陵地も多いし石も多いので、手作業には限界がありました。そこで導入したのが、“ヘイ・マサオ”君です」
薄さんが「マサオ君」と呼ぶのは、四輪駆動の乗用草刈機。急斜面の丘も、ぐんぐん登って草刈りをしてくれる機械だ。
この草刈機の導入には、薄さんが長く産直取引をしてきた生協パルシステムの「地域づくり基金」を活用した。
地域づくり基金は、持続可能な地域社会づくりや農林水産業の発展に寄与することを目的に、パルシステム連合会が地域の復興・再生を資金面で支援する制度だ。
「おかげさまで、とても助かっています。マサオ君は、すごく頑張っていますよ。10人分ぐらいの働きをしてくれますね。特に夏場は、人力だと参っちゃうもんですから」と薄さん。
草刈りは、牛の生育のためにも必要だと薄さんは言う。「実は、この牧場に牛を入れると、ダニが付いて牛がダメになると言われていたんです。ダニの発生源は藪ですから、まずは、手入れされずに荒れてしまった藪をなくす必要がある。牛が育ちやすい環境づくりのためにも、欠かせない仕事なんです」
「自分がここに来て、牛を飼うことが、大島や島民のためになる」
薄さんが次のステップを考えていた中、牧場再生への道を一気に開く出会いが生まれる。若き牛農家、山地竜馬(やまちたつま)さん・加奈さん夫妻との出会いだ。
山地竜馬さんは、奈良県生まれで、サラリーマン家庭に育った。農業とは全く縁がなかったが、10年ほど前に、鹿児島の離島、口永良部島にIターンで移り住み、そこで出会った牛農家の誘いで畜産業に携わることに。島で生活する仕事の糧として、ほかに仕事がなかったというのが、牛飼いを始める最初のきっかけだった。
「そこから10年経って、経営も軌道に乗ってきた時でした。ようやく半人前の農家になってきたところで、その先の将来が見えずに迷っていました。僕としては、自分が生活できるだけじゃなくて、もっと若い人たちがこういう仕事に携われるようになって欲しいと考えていたんですが、難しさも見え始めていて、牛飼いを続けるのは辞めようと思っていたんです」
そんな時、思いがけず、牛農家として以前から注目していた薄さんと会う機会に恵まれる。「『辞めようと思っているんですけど』って電話して、とりあえず会いに行ったんです。僕としては、飼っていた牛を薄さんに売ろうかな、ぐらいに思っていたんですが……」
そんな山地さんに、薄さんは、大島での牧場再生計画について説明をした。
「薄さんは口説いたつもりはないと思いますけど、大島に対する熱い想いや、これからの構想について話を聞いているうちに、もしかすると、自分がここに来て、牛を飼うことが、島のためにもなるし、地元の人たちのためにもなるんじゃないかと。それは、自分がやれなかったこととも重なるような気がしてきました」
結局、山地さんは、2017年4月、自分の牛を連れて大島に来ることにした。「展開は早かったですね。本当は、辞めようと思って会いに来たんですけど(笑)」
薄さんの想いとともに、山地さんの心を打ったのが、広大な牧草地の存在だ。
「こんなに素晴らしい土地があって、かつて300頭も牛がいたのに、今は牛が1頭もいないなんて、本当にもったいないなと。僕一人では何もできませんが、『責任ある牛飼い』を目指してきた薄さんとなら、何かできるんじゃないかと。それは、単に自分たちの商品を売りたいということだけじゃない。この島の自然や環境を守りたい、生かしたいという思いに、自分のやりたいことが重なったんです」
牛が300頭いたときの風景を取り戻す
「山地さんという方に出会って、ようやく牛が入って、大島の再生に向けて、一歩進み出しました」と、薄さんもうれしそうに目を細める。
「ここでは、子牛を育てることを考えています。広い土地があって運動もできますし、子牛が健康に育つ。健康に育つと、薬剤に頼らない生産ができますし。ちゃんとした放牧技術を入れることで、100%大島のえさから、栄養分やミネラルも取れるような飼育の仕組みを作れたらいいですね」(薄さん)
見渡す限りの青い空、眼下に広がる海と、緑の牧草地の中、山地さんが連れて来た牛たちは、お腹いっぱいになるまで草を食み続けている。
「牛もこの景色を見ながら、喜んでいますよ。草は食べ放題。ほかにえさをやらなくても、十分健康に育ちます。牛にとっても、働く人にとっても、最高の環境だと思います。今は20頭しかいませんが、どんどん増やして、昔300頭いたときの風景を取り戻す。これが一番の目標です。楽しみですね」(山地さん)
妻の加奈さんも、島から島への移住に驚きつつ、竜馬さんと牛の世話に励む。「放牧だと牛が勝手に草を食べてくれるから、牛舎で飼うよりも、私たちも労力を使わなくていい。牛も自分が食欲があるときに食べてくれるから、いいのかなと思います。自然の中で育ったものだから、人間の体にとっても絶対にいいものになるだろうなと思いますね」(加奈さん)
始まったばかりの“牧場再生”プロジェクトを永続させていくには、消費地との関わりも欠かせないと、竜馬さんは言う。
「一人でできることじゃないですし、お金があればできることでもない。一人でも多くの人に大島という場所を知っていただいて、ここで牛飼いの姿を見てほしいですね。そして、それを商品として買っていただいて、というサイクルが続いていくことで、若い人たちにさらにこの営みが持続的に続くようにしたい。ここは何回も途切れてきているので、もう、一人の農家の人が辞めたから牛がいなくなったということにならないように……」
「失敗はできないですね。でも、逆にそれがやりがいにつながっています」と話す山地さんの決意は固い。