「疑うこと」は、考える力そのもの
――最近は、平和を求めるデモ活動が日本各地で活発に行われていて、それが新聞やテレビで十分に報道されていないのではないか、偏向報道ではないかといった批判の声も聞かれます。平和や民主主義を支えるものの一つにメディアの力があると思いますが、ヤマザキさんは日本の報道をどのように見ていらっしゃいますか。
ヤマザキマリ(以下、ヤマザキ) 私もいわゆるオールドメディアのニュースはまったく見ません。海外で報道されているような知りたい情報をちっとも教えてくれないし、本当に伝えるべきことを隠蔽しているし、それが誤魔化されるような別のニュースをもってきたりしているから。
うちの母親は新聞を3紙とっていたんですが、毎朝、子どもの私を呼びつけては、「全部言っていることが違う」と教えるような人でした。それは母が戦争経験者だったからでしょう。敗戦を境に価値観ががらりと変わり、自分たちは国や報道に騙されていたとわかった。何もかも信じられなくなるという経験を、昭和ひと桁生まれの人たちはしていて、だから「疑う力」をもっていて強いんですよ。
私が17歳でイタリアに行っていちばん最初に学んだことは、「信じるお前がいけない。疑う力をもっていないお前が悪い」。「疑う力」は思考力であり、洞察力であり、好奇心であり、人間として大事な要素が全部含まれている。だけど人間の歴史においては、権力者が「疑う」を悪い言葉のごとく印象づけて、人々を考えないようにさせてきたんだと。
世の権力者って、人々の「考える筋力」を衰えさせることに必死なんですよ。そうしないと、群衆をうまく動かして統制できないからですが、現代はそれに気づかない人が多すぎる。ラクしたいから、自分で考えるよりも情報を信じていたい。そうやって予定調和にすがって怠ける態度が、すごく危機的に感じられますね。

写真=深澤慎平
――日本人が予定調和を好むというのは確かにわかりますね。メディアの情報をただ鵜呑みにするのではなく、自分で考えて答えを導き出すために、どんなことを心がけていますか。
ヤマザキ 一つは、「自分の目で見て実際に確かめないと」という、好奇心と行動力をもつことです。そもそも漫画家ってうわべの情報だけでは決してできない仕事なので、どこまでもとことん調べるフィールドワークが必要で、学術研究者と重なるような性質が求められるんですよね。あとは、世界の歴史を広く深く、好奇心をもって学ぶことでしょうか。
例えば、なぜ日本人は調和性を好み、「出る杭を打つ」傾向があるのか。日本は島国だし、八百万(やおよろず)の神がいる国で、キリスト教やイスラム教の国のように、一人突出したリーダーについていくという習性がない。私は「空気読む教」って呼んでいるんですけど、人様にどう思われるか、社会がどうジャッジするかが重要であって、そのような多神教の特徴は、古代ギリシャ・ローマと果てしなく近いところがあるんですよね。
では、ギリシャやローマはどのようにして村から国家を築き、数千年の繁栄ののち、どのように崩壊したのか……そういった歴史を俯瞰するような目で、いまの世界の情勢を見ていると、あまり動じずに物事を分析したり予測したりできる。歴史を学ぶことで、いま起こっていることを認知する力が養われるんです。

写真=深澤慎平
正義というものほど危ういものはない
――いまの世界は民主主義の危機が問題視されていて、日本も例外ではありません。ヤマザキさんの考える国家や民主主義は、どんなものですか。
ヤマザキ 人間社会は帰属社会で、群れ単位をつくっていかないとうまく稼働しないんですよね。家族、集落、自治体、そして国。人間ってやっぱり一人きりでは生きられない、社会性の生きものだから。でもその社会の中で、居心地が悪いとか、窮屈だとか、自分はそうは思わないとかっていう納得のいかないものが生まれてきたときに、みんなで話し合うためにあるのが民主主義じゃないですか。
「納得がいかなくたって、こういう掟があるからダメだ」と統制するんじゃなくて、うまくいかないことを、ちゃんと会って話し合わないとダメなんですよ。群れを守っていく、よい群れにしていくためには、個人それぞれが考えたことを意見として言っていく。
自分が考えていることとまったく違うことを言っている人に対しても、「あいつ腹立つ」じゃなくて、「そういうこともまああるかな」と思えるフレキシビリティーを身につけないと、よい民主主義ってできない。自分の考えていること以外は認められないっていう性質ほど、バカなことはないと私は思う。
――本当にそうですね。SNSの世界では、よくそうしたやり取りが見られます。
ヤマザキ SNSでもっとも嫌なのは、匿名で顔を出さずに、いらない正義を振りかざす人がいっぱいいることです。私、「正義」っていうものも、あんなに流動的で頼りのないものはないと思っていて。国によって、宗教によって、正義なんてもう千差万別で、みんな自分こそ正しいと思っているわけですよ。
例えばシリアのIS注釈が遺跡を破壊して考古学者を殺して、「よし、これで俺たちの正義を貫いた」というふうに言っている。私はシリアで暮らしたこともありますが、大好きだった場所が破壊されて、もう二度と見ることができない。知り合った人たちは全員音信不通です。
いま戦争を主導している権力者たちにしても、みんな正義を振りかざしているじゃないですか。俺たちは正しい、お前は正しくない。正義というものほど、人間社会の中で危ういものはないなと考えています。
そもそも、われわれが人間であること自体が正義になっちゃっているんですよ。それで戦争をし、人や生きものを殺し、石油タンクを破壊して、流れ出た石油は海を汚染する。人間は数ある生きものの一種でしかないのに、地球で選ばれし存在だと考えている、その自負が怖いんです。
私の母は縁もゆかりもない北海道に移住し、シングルマザーとして娘二人を育て、演奏家としての生涯をまっとうした人です。何ひとつ既成概念にとらわれず、周りと足並みを揃えなくても毅然と明るく楽しく生きた人だったんですが、彼女は北海道の自然が大好きだったんですね。私は母から「あんた、人間はどうでもいいから、地球に嫌われない生き方をしなさいよ」と言われて育ったんですが、いま人間は自負と自我に溺れて自滅しつつありますよね。

ヤマザキさんは多数のご著書の中で、北海道での暮らしや、母・リョウコさんとのエピソードをつづっている(写真=深澤慎平)
お風呂は穏やかに物事を考えるためのコンテンツ
――『テルマエ・ロマエ』ほか、作品の中には「平和」という言葉がよく出てきます。ヤマザキさんにとって、平和とはどういうものでしょうか。
ヤマザキ 平和は「知性」ですね。一人ひとりが考えて咀嚼する力をもち、人間力を出し惜しみせず使い切って生きる中で育まれるものが、知性。知性を養えば、ちゃんと寛容性や寛大性も身につくはずですから、そしたらそれは平和ですよ。
古代ローマに「パクス・ロマーナ注釈」という平和の時代が200年くらい続いたとき、スローガンは「クレメンティア」、すなわち「寛容」なんです。ローマが力をもち、属州からいろんな人が入ってくる中で、自分たちの考えだけを押しつけていては崩壊してしまう。いままでと違う考えの人も受け入れようと。
それから大事な会議はみんな風呂に入りながらやるんですよ。丸腰で風呂に入ればヒエラルキーも曖昧になるし、温まって話をすれば、さっきまでチクチクやり合っていた議題も「まあいいですわ」みたいに丸く収まる。だからローマ人たちは、侵略した地域にも、あんなにたくさんの公衆浴場を必死になってつくったんです。お風呂は地球の恩恵でありつつ、穏やかに物事を考える機会を与えてくれる、一つのコンテンツだと思うんですよね。
――知性が寛容さに結びつくというのは、なるほどなあと思いますね。
ヤマザキ 知性はね、勉強したら身につくものではないんですよ、経験値が伴わなければ。勉強して教養を得たら、経験もそれぐらい積むことが肝心で、教養と経験の二つを混ぜ合わせてようやく、説得力をもつ知性になる。それをおざなりにしてほしくないですね。
でも、その経験というのは、海外に行って特別なことをするということなどではなく、日常の中で、いつもだったら端折ることをやってみるとか。いつもなら受け入れられない人の意見を、なぜこの人はこれをいいと思うのだろうと考えてみるとか。
私は2、3回やったことがありますけど、ふだんからそりの合わない、絶対に腹の立つ人とごはんを食べに行くといいんですよ(笑)。二度と行かないけれど、何かしらわかることがある。
――見たいものだけを見て、知りたいことだけを知るのではなく。
ヤマザキ 知りたくないことも知らないと、知性にはなりませんね。この前、あるテレビ番組で「老害」について話してくれと言われて、「老害、上等じゃないですか」って言ったんです。老害こそ、いまの社会が「知りたくないこと」だから。
歳を取るというのは一筋縄ではいかなくて、怒るとすぐにわめくじいさんとか、みんなに都合の悪い、理不尽な存在が社会に生まれていくことだけれど、昔の子どもたちは日常で関わり合って知っていたはずで。それを「害」と呼んで見ないようにするとか、理不尽や不条理を払拭したら、人間、成熟しない。
悲しい、苦しい、不快、怒り……そういう負の感情と向き合わないような教育をしているから、まずいんですよ。いろんな目に遭って、いろんな感情の経験値を上げていくことで、自分なりの判断力が培われて、知性も身についていくんじゃないですか。

写真=深澤慎平
声を上げたら、コミュニケーションをとろう
――最近は日本でも「声を上げる」という言葉がよく聞かれるようになりましたが、それについてはどう思いますか。
ヤマザキ つまりそれくらい、日本人は声を上げない社会制度の中で生きてきたんでしょう。ほかの国では、声なんていつでも上げています。家の中でも、どこでも、もうすさまじいです。生き延びていくには声を上げるのが当たり前という社会なんですよね。
日本人も「そうしないとあかんな、こりゃ」と気がついたのでしょうけど、声を上げたからといって、それが受け入れられる社会になるまでには時間がかかるだろうなと思う。
それから、声を上げて「よーし、俺言ったぞ」と自己完結するんじゃなくて、今度はコミュニケーションをとってほしいですね。全然自分と違う意見を言っている人の声を聞いて、なぜそれに対して腹を立てるのか、とことん考えてみる。寛容のスイッチをカッと入れて、闘わないでやってみてほしいんです。
話は変わって、市川市動植物園の子ザルのパンチくんが、ぬいぐるみのオランママを離さない映像が世界中でバズったじゃないですか。あれが共感を呼んだのは、人間にとっていちばん弱い部分を柔らかいものに守ってほしいという気持ちの表れではないかなあ。
生まれてきた命を否定されたくない、この地球で擁護し合ってなんとかやっていこうという心が人間には備わっているはずなのに、戦争って「お前死ねばいい」という命の否定ですよね。なぜ、それを人間が決められるのだろう。
まずは、人間が地球上のリーダーだという自負から一回離れて、なぜ戦争をやめられないのか、知性を使って考え続けてみる。すべてはそこからじゃないかと思います。