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有賀薫さんと三浦哲哉さん

写真=平野愛

一期一会の「風味」の魅力に誘われて、思わず料理をしたくなる[有賀薫さん×三浦哲哉さん『暮らしの話をしよう』-2]

  • 暮らしと社会
スープ作家の有賀薫さんが、「暮らし」について考える対談シリーズ。2回目のお相手は映画研究者の三浦哲哉さん。『自炊者になるための26週』(朝日出版社)を執筆され、自身も家で日々料理をされるなかで、キッチンに立ちたくなる動機として三浦さんが語ってくださったのは、奥深い「風味」の世界。香りと記憶の密接な結びつき、子どもの好き嫌いの話から、ゴールのない日々のごはん作りのあり方まで――。「風味」の魅力を通して、自分のために、家族のために料理をすることの意味を考える。

今日のみそ汁のにおいは、唯一無二

有賀薫(以下、有賀) 三浦さんのご著書である『自炊者になるための26週』を読ませていただいて、「風味」という感覚についてのお話がとても新鮮でした。料理の仕事をするなかで、今はやっぱり簡単、時短、安くできるといったような、作る上でのメリットを打ち出した実用的なレシピを出すことが多いんです。でも、「それって本当に作る人のモチベーションになるのかな?」と最近感じていて。自分がなぜ料理をするのか、どこを目指せばいいのか、わからなくなっている人が多いのではないかなと思っているんです。

 三浦さんは「わざわざ自炊したくなるポイントは風味にある」とおっしゃっていて、そんなふうに風味について語ってらっしゃる方ってあまりいなかったなあと。

『自炊者になるための26週』では、トーストの焼き方から魚のさばき方まで、風味を楽しむためのメソッドが満載(写真=平野愛)

三浦哲哉(以下、三浦) そうなんです、「風味の魅力に導かれるがままに手を動かす」というのがこの本のコンセプトでした。風味というのはつまりにおいですね。僕は料理本が好きで、本から入っているところが多分にあります。僕が大好きな料理研究家の丸元淑生(まるもと・よしお)さんや、彼が魚料理を習ったという寿司職人の関谷文吉(せきや・ぶんきち)さんが、風味に関しておもしろいことを言っていて、とても影響を受けました。

 例えば、寿司の魅力に開眼した人はなぜ食材の産地にこだわるのか、季節のちょっとした違いに一喜一憂するのか。脂ののりはもちろん基礎的なことで大事なんですが、魚の一匹一匹がそれぞれを取り巻く環境を反映して、同じ魚種であっても風味が全く異なるというんですね。地域や季節が変われば魚が食べるものも変わるし、その違いが漁師さんたちにはわかると。魚なら魚の風味を通して、自然環境の反映を楽しむというのが食文化の豊かなところなのだ、ということを読んで、なるほどなと思ったんです。

 神経生物学者のゴードン・M・シェファードは、「食べ物の違いを感知するのは舌ではなく鼻である」と言っています。「風味」は、正確に言えば味覚と嗅覚が混じり合ったもので、味覚も大事なんですが、情報量としてはにおいが圧倒的に多くを担っている。だから鼻をつまむと食べ物の違いがわからなくなると。こういう話にはすごく納得したし、自分のこれまでの実感を照らしてくれる気がして、読んだときに興奮しましたね。

有賀 私が『有賀薫のだしらぼ』(誠文堂新光社)という本を作ったときに取材した、食品・栄養化学がご専門の伏木亨先生も同じことをおっしゃっていました。人の味覚は甘み、酸味など意外と種類が少ないけれど、嗅覚に関しては本当に何十万種類以上。あまりに幅広すぎて、共通の言語ではなかなかくくれないと。

においの仕組みを知ることで、「ふだん食べ物に対して感じている感動の理由がクリアになった」と三浦さん(写真=平野愛)

三浦 人間は、宇宙に存在する原子の数よりもはるかに多くの種類のにおいをかぎ分けられるという説もあります。それくらい鼻って優秀。鼻腔のところにびっしりあるセンサーが、においの分子を感じ取ったときに一斉に反応するわけですが、それを画像でとらえることに近年成功しているそうなんです。つまり、あらゆるにおいには、固有の、唯一無二の形があるらしいと。ということは、毎日作るみそ汁だって、同じにおい、風味のみそ汁は一つもないということですよね。

有賀 同じ豆腐のみそ汁でも、絶対にちょっとずつ違いますしね。

三浦 そう、微妙には違うはずで、その違いをおもしろがりたい。あの日、家族や自分あるいは、ほかのだれかが作ったみそ汁っていうのは、スナップ写真で撮ったあの瞬間の風景がもう再現できないのと同じように、大げさにいうとこの世に一つだけの、かけがえのないものなのではないか……。そう考えると、それはちょっと素敵なことなのではないかなと。

有賀 ちょっとどころではなく、大いに素敵なことだと思います。豆腐のみそ汁というだけでも、昨日のみそ汁、1年前のみそ汁、高校生のときに合宿所で食べたみそ汁……。全部が違っていて、その違いが積み重なって食が豊かになっていく感じがしますね。

わかめの質やみその量、加熱時間……。さまざまな要素が絡み合って、同じみそ汁でも風味がちょっとずつ異なってくる(写真=編集部)

呼び起こされる記憶も、おいしさの一部

三浦 自分の父親が作ったみそ汁っていうのも、思い出そうとして全然思い出せるんですよ。昆布は使わずにかつおだけでだしをとって、わかめとなめこを大量に入れる。豆腐も入れて具だくさんにたっぷり作って、冷蔵庫に入れて何日か食べ続けるっていう(笑)。実家は福島なんですが、帰るとやっぱりみそ汁がたっぷりあって、食べるといいなと思うし、いろんなことを思い出します。

有賀 お父さまのみそ汁というのが、三浦さんにとっては記憶と結びついているものなんですね。

三浦 においというのは、そういったタグのようなものになりますよね。

有賀 わかります。私も同じような経験があって、子どものころ、土曜のお昼に母親がときどき、さつまいもを大きな蒸し器に入れて蒸していたんですよ。それがバターと塩といっしょにどーんと大皿で出てきて、みんなでわーっと食べる。私の世代は半ドン(土曜日に午前中だけ授業や仕事があること)で、お昼に学校から帰ってくるとふかしたおいもがあって、そこからあと1日半は休みで。そのわくわくした気持ちとさつまいもの香りがすごくリンクしていて、いまだにふかしたさつまいもの香りを感じると幸せな気持ちになります。

有賀薫さん

「あるにおいをかいで記憶が呼び起こされた」という経験は、きっとだれもがあるはず(写真=平野愛)

三浦 土曜の午後のね。まさにそういうことですね。家族と食べてきたものの風味っていうのは本当に貴重だなと思います。僕にとってはふきのにおいもそうで、おばあちゃんが近くに生えていたのを採ってくるからいっしょに板ずりをするんですけど、けっこうすごいにおいじゃないですか。

有賀 ちょっと強烈ですね(笑)。

三浦 そうそう、当時はそんなに好きじゃなかったんですが、今もせっせと板ずりをすると、その青っぽいにおいでおばあちゃんといっしょに暮らしていた家の雰囲気や感覚だったり、5~6月くらいの季節感を思い出す。そういうのを全部ひっくるめておいしさの一部だなあと。それは何というか本当に幸福ですよね。板ずり、お金を払ってでもやりたいくらいです(笑)。

有賀 まさに「幸福」ですね。でもいっぽうで、日々ごはん作りをしていて、とにかく子どもが食べてくれないことが課題だったりすると、風味というところにどうしても目が行かなかったり、そこまで考えていられないということもありませんか。

三浦 そうですね、うちにも小5と小2の子どもがいて、料理も妻と交互にやっていますが、好き嫌いをなくすのがなかなか難しい。自分を振り返っても、子どものころはいろんな風味を楽しもうという意識はなかったですし。生きていく中で自分が見知った親しいにおいってだんだん増えていくものだから、年齢を重ねるのを待つしかない部分もあるんでしょうね。

三浦哲哉さん

福島県出身の三浦さん。子どものころ苦手だった郷土料理の「いかにんじん」は、今や素晴らしい酒のあてに変わったそう(写真=平野愛)

有賀 お肉、炭水化物、甘いものといった、本能的に好きなものが好き!というのが子どもだと思うんですが、風味を大人より感じられるのも子どもだと私は思うんです。

三浦 大人より感覚が鋭敏ですよね。

有賀 子どもに好き嫌いが多いのも、その鋭敏さと、経験の少なさから来ているのかなと。でも、先ほどの三浦さんのふきのお話のように、子どものときにそんなに好きじゃなかったものが、大人になったときになぜか幸せな気持ちに変換されるということもあって。

 だから子どものうちは、嫌いなものを好きにさせようということではなく、とにかく体験をさせてみてほしい。そうすると、あるときスッと好きになったら、子どものころの記憶とリンクして、すごく豊かな気持ちになるんじゃないかと思いますね。

三浦 おもしろいですね。嫌いだった思い出がありながらも、結局トータルではプラスになるっていう。

「おいしい」は2種類あるからかみ合わない

三浦 好きか嫌いか、おいしいかおいしくないかっていうのは味覚と嗅覚の2つが関与していて、混じり合ってしまうからなかなか区別ができないんですが、「おいしい」には2種類あるんじゃないかと思っているんですよ。日本語だと「これ、おいしいね」「うん、おいしい」なんて言うんですけれども、実はけっこう別の意味で用いられているんじゃないかと。そこで、「わが家のおでん事件」というのがあって。

有賀 ご著書にも書かれていましたね。そのお話はぜひお聞きしたいと思っていました!

おでん

三浦家を揺るがした「わが家のおでん事件」とは……(写真=PIXTA)

三浦 はい、僕の母親は家でだしをとって大根とかも皮をむいて切って、一から作るおでんというのを習慣的にやっていたんです。そうしたらあるとき父親が、「正直言ってコンビニのおでんのほうがおいしいな」なんてことを言いまして。

有賀 それは地雷を踏んだ……(笑)。私も買ってきたものと自分が作ったものをいっしょに食卓に出したときに、買ってきた方を家族が「わあ、これおいしいね」と言って、心底がっかりすることがあります。周りにもそういう話をすると、みんな「あるある」って。

三浦 ね、ありますよね。コンビニのおでんは確かにおいしい。なので否定しているわけではなく、その場合の「おいしい」というのは、うまみが強く、とがった個性や雑味はカットされた、だれもがダイレクトに舌でおいしいと感じる優良な「規格品」としてのおいしさです。

 いっぽう家で作ると、つゆは薄味で、大根もそれほど甘みがないときもあれば、近くの商店で買ってきたいわしのつみれなんかも、ちょっとくさみがあるかもしれない。作る人の手作業によるゆらぎもあるし、いろんな要素が混ざり合って、それが家のおでんの風味になる。その一回性の風味を鼻によって認識して楽しむのもまた「おいしい」なわけで、そちらもやっぱり、絶対に否定してはいけない。

 両方が不可欠で、それぞれをどう使い分けるかっていうのが問題なわけですけれども。

有賀 『だしらぼ』を作ったときも、手作業で昆布やかつおからとるだし、丸鶏を10時間くらい煮て作るような洋風のブイヨンから、規格品である顆粒だし、だしパック、めんつゆまであるわけですが、どちらがいいということではなく、並列で見せたいというのが気持ちの中にありました。

有賀薫さんの著書『有賀薫のだしらぼ:すべてのものにだしはある』

「だしらぼ」の「らぼ」は実験室の意。有賀さんは料理を実験のように楽しむ気持ちを大事にしている(写真=平野愛)

三浦 有賀さんの『だしらぼ』では、つい二項対立になりがちなことをほぐして、いかに両方をバランスよく楽しむか、ということを書かれていますよね。

 今は外食も中食も高度に発展していて、舌がおいしいと感じる優秀な商品がたくさんあります。そこでもし自分で料理をしたときにコンビニやファミレスのおいしさを目指したら、やった甲斐が得られないんじゃないかと。外で食べた方がよかったなって。

 もちろん値段を抑えられるという利点はありますけど、やっぱり家で作るからには、家じゃなきゃ食べられないおいしさにならない限り、作らなくてもよかったのではという思いをなかなか払拭できないんじゃないでしょうか。

炊きたてのごはんは自炊の特権

有賀 外では食べられないものっていっぱいありますよね。私、ときどきわかめをものすごくモリモリ食べたくなるときがあります。そういうときは、塩蔵わかめを戻して刻んで、ぽん酢をかけてひたすら食べる。あとは、ただゆでただけの旬のとうもろこしを、塩もつけずに食べるとか。

三浦 そういうものこそ家で作って味わう特権ですよね。料理屋さんはひと手間かけてなんぼというのもありますし。ビーフシチューとかも、僕はお店で食べたいなあと思います。

有賀 ビーフシチュー、回本格的に作ろうと思ったら、やっぱりちょっと大変でした。餃子の皮もこの間手作りしてみたんですが、あれ、これはもう少し時間のゆとりがあるときにやるものだったかも……と焦ってしまいました(笑)。

 揚げ物なんかは家ではやらないという方も多いですが、外で揚げたてを食べる選択というのも全然ありかなと。そういうふうに自分の中ですみ分けられるようになると、すごくいい。

有賀薫さんと三浦哲哉さん

「でも、おうちで揚げたてのコロッケも魅力的だから、ときどきはやっちゃいます」と有賀さん(写真=平野愛)

三浦 おっしゃるとおりで、手作り、中食、外食、それぞれが得意なものをちゃんと把握して、無理なく取捨選択できるといいなあと。

有賀 焼き魚だと一瞬で味が変わっちゃいますもんね。作りたてが絶対的においしいものは、断然家で作る価値がある。

三浦 焼き魚はそうですね。ふっくら、パリッとなった瞬間を食べて、こう日本酒をぐっといくという……。炊きたての、湯気が上がってつやつやの状態のごはんというのも、外食でちょうどそのタイミングのものを提供してもらおうと思うとハードルが高くなるので、まさに家で食べることの大特権。

有賀 そういう意味でいうと、みそ汁も本当にそういう料理。煮えばなをぱっとよそって食べるっていう。例えばにらを刻んで最後にぱっと入れて、余熱で火が通る間に食卓に運んでわーっと食べたり。そういうのはもう5分たつと風味が変わっちゃう。

三浦 聞いているだけでにらの香りが頭の中を通り抜けてきました。まさに切りたて、入れたての感じ。そのよさがわかると、たぶん苦もなく手を動かしてしまうと思います。そうすると自炊が無理なくできて、モチベーションを維持しやすいんじゃないでしょうか。

有賀 本当ですね。作りたてがとにかくおいしい料理、というものをもっと提案してもいいのかもしれないです。

シャキシャキにらとひき肉のみそ汁

できたての香りにそそられるのも、食事の楽しみの一つ(写真提供=有賀薫さん)

料理を作る人は、食べる人を守っている

有賀 三浦さんはご著書の中で、家で作る味が「取り替えがきかない風味」である、「台所に立つ人の尊厳」にかかわる、とおっしゃっていますよね。私、この言葉に撃ち抜かれまして。日々ごはんを作っている側からすると、なかなか尊厳って言葉に出してもらえないことだなと。

三浦 先ほどの「コンビニのおでんの方がおいしい」というのは、まさに尊厳を傷つける言葉。食べる人がちゃんとおいしがることができればみんな笑顔になれるのだから、食べる人はおいしがる労を惜しまないで欲しいなあ、と思うんです。風味に気を留めようとしてみる、というのでもいいですし、理想を言えば、自分でも買い物をして材料をさわって、作るプロセスを一度たどってみて欲しい。そうすれば家族が作った料理をもっと深く楽しめるようになるし、みんながうれしい。いいことだらけですよね。

有賀 みんなが作る側になるというのも大事ですね。これは家事全般や育児も同様ですが、毎日の料理って普通の仕事みたいにゴールがないじゃないですか。これはいつまでやって、最後までやったときにどんなことが自分に返ってくるのだろうという。私も今は毎日料理を作っていますけど、いつまで、何歳まで作るんだろうっていつも思いながらやっています。

 だから今日はトマトが赤くてすごくおいしかったとか、餃子の皮を作るのが楽しかったとか、その日のプロセスと結果の中で何かに満足することが大事なのかなって、すごく感じていて。

三浦 確かにそうですね。見田宗介(筆名:真木悠介)さんという社会学者が、「人間は『これでよし』という心の底からの満足=コンサマトリー(Consummatory)をどこから得られるのか?」という話をしていて、それはやっぱり「自分が作るものや自分自身の生活が、取り替えのきかないものになることだ」というわけです。現代社会は便利になった反面、「取り替えのきく」ものが増えすぎています。自分の料理まで完全にそうなってしまったらどうでしょうか。だから、ちょっとした簡単なものであっても、今日食卓に上るものが取り替えのきかない「これでよし」と言えるものであれば、むなしさがないと思うんです。

『三浦さんの著書『自炊者になるための26週』

著書の中で三浦さんは「至言」として、ミュージシャンの近田春夫さんの「自分の作った料理は、失敗や欠点でさえいとおしい」という言葉を紹介している(写真=平野愛)

有賀 その日自分が作るものに対して目的みたいなものが明確だと、食べてもらえなかったときでも「しょうがないよね、今日はそういう料理なんだから」って割り切れる気がします。私の夫はけっこう好き嫌いがあるんですが、「今日は栄養をとってもらうための料理」と決めて、あえて嫌いなものを入れることがあってもいいと思うんですよ。

三浦 なるほど。栄養ということとのつながりで、ちょっと思い出したことがあるんですが、実は先日足を骨折しまして、2週間半ほど入院をしていたんです。そこで毎日病院食だったんですが、それを食べ続けることが僕は思いのほか幸せで、目からウロコだったんですよね。

 感動する風味ということではないんですが、献立がよく考えられていて、栄養的には全く完璧で、食材も制限がある中で変化を持たせようと工夫がなされていて、地味においしくて飽きない。きっとこれを考えている人はすごくいろんな配慮をされているんだろうなと。それを毎日ルーティンで食べていて、大変安らぎを覚えたわけです。

 それで思ったのが、家庭料理というものもきっと、作る人の意志によって、必ず一定の「害にならないもの」が日々出されている。エビデンスの有無にかかわらず、何となく家族の体に入れたくないものというのを、さまざまな理由から決めていると思うんですよ。そんなふうにちゃんと考えて、食卓の姿が一定していれば、それは作る人によって「守られている」ということで、幸せなことですよね。

有賀 今の話すごくいいなと思いました。あ、そうだなって。以前、イベントで家庭料理の優先順位の話をしたことがあったんですが、とにかく食事は「ある」ことが一番だと。その次が、体に悪いものではないこと。その先から少しずつ枝分かれしていって、経済的なことを優先する人もいれば、時短を優先する人も、おいしさを優先する人もいる。欠かさずに「ある」こと、安全であるということがまずは大前提ですよね。

有賀薫さんと三浦哲哉さん

「日々のごはん作りの中で、『何をやらないか』を決めることも大切ですね」と有賀さん(写真=平野愛)

三浦 家族のために料理を作るというのはまさに、「一定にある」状態にすることと、そういった体によくないものから家族を「守る」ということかもしれないですね。シェルターを作るといいますか。そしてそれは、それだけでものすごく大きな意味を持つと思います。

有賀 盾になるみたいなことですよね。家の食卓が守られた場所になるといいですものね。

三浦 自分と自分の家族の身を守り、健康に心穏やかに暮らすためにいろいろと考えるということは、この社会がどうなっているかを知る営みでもあります。スーパーの棚の商品同士の競争は何なのかとか、魚の価格が高いけど世の中どうなってるんだろうとか、資本主義ってなんだろうとか。それで、じゃあ何を買おうかとなるわけで。

 なので、日々の料理をどうするかを考えることは決して単純なことではない。だからこそ、やりがいもおもしろみもありますし、それを考える過程で自分の心の中のものさしが育っていくのではないでしょうか。

取材・文=編集部 写真=平野愛、編集部 構成=編集部