地域コミュニティをつなぐ「黄色いリボン」
日々を暮らしていく中で、だれしも悩みを抱え、SOSを出したくなることがある。人間関係のことや仕事のこと、子育てや介護のこと、あるいは飼い犬のこと……。心を閉じ込めてしまいそうになるとき、地域コミュニティは一つの大きな助けになりうるはずだ。
しかし、時代とともに地域とのかかわり合いが希薄になり、とくに都市部では「隣の家の人がどんな人かよく知らない」といったことも珍しくなくなってきた。その状況がさまざまな社会問題の一因になっている側面もある。だからこそ地域や人とのつながりを作ることで、だれかが救われることがある。黄色いリボンというツールでそれを実現しようとしている、「イエロードッグプロジェクト」をご存じだろうか。
町で見かけた散歩中の犬のリードに黄色いリボンがついていたら。それには「近寄らないで。そっとしておいて」という意味が込められている。近寄らないでほしい理由は、犬または人間が苦手であること、健康上の理由があること、社会化のためのトレーニング中であることなどさまざまだ。
散歩中に黄色いリボンをつける「イエロードッグプロジェクト」は、そんなさまざまな「事情を抱えた犬=イエロードッグ」が少しでも散歩がしやすく、ストレスなくおだやかに暮らせるようにと、2012年にスウェーデンのドッグトレーナーや犬の心理学者らのグループにより始まった。現在は欧米や南米、アジア諸国などにも広まっており、日本でも少しずつ知られ始めている。
埼玉県に住む染川さんが「みんなのイエロードッグプロジェクト」というボランティア団体を立ち上げたのは、2021年のこと。立ち上げた当時、自身も「犬が苦手な犬」のまるこちゃんと暮らしていた。
新しい町と、まるこちゃんとの出会い
もともと、東京で生まれ育った染川さん。子どものころは都内にも、野良猫だけでなく野良犬もたくさんいたという。家の目の前の空き地に生まれたばかりの子犬や子猫が、なんてこともしょっちゅう。同時に、目も開かないまま亡くなっていく小さい命もたくさん見てきた。なんとか生き延びても、殺処分されてしまうことがあるという現実にもショックを受けた。
染川さん自身は集合住宅に住んでいたため動物と暮らせなかったが、近所の知り合いに声をかけて、子猫や子犬のもらい手を探して回っていた。当時はご近所というだけで親戚のような、家を行ったり来たり、醤油の貸し借りも日常茶飯事の間柄。インターネットがなくても里親探しができてしまう、そんな時代だった。
そうした思い出もあって、いつか保護犬を迎え入れるのが染川さんの夢だった。でも、都内で犬と暮らす環境を手に入れるためには金銭的な負担が少なくなく、大人になり結婚してからもなかなか夢を叶えられずにいた。
そんななか、突然のコロナ禍。在宅ワークに巣ごもりの日々が続き、あるとき夫婦でハッとする。
「もしかして、東京に住む必要ないんじゃない……?」
そこからはトントン拍子。あっという間に埼玉県への引っ越しを決める。知り合いは一人もいない場所だったが、住み始めて人の距離の近さにびっくりする。
「東京は人がどんどん増えて、私が大人になったころには、昔みたいにすれ違ったら当たり前に挨拶をするような、心地いい距離の近さがなくなってしまったなと感じていました。でも引っ越してきて、子どものころの地域の雰囲気に似ているなと。パン屋でパンを食べていたらおばあちゃんが『おいしそうね!』って声をかけてきたりとか、実家に帰るのに大きな荷物を持って歩いているだけで『どこかに遠出するの?』って聞かれたりとか(笑)。久しぶりの感覚で、すごく楽しいなと思いました」
都心に比べて、犬と暮らしている人も断然多い印象だったという。自然も豊かで、大きな公園もある。そして保護団体の里親募集で、ついにまるこちゃんと出会う。譲渡会の会場で初めて対面したまるこちゃんは、緊張のせいかご機嫌ななめで、しかめっ面だった。でも、保護ボランティアさんが「お散歩に行ってみましょうか」と言った瞬間の笑顔に、染川さんは心を撃ち抜かれてしまった。
「私の方を振り返って、『散歩行く?行く?』ってニッコニコになったんですよ。もう、そのまなざしにやられてしまって、一目ぼれしちゃったんですよね。何か多少の問題があったとしても、絶対にこの子がいいって思ってしまったんです」
掲載されていたプロフィールには「極度に犬が苦手です」という文面があったが、そのときは、周りの人に都度伝えながら散歩をすれば大丈夫だろう、くらいに考えていた。それよりも、フィラリア症注釈による影響と、がんの可能性がある腫瘍のことの方が心配を占めていた。
想像以上に大変だったお散歩
こうして当時推定6歳だったまるこちゃんをお迎えした染川さん。心配していた腫瘍も、正式譲渡前にがんではないとわかって一安心。散歩の際に注意することとして保護ボランティアさんから言われたのは、絶対にほかの犬を近づけないこと。もちろん家の近所には犬の散歩をしている人がたくさんいるが、一言伝えればわかってくれる、そう思っていた。しかし、実際に散歩に出てみると……。
「散歩をしている飼い主さんに、離れたところから『うちの子、犬が苦手なので近づかないでいただけますか』と伝えても、『うちの子は大丈夫ですよ』と言って接近されてしまうんです。排せつ物を片付けている間に、いつの間にかすぐ後ろに来ていたり……。相手の飼い主さんも、もちろん悪気はありません。私も以前はそうでしたが、犬同士はみんな仲良くしたいもの、友達になれるものと思っている方が圧倒的に多いのだと気づきました」
まるこちゃんは犬の接近に驚き、パニックになり暴れてしまった。そんなことが続き、次第にまるこちゃんと染川さんは、「大暴れする犬とその飼い主」というふうに見られるようになった。
「私自身は何を言われてもよかったのですが……。まるこはただ怖くて仕方がないだけ。何も悪くないのに、悪い子だと思われてしまうことがすごく悲しかった。つらい思いをして保護されたという経緯は、なかなか散歩中の一瞬では説明できないので」
まるこちゃんは、ガリガリにやせ、ボロボロの状態で放浪していたところを保護されたのだという。保護団体によると、人慣れしているようすから「間違いなく元飼い犬だった」そうだ。捨てられたことで心に傷を負い、放浪中にほかの野良犬に追いかけられたり、すれ違った散歩中の飼い犬に吠えられたりしたかもしれない。愛護センターに行ったあと、同様に保護された犬がたくさんいる環境で、相当なストレスがかかっていたかもしれない。さらに、前の飼い主によって医療が十分に施されておらず、フィラリア症による肺の石灰化など、保護された時点で満身創痍だった。どんな過酷な状況だったか想像しえない。しかし間違いなくわかっているのは、まるこちゃんのトラウマの原因を作ったのは飼い主の無責任さ、身勝手さであるということだ。
パニックを起こさせたくないとはいえ、まるこちゃんは室内や庭での排せつができず、獣医師とも相談したうえで、散歩は必ずするようにしていた。なるべく人と犬が少ない時間帯を選んだり、逃げられる道を常に頭に入れ、ほかの犬と出会いそうになったら急いで道を変えたりと、あらゆる策をとりながら何とか散歩をする日々だった。
「愛犬家の方にも相談してみたら、やっぱり早朝や深夜にお散歩するしかないねと言われて。世界から切り離されたような、まるこも私も、ここにいてはいけないと言われたような気持ちになりました。Uターンして逃げるときも、『何で逃げるの?』という視線を背中にずっと感じていて」
毎日気をつけながら散歩をするも、状況はさらに深刻になる。ある日まるこちゃんが、散歩中に接近されてしまった犬に吠えられ、発作を起こして倒れてしまったのだ。
「このままではいけない。でも、いったいどうしたらいいのか……。SNSにまるこが倒れたことを書いたら、『こういうのがあるよ』とイエロードッグプロジェクトのことを教えてくださった方がいたんです」
悲しい思いをする犬がいなくなるように
それが、染川さんとイエロードッグプロジェクトとの出会いだった。散歩用リードに黄色いリボンをつけることで、離れた場所にいる犬を連れた人に「事情がある」ことを伝えられる。『何で逃げるの?』に対する答えを、その都度言葉にしなくても明示することができる。わらにもすがる思いで、リボンをつけ始めた。
もちろん、つけているだけでは何も変わらない。その意味を周囲の人が知っていること、理解していることで初めて配慮や注意が生まれる。染川さんは、このプロジェクトを広めようと決心。まずは近隣の家にお願いに行くことから始めた。
「ご近所の方はみなさん協力してくださって。私はまだこの街に知り合いと呼べる人がいませんでしたし、近隣の愛犬家さんたちともあまりお話ができていなかったので、ご近所の犬を飼っている方には『お知り合いの愛犬家さんに黄色いリボンのことを伝えてください』とお願いしました。犬を飼っていない方も、家のフェンスにチラシを貼ってくださったりしたんです」
地域の人とのこのようなかかわり方は、「まるこがいなければ、ありえなかった」と染川さんは話す。
「うちは夫婦ふたりなので、余計に交友関係が広がりにくいじゃないですか。まるこのことがなければ、もしかしたらもっと孤独だったかもしれないねって夫とは話しています。まるこがつながりを持つきっかけをくれたんです」
そして埼玉県の一部地域から、チラシの配布や店舗での掲示のお願い、自ら講演を行うなど草の根活動をスタートした。それはじわりと確実に、地域に浸透し始める。
「3か月ほどたって、散歩中に他の飼い主さんが何となく距離をとってくれている気がしたんです。半年たったころには、犬を連れた高齢のおじいちゃんが、目を合わせて『どうぞ』って道を譲ってくれました。いつもは背を向けて逃げないといけなかったから、そんなこと初めてで。たった一つのリボンでお互い『よかった』って気持ちになれるなんて、すごくハッピーなことだと思いました」
コミュニケーションの取り方が見つかるだけで、救われる。だから、同じように悩んでいる人にも届いてほしい。染川さんはそう願って活動を続けている。
「逃げるように散歩をしなくてはならず、町の中で孤立して、どんどん追い詰められていく。心も不安定になって、飼育放棄という最悪の選択をする可能性だってないとは言えません。まるこを守りたかったことももちろんですが、同じように悩んでいる人と、悲しい思いをする犬を一人でも一匹でも多く助けられたらと思っています」
愛犬が生きているうちに、リボンのことを知っていたら
福井県に住むTさんも、SNSを通じてこのプロジェクトのことを知った。Tさんにもリリィちゃんという亡くなった愛犬がいた。犬が極度に苦手だったこと、毎日お散歩に苦労していたこと――。まるこちゃんの記事を読み、さまざまな思いが込み上げてきた。
「リリィは子犬のころから、自分から他の犬に近づきたがらない性格だったのと、心臓と足腰の骨に持病を抱えていました。興奮させると危険ですし、歩くこと自体が負担だったので、ふだんからお散歩中はかなり気を張っていたんです」(Tさん)
リリィちゃんはある日、散歩中に出くわした大型犬に急に接近されて怖い思いをし、以来ほかの犬と会うことを警戒するようになってしまう。会うと興奮し、瞳孔が開いて息も荒くなり、ぐったりして起き上がれなくなってしまうほど、心身への影響が大きかった。
どうやってこの子を守ろうか、どうしたら楽しくお散歩ができるだろうか。自分ができることを、一人でずっと考え続けるしかなかったTさん。愛犬を幸せにしたいという思いと、どうにもならない孤独感や葛藤は、いつも隣り合わせだった。
「イエロードッグプロジェクトのことを知って、こんなに素晴らしいものがあったんだ、と思いました。リリィが生きているうちに知っていたら、もっといろんなところに連れて行って、外の風を感じたり、においをかいだりさせてあげられたのかなあと……。
まだプロジェクトのことを知らずに、私と同じ思いを抱えている人がいるはずなので、そういう人に届いてほしい。犬の問題にかかわらず、困っている人のために助け合って手をとり合える、そういう温かい世界が広がっていったらいいなと思っています」(Tさん)
犬が苦手。それがうちの子の「普通」
今まさに黄色いリボンによって救われている人もいる。都内に住む松尾さんと暮らすししゃもくん(取材時点で4歳)も、犬が苦手なイタリアングレイハウンドの男の子だ。もともと怖がりな性格ではあったが、子犬のころにドッグランで元気いっぱいの犬に追いかけられたことが引き金となり、散歩中に他の犬を見かけると猛ダッシュで逃げようとしたり、鳴き声が聞こえただけで立ち止まり動かなくなってしまうようになった。
イエロードッグプロジェクトのことを知ったのは、母親が「これ、ししゃものことじゃない?」と、まるこちゃんのことが書かれた新聞の切り抜きをくれたのがきっかけだった。
「ずっと、何で『普通に』お散歩したり、他のわんちゃんと仲良くしたりできないんだろうって考えていました。でもイエロードッグのことを知って、みんなそれぞれ違う、いろんなわんちゃんがいるんだと気づけた。今まで読んだ本やネットの『犬の育て方』はししゃもには当てはまらない。だから、自分が持っていた犬との暮らし方のイメージは関係なく、ししゃもがどうしたら幸せかが大事なんだと、考え方も変わりました」(松尾さん)
松尾さんの住んでいる地域ではイエロードッグの認知度がまだ高くない。焼き菓子屋さんを営む松尾さんは、少しでもこのプロジェクトが広がればという思いで『イエロードッグクッキー』のチャリティー販売などを行い、広報に力を添えている。
「散歩中にそっとしておいてもらえるだけですごく助かるわんちゃん、飼い主さんがいることを、知ってもらえるだけでありがたい。直接はなかなか伝えられないですが、黄色いリボンは『離れていてくれてありがとう』の意味で受け取ってもらえるとうれしいです」(松尾さん)
だれもが悩みを抱えている。だからみんなで分かち合う
「みんなのイエロードッグプロジェクト」代表の染川さんは、活動をする中で、「最初は『うちの子はイエロードッグです』と表立って言うことを躊躇する方も少なくなかった」と話す。暴れてしまうのは、吠えてしまうのは、自分の育て方が悪いせいなのではないか。飼い主がそんなふうに自分を責めてしまいがちだからだ。
しかし、黄色いリボンは犬や犬と暮らす人のためだけのものではなく、動物と人が幸せに生きるため、犬の個性を、飼い主だけでなく地域全体でやさしく受け止めていくための目印だ。プロジェクトの認知が少しずつ広まるにつれて、ごく当たり前にリボンをつけて散歩をし、SNSで「イエロードッグです」と発信する人も増えてきたそうだ。
染川さんは、活動を続けるなかで、犬と暮らしている、いないにかかわらず、自分の人生に重ね合わせて共感してくれる人の多さに驚いたという。
「みなさん、まるこの話を聞いて『じつは私もね……』とご自分のお話をしてくださるんです。シニアの方で『この先ひとりの暮らしになるかもしれないから、そのときにこの黄色いリボンのような、みんなとつながれるものが人間にもあったら』とおっしゃる方だったり、子育て中の方も、たとえば特性のある子を育てていることだったりとか、さまざまな思いを抱えてらっしゃる中で、自分の子どもが地域で生きていくためにどうしたらいいかということを、まるこの姿に重ねてくださったり。
黄色いリボンが広まることで、そんなふうに何かに悩んでいる人にとって、ひとしずくでも栄養になればこんなにうれしいことはないですし、このリボンがなければそういった方々との出会いもなかった。地域のみんながハッピーに暮らすための方法っていろんな形があると思うので、もっと別の活動をされている方たちと連携しても素敵かもしれないですよね。
そうやってみんなが同じ目線に立って、ああでもないこうでもないと言いながら、『みんなの』イエロードッグプロジェクトを広げていけたらいいなと思います」
2023年の12月に天国へ旅立ったまるこちゃん。まるこちゃんの存在があったからこそ、救われる犬や人がこれからもたくさんいるはずだ。周囲との小さなかかわり合いが積み重なって、だれかを孤立させない世界がつくられていく。かかわり合いが薄れがちな今だからこそ、黄色いリボンのような、人と人、人と地域をつなぐ小さなきっかけが求められているのかもしれない。