大震災と原発事故で、日常は一変した
「たまにね、仮設暮らしのほうが楽しかったかも、って思っちゃうことがあるの。いや、そんなわけはないし、そうであってはならないってことは分かってるんだけどね」
現在、福島県の楢葉町に暮らす小尾トミ子さんは、冗談交じりに、そう言った。
楢葉町は福島県の「浜通り」と呼ばれる沿岸地方にの中央に位置する小さな町。主だった産業は、かつては農業か、町の中心を流れる木戸川に遡上するサケ漁などだったが、町から北へ約20キロの地点にあった福島第一原子力発電所の事故で、町の暮らしは一変した。
全町避難が決定され、小尾さん夫妻を含む住民約8,000人は、県内の温泉地で借り上げられた旅館などを避難先に、転々とする生活を2カ月ほど続けた。
「当時を思い出すと、いまでも心が苦しくなるの。慌ただしく我が家をあとにして、いつ帰れるか分からない状況の中、殺風景な旅館の部屋で夫婦二人、話すことも尽きてもんもんと過ごしていたんだもの。口を開けばけんか。せっかく二人で新天地を求めて楢葉町にやってきたのに、これからわたしたちどうなっちゃうんだろう、って」
転々とする中で増していった「孤独」
小尾夫妻は、もともと楢葉町の住民ではなかった。神奈川県川崎市でサラリーマンをしていた夫・明さんの早期退職を期に、夫婦で新たな人生を歩もうと、地方での暮らしを模索した。子供たちもみんな独立し、各地を訪ね歩いた結果、理想郷として移住を決めたのが楢葉町だった。大震災の3年前のことだ。
「わたし自身、山形の出身だったから福島には親近感があったし、楢葉町は海にも面していて冬も温暖。夫は趣味の釣りのし放題だし、ちょうどいい中古物件もあったから、二人でいいね!って」
トミ子さん自身、人懐っこく、すぐに場に打ち解けられるタイプではあったが、地元になじむには多少時間もかかる。ご近所とは懇親に努め、地元サークル活動にも顔を出しながら、少しずつ地元に溶け込もうとしていた矢先だった。
「避難先を転々とするうちに、そうした糸もすぐに切れてしまった。しばらく夫婦そろって孤独だったのよ」
仮設住宅暮らしは「楽しかった」
2011年の6月、仮設住宅に入った。そこは楢葉町からは西へ100キロほど離れた、山深い会津地方。工業団地予定地に即席で建設されたその仮設住宅団地には、当時最盛期で100世帯ほどの町民が暮らしていたという。
広いとは言い難い2DKの間取り、板一枚挟んで物音も聞こえてくる隣人たちとの暮らし。雪深い会津では、夜ともなれば底冷えもひどく、毎日雪かきに追われた。
「でもね、こう言ったら誤解されるかもしれないけど、私、毎日楽しかったの。しょうゆを切らせばお隣に借りにいく“長屋暮らし”は、同じつらさを分かち合えるお友達との助け合いの連続だったから」
トミ子さんは、そこで無二の親友たちと出会う。それは、支援団体の助力で古Tシャツをリサイクルしてた布ぞうりづくりのグループをつくったことがきっかけだった。仮設住宅内の空き室を借りた「工房」で、仲間と集まっては手仕事半分、おしゃべり半分で、故郷に帰るまでの日々を思いながらお互いに励まし合った。次第に腕を上げ、販売会のため県外に遠征したり、支援団体を通じてパルシステムで販売し、一度に500足の注文が殺到、夜なべに奔走することもあった。
これからの暮らしに必要なこと
楢葉町は、2015年9月に避難指示が解除された。小尾さん夫妻も仲間と共に仮設住宅を後にし、「帰郷」を果たした。4年あまりの留守の間に傷んだ我が家を修繕し、しばらくは廃校になった小学校の一室を町から借り受け、新たな工房として布ぞうりづくりを再開。同じ仮設住宅出身の親友たちはもちろん、ほかの仮設住宅から帰還してきた町民にも声をかけ、新たな仲間も次第に増えた。少しずつ「震災前」を取り戻そうと奔走し7年、すっかり落ち着きを取り戻したように思える。しかし。
「工房に集まるといっても、実際には月に2日ほど。小さな町とはいえ、みんなの家はあちこち離れているから、頻繁に行き来も難しい。このコロナ禍で、子供家族もなかなか遊びにも来られないでしょ。なんか、時折ふと、寂しいなあ、って思ったりしてね」
布ぞうりの鼻緒を締めながらトミ子さんは、いまの「暮らし」をそう表現した。現在、楢葉町に帰還した住民は4,000人ほど。福島第一原発の廃炉関係の従事者もいれば、かつての小尾さん夫妻のように、新天地として移住してきた若い家族もいるという。
「再開した小学校から子供たちの声が聞こえるとほっとする」という声も多く聞かれる。かつて津波にさらわれた沿岸部はすっかり整備され、防潮堤が続く。病院や保育園やデイサービス施設も中心部に集められ、次第に町の風景は整っているように見える。一方で、一人ひとりの心の中にある「空白」はまだしっかりと埋められていないようにも見える。トミ子さんもそのことを自問し続けている。
小学6年生の目に焼き付いた故郷の風景
同じ楢葉町出身の佐藤聡さんは、現在宮城県仙台市に住まい、大学院で検査技師の勉強に励んでいる。大震災当時は小学6年生だった。
「あの瞬間、ものすごい揺れで立っていられなくて。教室でみんな大騒ぎでしたが、揺れが落ち着いてから町内の別の小学校に移動することに」
小高い丘にあった佐藤さんの小学校からバスで移動しながら沿岸部を通ったとき、見慣れた風景が一変していたことに気づく。津波で破壊された田畑と集落。自宅に戻ってからも周辺は慌ただしさを増し、当時原発関係の仕事をしていた父も職場と自宅を行き来する中で、気づけば着の身着のままで避難のバスに乗り込んでいた。
旅館など、避難先を転々とした。一時は会津の中学へ進学したが、そこも2カ月ほどで転居してしまった。
「全然落ち着かないですよ。友達もできない。その後、沿岸部のいわき市の仮設住宅に落ち着いたんですが、狭い仮設住宅で家族5人、だんだん自分の居場所がなくなっていったんですよね」
次第に失われていく自分の居場所
佐藤さんの弟は四肢まひの脳性まひで、重度の障害者でもあった。佐藤さんはそれを自然のことととらえていたし、兄弟仲もよかったが、どうしても母は弟の介護に時間を費やさざるを得なかった。母が弟をやむなく叱責することも、仮設暮らしのストレスもあってか頻繁になった。狭い仮設住宅の中で、そうした現場に居合わせることも、次第に苦しく思うようになった。
「それにお金のことが大きかったかもしれないですが、当時、親同士の関係が険悪にもなってて。自分も思春期だったこともあったんでしょうね、不登校になってしまったんです」
家族のこと、友人関係、恋愛、そして将来のこと。多感な青年にとって、それらを心の中でバランスよく消化するのは容易ではなかった。
そんなある日、友人の誘いで「保養プログラム」に参加した。パルシステムが復興支援の一環で助成を行っていた、神奈川の支援団体「福島子ども・こらっせ神奈川」の主催で、子どもたちのために、遊び場とともに「居場所」を提供する活動だった。
保養プロジェクトで救われた孤独
原発事故後、県外に外出するケースがなかなかなかった佐藤さん。放射能被ばくへのリスクを気にせず思い切り遊べる楽しみと共に、それは課題を抱える家族とつかの間、距離を取る口実にもなった。
「保養の現地を訪ねてみると、数年間離れ離れになっていた小学校時代の旧友たちとも再会できたんです。夜、布団に入ってからも、ずっとおしゃべりしてました。お互いが話したいことがたくさんあった。サポートしてくれるボランティアの大学生たちも、私たちにずっと寄り添って話を聞いてくれました。本当に楽しかった。そして、気持ちも楽になったんです。ずっと、孤独だった自分から脱することができたんでしょうね」
現在、佐藤さんは大学院に通いながら、今度はボランティアとしてサポートする側に立ち、子供たちへの寄り添いに努めている。
「子供たちは一人ひとり、何らかの葛藤やつらさを抱えています。そんなとき自分の過去の経験を生かすことができれば、と思って。子供たちがゆっくり心を開くことができる、そんな寄り添いができればいいな、と思っています」
人を支えられるのは「人」でしかないのかもしれない。「当時、全国の心ある方からさまざまな支援をいただきました。食べ物や衣類、そしてお金。そのどれももちろんありがたかったけど、いま振り返ってもはっきり言えるのは、僕らが本当に必要としていたのは『話を聞いてくれること』、その一点だったんです」と佐藤さんは確信をもって語った。
「福島生まれなのに飯舘村には縁がなかった」
福島第一原子力発電所を挟んで、楢葉町とは反対方向、北西に位置する飯舘村。そこで再生可能エネルギーによる復興再生に取り組んでいるのが、小林浩人さんだ。パルシステムが送電する「パルシステムでんき」へ電気を提供する「発電産地」のひとつ、飯舘電力の社員でもある。
「私はもともと、福島市の出身です。ただ、3月11日のときは、東京で仕事をしていました。だから、同じ大震災でも地元のかたがたとはとらえ方が異なるかもしれません」
震災後、実家の事情もあり、故郷に帰ってきた小林さん。しばらくかかわった地域活性事業の任期が終わるころ、同じビルの中に事務所を構えていた飯舘電力から声をかけられた。専門外だった発電事業にも慣れて、はや5年がたった。
「飯舘村は福島市から車で50分ほどですが、自分にはそれまでほとんど縁がないところでした。それが今、縁があってこうしてかかわり続けているのも、村が置かれた現状をどうにかしたいと思ったからなんです」
原発が爆発したあと、「浜通り」の住民の多くが、飯舘村へも避難していた。しかし、大量の放射性プルーム(微細な放射性物質が大気にのって煙のように流れていく現象)は、北西の風にのってその飯舘村を直撃した。避難住民とともに、村民の一部も被ばくした。
「全村避難が解除されたのは2017年。まだ6年ほどしかたってないんです。震災前は6,200人ほどいた村民も、現在まで村内に帰還したのはわずか1,500ほど。避難期間が長かったこともあり、避難先で生活基盤ができてしまったかたも多い。進学や介護などの事情もあると思います。そのため家主を失った家もたくさんあります」
先人たちの意志を受け継ぐ
もともと飯舘電力が設立された発端には、会津地方の喜多方市で「会津電力」という発電会社を立ち上げ、福島県の再生可能エネルギーづくりの先駆者となっていた佐藤彌右衛門氏の力が大きくかかわっていた。氏が発起人となり、飯舘村民有志とともに飯舘電力を設立、福島での「地産地消の電気づくり」の系譜の延長線上に、小林さんはいた。
「故郷の先輩たちの礎があって、今、自分はこの仕事にかかわっています。現在パルシステムを通じて、首都圏の家庭でともされる電気の一端を担っていることもまた、大きな意味があると思っています」
かつて首都圏の電力の多くを、福島県は原発を通じて“生産”していた。それが原発事故により、風評と実害を含め多大な犠牲を強いられることとなった。自分たちの故郷が地元のために、戦後長い時間をかけ、原発も誘致しながら積み上げてきた「活性」とは結局なんだったんだろう、と小林さんは閑散とした村の光景を見るたび、いつも立ち止まってしまうという。
「エネルギーも食べ物も、結局、だれかがだれかのためを思って作ってないと意味ないんじゃないかな、と思うんです。この村でつくる太陽光の電気も、都会の人たちの暮らしを灯すことと同時に、この村の人たちも灯さないと、って」
発電事業に5年関わり、そのしくみも事業計画も大方見えてきた。だからこそ、これからは「地域交流に力を入れていきたい」と小林さん。
「パークゴルフ大会、やってるんです。発電、ぜんぜん関係ないのですが、でも地元の方と顔見知りになると、だんだん応援してもらえるようになるんですよ。『太陽の電気、調子はどうだ?』って(笑)」
人を支えられるのは「人」。「震災前」そのものに戻ることは叶わないかもしれないが、13年目を迎える福島には、新しい「震災後」を見据えた土台が積み上がりつつあるのかもしれない。