夏の4か月間は、町全体が昆布に染まる
北海道の東南端に位置するえりも町。場所のイメージはなくとも、「襟裳岬(えりもみさき)」という地名なら聞いたことがあるだろう。サケやカレイ、ホッキなどの魚介類に恵まれ、中でも日高昆布の一大産地として、この地域だけで実に日高昆布の6割の水揚げ量を誇る。
昆布漁は7~10月ころまで行われ、最盛期は8月だ。この時季のえりもを訪れると、文字通り町全体が昆布一色に染まった光景が広がる。天日乾燥させるために収穫した昆布を広げるので、豊漁の日に昆布で埋め尽くされた町は、圧巻の一言だ。
「昆布仕事は家族全員でやるもの。自分も記憶にないくらい小さいころからやらされてきました。子供のころは、友達と遊びたいし、虫取りや魚釣りのほうがしたいしで、仕事が終わったころを見計らって戻ったりしてね」と話すのは、昆布漁師の川﨑高志さん(40歳)。
川﨑さんの父も昆布漁師で、今は親子二人で船に乗っている。小さいころは、昆布の根の部分を切ったり、昆布を天日干しする干場(かんば)に広げたりする手伝いをしていた。今も昆布を取る家では、子供たちが通学前に漁の手伝いをするのが日常だ。
「親の背中を見ているうちに、いつの間にか仕事の要領も覚えていって、自然と触れ合う仕事も悪くないと思って、昆布漁師の道を選んだんです」
「えりも砂漠」とまで呼ばれたかつての荒廃
えりもの町の背後に目を向ければ、シカやキツネが駆け回り、鳥やチョウが飛ぶ、緑豊かな山々が見える。ただ、この姿が「当たり前のものではない」ということを、えりもの住人たちは皆、胸に刻んでいる。
かつて、えりもの山はカシワやハルニレなどの広葉樹が茂る豊かな原生林だった。しかし、明治から昭和にかけての燃料確保のための伐採や、牛・馬・羊の放牧地開拓によって、森が急速に失われていったのだ。
一度失われた緑を再生させることの難しさは言うまでもない。さらに、えりもの場合は「強風」という壁も立ちはだかる。風速10m以上の風が年間270日以上吹き荒れる日本屈指の強風地帯でもあるのだ。
森を形作っていた樹木は消え、樹木に守られていた雑草までもが風によって吹き飛ばされてしまった。はげ上がった山では砂が舞い上がり、町や海へと降り注ぐ。あまりに過酷な環境は「えりも砂漠」と呼ばれるほどだった。
今でこそ、樹や草花が茂るえりもの山だが、砂漠化の名残は現在でもところどころにある。頂上付近に近付けば、草がまだらに地面を覆っているだけの場所や、女性の腰ほどの高さしかない樹が目に入る。ひっきりなしに吹く風が、植物の生長を妨げているのだ。
「ばあちゃんたちからは、茶わんの中にまで砂が入って、ごはんを食べるとジャリジャリ音がした、という話も聞いています。外を歩くにも顔に布を巻いて、とにかく何から何まで砂だらけだった」と話すのは、えりも漁業協同組合専務理事の住野谷張貴さん(63歳)。
住野谷さんが育った場所は砂漠化が最も進んだ地区とは離れていたというが、当時のようすを昨日のことのように話す。それだけえりもの人に語り継がれてきた危機だった。
自然と向き合い65年。ようやく戻った緑
砂漠化はえりもの人々の日常生活はもちろん、生業としている漁業にも大きな影響をもたらした。山から降り注ぐ土砂で水が濁れば、魚は近海に寄り付かない。海底の岩に根を張る昆布は、砂が降り積もった状態ではしっかりと根を下ろすことができず、満足に光合成もできないため、生育もままならない。漁師たちは、生計を立てられない状態にまで追い込まれていた。
海と山の関係性を痛烈に感じた漁師たちは、昭和28年に緑化事業をスタートさせる。しかし当初の結果は、風の脅威をまざまざと見せつけられるものだった。植え付けた種や苗は、すべて吹き飛ばされ、さまざまな防風策を講じても、どれも有効な手段とはならなかった。
「そんなとき見つけたのが“ゴダ”と呼ばれる雑海藻だったんです。そこら中の砂浜に打ち上げられている、何てこともない海藻なんですが、試しに種を植えた場所にかぶせてみたところ、海水を含んだ重みで土を絡め取るような作用を見せました」(住野谷さん)
事業開始から5年がたち、ようやくつかんだ緑化の糸口。ゴダの力でまず草が大地に広がり、樹が根付き、少しずつえりもの山に緑が戻っていった。
「海に助けられたのです。私たちが森をつぶしたことを後悔し、どうにかしてえりもの自然を取り戻そうと躍起になっていたときに、助けてくれたのもまた自然なのです」(住野谷さん)
緑化は過去の話ではない。現在、そして未来へつなぐために
そうした中、昭和58年に「えりも岬の緑を守る会」という、組合や役場、学校が共同で立ち上げた、えりもの緑化事業を推進する会ができた。代々の会長を務めるのは、漁師の代表である、えりも漁業協同組合の組合長だ。
「漁師がいちばん、山の大切さを知っています。『森があればそこに魚が着くよ』と教えられてきました。海を守るには、山を守らなければいけないんです」と語る住野谷さん。この切なる思いが、緑化事業として、漁協の活動にもなっている。
えりも全体の植樹量からいえば微々たるものだが、漁師の団体である漁協が出資し、自分たちも緑化にかかわっているという意識が大切なのだ、と住野谷さん。会の結成当時から毎年、年間200~5000本のサクラやマツを植えてきた。当初は風に強い常緑樹が中心だったが、これからはえりもの本来の自然に生えていた、広葉樹の植樹に力を入れていく予定だという。
劇的と呼ぶにふさわしい復活を遂げたえりもの山。それは、ひとえに漁師とその家族をはじめとするえりもの住人が根気強く自然と向き合い続けてきた結実でもある。
とはいえ、月日がたち、当時を知る人は少なくなった。今必要なことは、あの砂漠化を次世代に伝え継ぐことだ。地元の学校では、緑化事業を授業のカリキュラムに組み込み、植樹祭や樹々のメンテナンスに学生を積極的に参加させる取り組みが行われている。
「次の課題は継承です。えりもの山はまだ元に戻ったわけではない。私たちの次に、この山を守り、海を守っていく世代を育てること。これが先代、先々代から今のえりもを受け継いだ、私たちの役目ですよ」(住野谷さん)
昆布と生きるとは、自然と生きるということ
えりもの夏の夜に聞こえるのは、波の音とカエルの声、そして風の音だけ。日付が変わり、2時ころになると多くの昆布小屋に明かりがともり、今日もまた昆布漁師の1日が始まることを教えてくれる。
川﨑さんは砂漠化を経験した世代ではないが、山と海に対して抱く思いに年齢の違いはないという。「おれが生まれる前は土砂漠だったと、親から耳が痛くなるくらい聞きました。雨が降ると、海が土で赤くなったとかね。でも目の前に緑の山があるから、魚も昆布も取れなかったなんて想像もできなかった。学校の授業で映像を見て、初めて実感したんです――感謝します、先代たちに。本当に。あの努力がなかったら、間違いなく今はないから」
「昆布で生きるっていうのは、自然と生きていくこと。昆布と一緒に暮らしているって言ってもいいかもしれない」と川﨑さん。彼らにとっての昆布は生きる糧であるとともに日常でもある。「えりもじゃ昆布をするしかないのも本当だけど、いちばんいいのも昆布。いちばんいいですよ。死ぬまでやります」
生協パルシステムは2014年、えりも漁業協同組合と産直提携を結び、国内9番目(当時)の「水産産直」産地となった。日本の食文化に欠かせない昆布を取る漁師と、それを育むえりもの環境を、日高昆布の利用を通じて守り、支え続けるためだ。
長い時間をかけて取り戻したえりもの自然と、それを成し遂げるために年月を費やした、漁師たちの存在。「日高昆布」という商品の向こうには、今も自然と向き合い、海と山を守り続ける漁師たちがいる。