青森県のお米農家・石澤光さんの春
山笑う季節。岩木山が見下ろす津軽平野のあぜを行くと、見えてきた。代掻き[1]に行き来する、オレンジ色のトラクターに乗る石澤さんだ。この地域では例年、5月の半ばが田植えのハイシーズン。周りの田んぼを見ても、じっとしている人はおらず、とにかく忙しそうだ。
「子どもの運動会と時期がぶつかるんだ。毎年な。だから運動会に行くために、農家はみんな必死で田植えを頑張るんだ」
石澤さんは、時々難しい津軽弁をわざと使って、私たちをからかう。語尾に「びょん」をつけるのも津軽弁。一言で取材の緊張がほぐれるのも、方言の力だ。
天候は雨。恵みの雨も、量次第では、作業の足かせになる。田植えは代掻きをして田んぼをならし、平らにしてから田植え機で苗を植えていく。だから代掻きチーム、田植えチームの連携が重要になる。
「今はさ、少し代掻き作業が遅れてる。だから明日は田植えチームは休み。予定外だけど、そういうこともあるんだ」
お米農家の暮らし、そして経済
この時期の日が昇っている時間、石澤さんはほぼトラクターの上にいる。「エアコンもオーディオもあるし、歌い放題。カラオケがないだけだ」と、おどけるが、長時間トラクターの振動に揺すられるだけでも骨が折れる。しかも田んぼが平らになるように、田んぼごとに違う土の特性に合わせて、絶えず調整を続けるのだ。当然その苦労は耕作面積に比例し、蓄積していく。はたから見れば単調そうでも、楽な仕事など、田んぼにはない。
「よし、行くかぁ」。夕方、軽トラックに乗り替えた石澤さんが向かったのは保育園。長男と一緒に保育園の玄関を出ると、雨の駐車場を走って車に乗り込む。「妻が仕事で遅くなるときとかな、けっこう迎えに来るんだ。そのまま一緒に田んぼの水の見回りとか、苗のハウスで栽培しているシャインマスカットを見に行ったりが定番コースだ」。
石澤さんは3児の父。「休日は長女と次女が出るバドミントンの試合観戦が趣味になっちゅうな」。目尻が下がる。夜、夕食の時間。小学生の姉2人は部活が休みで、みんな一緒だ。「今日のカレーは少し辛い」、「おかわりする?」、「朝はパンかな。米農家だってさ、パン食べるって~(笑)」、「コンビニのおにぎりだって食べるよ、いつも手作りでなくたっていいんだ」。
「米だけだったら、赤字」
家族の会話が続く中で、衝撃的な一言が耳に飛び込んできた。石澤さんの農地は約19ha、地域での作付け規模は大きい部類に入る。「うちはりんごとかにんにくもやっててさ、それで何とか大丈夫だったけどな。3年ぐらい前の話だ」。
急落した米価が原因だった。1年を費やした努力の価値が、赤字に転じることがある。それが主食の生産現場で起きているというインパクトは大きかった。
石澤さんは話す。「米はいろいろと厳しいけど、じっとしているだけではダメ。だから米の有機栽培を始めてさ、『また石澤が変なことやり始めたぞ』って話題になってくれたらいいかなと思ってな」。
と言うのは石澤さん流の照れ隠しなのかもしれない。事実、「稼ぎたいだけなら、減農薬や有機栽培をしなくても実現できる」と、話は続いていたからだ。ではどうして有機栽培にチャレンジするのか?
常磐地区は環境保全型の農業をずっと推し進めてきた場所。水路にはドジョウやフナ、蛍がいる場所もあるという。その価値を守り、高めることが、未来へこの地域をつなぐ方法と信じるからこそ、石澤さんは一歩を踏み出すことを選んだのだろう。
次の日の夕方。取材班が乗る車の対向車線に、オレンジ色のトラクター。近づくにつれ、運転席が見える。ベースボールキャップを、少し浅めにかぶった石澤さんがこちらに手を振っている。水鏡の田んぼに、あかね色の空。青森の春は、始まったばかりだ。
新潟県のお米農家・青木家の秋
山燃ゆる秋のはずが、紅葉よりも燃えるような暑さが続いた2023年。夏は猛暑に加えて、水不足も発生。新潟県の田んぼには、稲が枯れたところもあるらしい…。そんな報道から少したった10月初旬、阿賀野市の青木等さんを訪ねた。
「いたいた! あぁ~外来種だぁ~!」
コンバインが稲を刈る田んぼの近く。すっかり水が少なくなった用水路に手を突っ込み、頭をこじ入れるのは、長男の一歩くん。魚が好きな小学校2年生だ。
コンバインの作動音が変わると、一目散に走り出す。コンバインを操作する父が、一度機械を止めることを察知したからだ。等さんと一言二言話すと、こちらに戻ってきた。
今日は日曜日。だが秋のお米農家に日曜日はない。親と遊べなくても、出掛けられなくても、子どもたちは自分の居場所を見つけて過ごす。それは農作業の手伝いであったり、田んぼの近くで生き物を探したり。子どもたちの表情を見ていると、我慢とは少し違うようで、環境に適応するといったほうがしっくりくるように感じられた。
「未来の種もまいています」
「おれも一歩と同じでしたよ。おやじの後にくっついて田んぼに行ったり、機械に乗せてもらったり。そうしないと一緒にいる時間が作れなかったから。一歩には同じ思いをさせたくないなと思ってますけど、秋の田んぼは時間との勝負ということもあってなかなか…」
話しながら青木さんが向かった田んぼには、大勢の子どもたちが集まっていた。
「ここは学童農園の田んぼです。ささかみ地域の2つの小学校が1年かけて米作りに挑戦しています。教えているのは、僕ら農家とJA職員が入っている青壮年部です」
実は青木さん、指導を始めたのは20数年前から。手品師よろしくのわら使いで、子どもたちの笑いを得ながら、稲をわらで縛る技術を教えていく。
一緒に米作りを教える農家の中には、10数年前に青木さんが米作りを教えた児童もいるんだそう。その一人、今や活動の中心を担う部長の渡邉拓さんに当時のことを聞くと「今やっていることと一緒。手で苗を植えて、手で稲を刈る。もちをついた記憶もあるなぁ」と、温かい思い出として記憶されていた。
米どころの新潟をもってしても、田んぼと児童の暮らしは離れている。「だから小学生のうちから米作りを体験してもらって、農家の種をまかないとね」青木さんは、児童にもらったのだという1本の稲穂を、ポケットで揺らしながら話してくれた。
専業への道は、いばらの道?
土なべのふたから湯げがもくもく。今日はご近所さんを誘ってのプチ収穫祭。一歩さんは白米にかぶりつき、「うまい!」と一言。
その場に一人悩める生産者がいた。村山海嗣(かいじ)さんは、平日は会社に勤め、兼業農家として父親と米作りに励んでいる。「専業農家に…ですね、はい、なりたいです」。自分で背中を押すように話すのには、理由がある。
米作りには主要な機械だけでも、トラクター、田植え機、コンバイン、軽トラックなどが必要で、収穫後の乾燥機や苗作りのハウス費など、1000万円けたの初期コストがかかることは珍しくない。費用は作付面積に比例し、機械によっては100万円単位のメンテナンス費が必要。それでも10年ほどで寿命に…。さらに苗や肥料、人件費なども加わる。つまり、お金の苦労が付きまとう。
そして費用の多くはローンで支払うことになる。
「兼業は兼業で会社に休みをもらって田植えをして、週末は田んぼを見て回ったり、細々とした農作業があって休みらしい休みが取れない。家族との時間が失われてしまうんです」
隣で少し前の自分を振り返るように、時に笑顔で話を聞いていた青木さんは言う。「確かに僕は米作りをやりたいようにやっているから、(借りている)金額もすごいよ」と笑い、否定はしない。それは農業人として地域の土地を守ろうとする、笑いなしの哲学があってのこと。「借金というよりも、投資といった方が聞こえがいいですね!」と、青木さんは続けた。
そして2023年、秋。新潟県から1等米がほとんど出ない事態が起きた。「2等米でとどまればまだいい、3等がどのくらい入るかで、借り入れの相談だな」冗談にも本音にも聞こえる青木さんの話を、村山さんは どんな思いで聞いたのだろうか。
家族への思い、地域からの期待、経営者としての判断…。お米農家はこれらと対峙し続け、おいしさも追求している。
10月3日火曜日、晴れ後一時雨
「行ってきまーす!」。木々の朝露が消える前に、地域の友達と集団登校。子どもたちの背中が曲がり角に消えてしばらくすると、大人たちは稲刈りへ向かう。
田んぼに到着し、言葉少なに打ち合わせたら、各自の持ち場へ。駆け抜けるようにコンバインは稲を刈り、トラックに米を移したら作業小屋に向けて出発。次のトラックがスタンバイの位置に入る。ざぁざぁと雨が降れば稲刈りはできなくなり、倉庫での乾燥作業にも影響を及ぼす。今年の実りを味わうように、おおらかに収穫するシーンは、絵本の中の話になってしまった。
「ただいま!」の声が聞こえたと思ったら、姉に宿題を教えてもらったあと、玄関から飛び出てきた一歩さん。作業小屋に私たちを見つけ、走り寄ってきた。一緒に電車に向かってカメラを向けていると、どうも空が怪しい。と思った矢先、ポツリポツリ…。
「このくらいの雨なら、とと(父)もママも稲刈りするよ」。雨雲を見据えながら言った。ところが10分ほどたったころだろうか、トラックが一斉に帰ってきた。局所的に雨が強かったのだそうだ。ギギギ。サイドブレーキの音が聞こえ、車が停止する。と、一歩さんが駆け出す。「今日終わり? 川に魚見に行こう!」。息を継ぐ間もなく両親に話しかける目は、喜びにあふれていた。
今日食べるご飯も、明日食べるご飯も、食卓の上では同じご飯だ。だがその一膳・一粒には、一つとして同じではないストーリーが詰まっている。だからできるなら、一粒のふるさとを訪ねてみてほしい。私たちの暮らしを支えてくれている人たちの暮らしを支えられるのもまた、私たちなのだから。