進まない日本のアニマルウェルフェア
「オリンピック・パラリンピックの食材調達の要件の一つにアニマルウェルフェアに関する記述があるんです。これを機に日本の人々のアニマルウェルフェアへの意識や関心が高くなることを期待していましたが、残念ながら現状ではそうはなっていないですね」
そう言って肩を落とすのは環境ジャーナリストであり、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の街づくり・持続可能性委員会の委員も務める枝廣淳子さんだ。「持続可能な調達ワーキンググループ」に特別参加し、欧米の先進事例の知見を有する立場からアニマルウェルフェア(以下、適宜AWと記載)推進のために発言してきた。
アニマルウェルフェアは、「動物は生まれてから死ぬまでその動物本来の行動をとることができ、幸せでなければならない」とし、家畜のストレスが少なく、行動要求が満たされた健康的な生活ができる飼育方法を目指す畜産の在り方だ。近年では投資家からも注目され、世界の主要食品企業のAWの取り組みについて毎年報告書が出されている。スターバックスやマクドナルドなどの多国籍企業も次々とAW対応を表明し始めている。
だが、日本では現在に至るまでAWの議論が高まる気配はない。2021年に発覚した大手鶏卵生産業者と元農林水産相による贈収賄事件は、鶏卵生産業者が農水相にAWの国際基準への反対意見の取りまとめを働きかけたものともいわれており、世界のAWトレンドに逆行する由々しき問題だったが、それでも国内世論の関心が高まることはなかった。
アニマルウェルフェアとは
アニマルウェルフェアの議論は、1960年代のイギリスで始まったとされる。イギリスの家畜福祉の活動家ルース・ハリソンが著書『アニマル・マシーン』の中で工業的な畜産の虐待性を批判し、一般市民の注目を集めたのだ。
世論の高まりを受けて英政府は「すべての家畜に、立つ、寝る、向きを変える、身繕いする、手足を伸ばす自由を」という基準を提唱、それが後にAWの基本原則である「5つの自由」として確立する。これが家畜を含む、ペットや実験動物など、あらゆる動物に対する現在の動物福祉政策の基準であり、国際的な共通認識となっている。
5つの自由
- 「飢え、渇き及び栄養不良からの自由」
- 「恐怖及び苦悩からの自由」
- 「物理的、熱の不快さからの自由」
- 「苦痛、傷害及び疾病からの自由」
- 「通常の行動様式を発現する自由」
AWについて国際的な影響力を持っているのが、日本を含む世界182の国と地域が参加する政府間機関であるOIE(国際獣疫事務局)だ。OIEは科学的知見に基づきAWのルールを定めており、加盟国はそれに則して取り組みを進めている。しかし、各国の取り組みレベルには大きな差があるのが現状だ。
効率と安定生産を重視した日本の飼育
なぜアニマルウェルフェアが世界的に求められるようになっているのか。それを理解するには、日本の畜産の現状から知らなくてはならないだろう。
例えば日本人が一人当たり年間平均338個を食べている卵を見てみよう。卵を産むために育てられる採卵鶏には4つの飼い方がある。AWの実現度の高い順から「放牧」「平飼い」「エンリッチドケージ」「バタリーケージ」だ。
日本の主流は「バタリーケージ」で、92%[2]の採卵養鶏場が採用している。何段も積み重ねられたケージの中で鶏を飼育し、1羽当たりの面積は鶏の体よりも小さい平均B5サイズ(257mm×182mm)ほどだ。
効率的かつ安定的に生産できることから、山が多く平野部の少ない日本で選ばれているのだろう。また、低価格で優れた品質の卵の流通につながっている点も否定はできない事実だ。 しかし、AWの視点や生産者の手間などは加味されていない。
次は豚を見てみよう。豚は本来、穴掘りや泥浴びをし、広大な面積を群れで移動しながら生活する動物だ。しかし日本では多くの場合、床がコンクリートや金網の、スペースが限られた豚舎で育てられている。
AWの話題になると名前があがるのが「妊娠ストール」だ。母豚が気づかずに子豚を踏み殺してしまうことを回避するためにも導入されている器具だが、方向転換ができないその飼育状態を問題視する声もある。
鶏のバタリーケージは2000年代後半から、EUをはじめ、スイス、米国の6州、ブータン、インドで禁止され、母豚の妊娠ストールも、EUやスイス、ニュージーランドやオーストラリア、カナダで禁止されている。しかし、日本では鶏のバタリーケージの規制はなく、豚もストール飼いが9割近く[3]を占めているのだ。
そのような差が生じるのは、例えば1羽当たりの飼養面積や設備内容などの具体的な規定や記述、そして、法的な拘束力がないからだと枝廣さんは指摘する。現状の日本政府のAW対応は「動物愛護管理法」と畜産技術協会(農林水産省の外郭団体)の「アニマルウェルフェアの考え方に対応した飼養管理指針」を基準としているが、具体的な規定や記述は見当たらず、「法令」でもないため強制力も伴わない。
命をはぐくんでいる実感
そんな日本でもAWに配慮した飼養を行う生産者は存在する。パルシステムをはじめとする生協に平飼いの卵を出荷しているJAやさと(茨城県)もその一つだ。生産者の松﨑泰弘さんは、「昔の卵が食べたい」という声に後押しされて90年代から平飼いを始めた。それまでのケージ飼いの羽数から10分の1と大幅に規模を縮小してのスタートで、「生協という確実な出荷先があったのは、大きかった」と当時を振り返る。
「平飼い」は鶏が自由に動き回れるようにして飼育する方法だ。太陽の光と風の入る鶏舎で、地面を足で掘ったり、くちばしでつついたり、止まり木で休息したりして過ごす。松﨑さんは、鶏の視点に立って、生態を細かく観察しながら飼養方法を工夫してきた。
「平飼いでも過密状態で飼ってしまっては意味がないですから。ヨーロッパの基準も参照しながら、今は坪当たり15羽以下で飼育しています。生協との関係を積み上げてきた中で具体的なルール作りをしてきました」
飼料に抗生物質や抗菌剤は一切使用していない。その分、鶏舎を衛生的に管理し、健康的に飼育する必要がある。手間はかかるが、「育てる側」にもメリットがあると感じている。
「うちの鶏は人懐っこくて、農場見学に来たりすると、鶏から寄っていくんですよ。その姿を見ると癒されるし、従業員もやる気が出て仕事もはかどります。休みがなくても毎日気分よく仕事ができているのは、生き物の命と向き合っているからだと思います」
秋田県で養豚業を営むポークランドグループもまた、AWに取り組んでいる産地だ。生協パルシステムなどを中心に年間約15万頭を出荷する一大産地で、その最大の特徴は、農場内の一部で行っている屋内での放牧。日の光が入る豚舎には、もみ殻や木質チップなどを発酵させた「バイオベッド」という独自の床材が敷き詰められ、豚は走ったり、穴を掘ったりして育つ。
「何よりも豚が面白いんですよ。寒いときと暑いときですむ場所を変えたり、トイレの場所も区分けしたり、縄張りの意識もある。そういった豚の生き物本来の行動が見られるのは、育てる側にとっても面白いんです」
と、松﨑さん同様、育てる側の喜びを語るのは同グループ代表の豊下勝彦さんだ。既存の養豚のイメージを一新すべく、韓国のオンドル式の発酵床の研究や、イギリスの農場で放牧のようすを視察するなど、海外の取り組みも積極的に参照しながら、試行錯誤を経て、現在の形にたどり着いた。
「よく運動してストレスも少ないから病気が少ない。おまけに発酵床であるバイオベッドがふん尿を分解するから悪臭もないです。もちろん大変なことも多いけど、プラスマイナスでとんとんになればいい」
動物の幸せを追求するアニマルウェルフェアが、同時に生産者の幸福と尊厳にもつながっていることは重要な視点だ。
なぜ広がらない日本のAW
どこをとってもよいことしかないように思えるが、日本で全くといっていいほど広がっていないのはなぜだろうか。
その一因は、取り組みに伴うコストにあった。AWを進めるためには生産者の取り組みが必須だが、新たな設備投資や人件費などのコストを生産者だけで負うのは実際のところ難しい。生産者の二人も「コスト高の分価格が上がっても注文してもらえるのか不安」(松﨑さん)、「新しいチャレンジはしたいが、多くの生産者は既存の生産や出荷で手いっぱい。人手を増やす余裕もない」(豊下さん)と本音をのぞかせる。
スウェーデンやベルギーでは、飼育方法の違いによる卵の価格差は現在ほとんどないという。AWに取り組む農家に対して補助金を出すなど政府も生産者を支えたゆえの結果だが、日本にそのような動きはない。
また、生産効率の改善で解決することもあるのだろうが「日本ではAWに関わる研究やデータも圧倒的に少ない」と枝廣さんは語る。「科学的根拠に基づいて、コストや生産性の影響も数値化したうえで、だれがどう負担するのか、という議論を事業者も消費者もするべきでしょう」。
加えて「AWがあまりにも消費者に知られていないため、行政も産業界も現状維持のままでよいと思っている。変化が見えないことで、消費者が知るきっかけがない、という悪循環に陥っている」と枝廣さんは分析する。
「ヨーロッパなどでは一般の消費者の認知が高くなったことで、消費者が店やレストランに対応を求めたり、多少高くてもAW対応の商品を優先的に購入する消費者が増えていきました。AW対応のものが店に出回るようになることで、それまで知らなかった消費者も知るようになり、好循環が回ってどんどん広がっていったのです。今では各国でAWに配慮した畜産動物の認証制度があり、消費者も認証ラベルを見て肉や卵の商品を選択しています」
消費者の力がAWを変える
EUでの法的な拘束力や制度的なサポートがAWの推進に寄与しているのを見ると、日本の行政におけるリーダーシップ不在がボトルネックのように感じてしまう。しかし、枝廣さんは「国が変わったら、みんなで変わりましょうというスタンスでは何も変わらない」と指摘する。
「スウェーデンでは、バタリーケージと放牧の鶏の比較写真を見た消費者たちが先に変わり、そこから徐々にAW先進国になっていきました。最終的には選ぶ権利を持っている消費者のパワーなのです。例えば卵なら4種類の養鶏方法があることをまず知る。ふだんは無理でも誕生日のケーキを焼くときは、アニマルウェルフェアにつながる卵を使う。近くに希望する商品が売っていないとしたら、置いてほしいと店に働きかける。そして周りにも伝えていく。それができると必ず変わっていくはずです。そうやって消費者の選ぶ力で世の中を変えていくことが大切なのです」