地熱発電を阻む最大の壁とは?
温泉に恵まれた日本にあって「地熱発電」の歴史は意外にも古く、戦前の1919年に大分県別府市で噴気孔の掘削に初めて成功したことに始まる。その後、高度成長に合わせて電力需要が全国的に高まる60年代、オイルショックで原油価格が高騰した70年代に、“自前のエネルギー源”として地熱発電の技術は世界有数といわれるほど向上した。
「しかし全国を見渡してみると、これだけ温泉があるのに成功事例は驚くほど少ないんです」と語るのは、福島県土湯温泉で地熱発電事業を手掛ける「株式会社元気アップつちゆ」の代表取締役社長、加藤勝一さん。温泉の採掘には数千万円のコストがかかる、という事情はもちろんあるが、それ以外に“地熱発電ならではの理由”がある、と言う。
「温泉場にとって源泉は命の次に大事なもの。“源泉かけ流し”を謳う温泉旅館にとってみれば、できる限り純粋な源泉がパイプをたどって宿の風呂に注ぎ込んでくれないと困るわけです。ただ温泉があればいい、というものではないんです」
地熱発電には異なる発電方式がある。従来主流であった「フラッシュ方式」は、新たに井戸を掘り、非常に深い地下から熱水や蒸気を取り出し、発電を行う。使い終わった熱水などは地下に戻すのだが、それでも間接的に地表の温泉量に影響を与えるのではないかという懸念が残るため、下流域で源泉を待ち受ける旅館街にとっては大きな抵抗感となってきた。
福島から地熱発電の可能性を切り開く
「この温泉場は震災があろうとなかろうと、そもそも観光客は減ってきていたんです」
加藤さんはもともと土湯温泉で旅館を経営する2代目だった。福島市街から車で30分の立地もあって80年代は大いに賑わったが、バブル期を境に観光客が徐々に減っていく。震災後はばったりと客足は途絶えた。この3年で3軒の老舗旅館が暖簾を下ろした。
加藤さん自身も旅館業に見切りをつけ、温泉を活用した特養ホーム経営に切り替えつつも、地元の温泉協同組合の理事長も務めながら、地元の再生に頭を悩ませてきた。そこで改めて目を付けたのが「バイナリー方式」の地熱発電だった。
震災に伴う原発事故で浜通りの住民は県内各地に避難していたが、土湯温泉街もまたその受け入れ先として手を挙げた。将来が見通せない中で慣れない土地で旅館住まいを続けざるを得ない家族の姿を毎日見続けながら、「自分たちの電気を、自分たちで作り出せていれば、こんなことにはならなかったはずだ」と思い至ったという。
「ここには数十の源泉がそこかしこに湧いている。一方、このまま手をこまねいていれば私たちの代で温泉街は終わってしまうかもしれない。じゃあ、ここ福島で地熱発電の可能性を切り開いて、世界に再生を発信しようじゃないか、って決めたんですね」
「もう“あの日”より以前の世界には戻れない」
そんな2011年の暮。発電事業に孤軍奮闘する加藤さんの前に現れたのが、ある日突然、面接を希望してきた千葉訓道さんだった。千葉さんは東京で、長らく外資系の営業マンとして多忙を極めた会社人生だったが、あの日、人生が変わった。
「単身赴任先であった東京を離れ、妻の実家であり、娘夫婦たちの暮らす福島へ帰省していたんです。私の58歳の誕生日を祝うためにケーキを買いに行こうと孫を抱きあげたとき、あの激しい揺れが襲ってきたんです」
2日後には原発が爆発事故を起こした。この世のものとは思えない光景をテレビを通じて視ながら、千葉さんの中で何かが弾けた、という。
「もう、あの日より以前の世界には戻れないんだ、と強く意識したのを覚えています。しかし、東京ではあれほど計画停電だの、支援物資の回収だの大騒ぎしていたのが嘘のように平常に戻り、ほんの数か月前のことがすでに遠いことのように過ぎていく。社会の方があまりに物分かりよく収まりどころを見つけてしまうことに違和感を感じて。それで、会社を辞めて福島に移住したんです」
新型発電機による市民出資型の発電所
互いの事情を抱えながらであった二人はすぐに意気投合。最大のネックである「温泉街に反対されない発電」をどうするか、頭をひねり合った。その打開策として注目したのが「バイナリー方式」の地熱発電だった。
バイナリー発電は、熱交換器により温泉熱を電気に変える方式だ。比較的低い温度のお湯で発電が可能なため、新たに深い井戸を掘る必要がなく、すでに湧き出しているお湯を使うことができる。
仕組みはこうだ。熱交換器には30℃ほどで沸騰してしまう液体のペンタンが密封されている。その中に置かれた数百本の細い管の中を130℃の温泉水や蒸気が流れる。すると、瞬時に高熱が管の表面からペンタンに伝わって高圧蒸気となり、それが直接タービンを回して発電させるのだ。
これならば、発電に使ったお湯は無駄にせず、そのまま温泉街に流すことができる。「おかげで、温泉街の反対は一人もいませんでした。しかも、元気アップつちゆの発電事業は地元住民たちの出資が加わりました。売電で得られた収益は、すべて地元に還元される。発電事業の協同組合です」(加藤さん)
“あたたかい電気”で、人と人をつなぐ
その後、千葉さんは加藤さんの元を離れ、現在は事務所を福島市内に置きつつ、飯舘村での太陽光発電を広げる事業に新たに取り組んでいる。
「千葉は走り続けるヤツですからね。ずっと応援してます。私にとっては“戦友”ですよ」と、加藤さんは今も口癖のように言う。
「今、元気アップつちゆの地熱発電で作り出した電力が、『パルシステムでんき』となって生協パルシステムの組合員の各家庭を灯しています。ご家族で『今日は土湯温泉で作った電気でテレビを見ているのかもね』なんて会話をしていただけてたら、って想像すると愉快ですね」
「顔の見える関係」とは、農産物の産直提携で始まった言葉だが、「電気だって、“顔の見える関係”になれる」と加藤さんと、そして千葉さんはずっと考え続けている。
「自然の力をいただいて電気を作る。その電気が電線を伝ってご家庭を照らす。『ああ、この電気はどこで作られたのかなあ?』と、ふと思いを巡らす。じゃあ、今度は『その電気を作ってるところを訪ねてみよう!』と家族が言い出す。訪ねてみたら温泉もある。町を散策し、地元の人と話し、再会を約束して帰路に就く――きっと、そんなつながりが生まれます。それって“産直”そのものですよね」(加藤さん)
人のつながりを生み出す“あたたかい電気”は、決して温泉から作られているから、だけではなさそうだ。