魚料理への第一歩は干物から
島根県出雲市・縁結びの地で、魚と食卓の縁を取り持とうと奮闘する人がいる。地元で干物を中心に製造する水産加工会社「渡邊水産」3代目の岩田響子さんだ。
「うちは背開きで干物を作っているので、折り曲げれば魚の形に戻ります。生きた魚に抵抗がある子どもでも、干物なら手を伸ばしてくれることもあるんです。『魚を食べよう』とやみくもに押しつけるのではなく、まずは関心を持ってもらいたいなと思って、魚に触ってもらうことから始めています。リアルお魚図鑑のような感じですね」
明るく笑う響子さんが話してくれたのは、自らが保育園で行っている魚の食育イベントの内容だ。イベントは「子どもに魚を食べさせるにはどうすればいいの?」と悩んでいる周囲の親の声にこたえる形で活動をスタートさせたのだという。
保育園のイベントでは、いきなり「食べる」ことから伝えるのではなく、まずはイラストを使ってクイズを出しながら、魚との距離を縮めていくところからスタートするという。すると、恐る恐る干物を観察していた子どもたちも、次第に「エラだ! ヒレだ!」と、楽しそうに魚に触れ始める。最後は自分で骨を取った干物を「おいしい」と言ってパクパクと残さずに食べるそうだ。
「『おいしくない』っていう食経験があると、子どもって簡単に魚嫌いになってしまうんです。だから私は、魚の魅力を伝えたいからこそ、子どもにも大人にも『魚は好かれていない』ことをベースに活動を考えるようにしています。形の面白さや生態など、ちょっとずれたところから始めるのもそのためなんです」
干物で魚料理を得意料理に
響子さんは、オンラインも活用しながら、大人向けに干物の上手な料理術を伝えている。
「干物を一言でいうなら、うまみの塊なんです。プロが見極めた魚を開き、塩水につけて干してうまみを凝縮させるという点では、究極の下処理済み食材ともいえますよね。魚料理って魚選びから始まって、内臓を取って三枚におろして……と、下処理だけでもハードルがとっても高いんです」
話をしながら響子さんが紹介してくれた料理は、れんこ鯛の丸干しを使ったアクアパッツァ。トマトや貝を入れて蒸し焼きにすれば、10分ほどで完成する、まさに時短料理だ。
「干物に残っているのは魚のうまみと塩味だけ。これを活かせば、味を足さなくても済むことが多くて、極端にいえば、失敗のしようがないんじゃないかなとも思います。味の濃い薄いはあるかもしれないけど、『どの調味料を入れれば……』と戸惑う、あのストレスはないはずですよ」
ピカタにちらしずし、サラダなど、会社のホームページなどでも紹介されている料理はどれも手軽にできて特別感があり、完成までの時間も短いものばかり。
「レシピ開発は母を中心に二人で担当しています。娘の私から見ても、母のレシピは簡単で早くておいしい。よく思いつくなぁって感心します。ここに集まっては試食を繰り返し、みんなで一喜一憂しています」
こことは、わたすいのキッチンスタジオ、「tai tai kitchen Chouette(たいたいキッチンしゅえっと)」。「たいたい」とは、島根県で魚を指す幼児言葉なのだそうだ。しかもこの名前、社員がつけてくれたもの。内装の壁は「わたすい」のイメージカラーの赤で彩られている。
魚の食育活動に取り組み、干物で魚料理を手軽でラクなものにしたいと奔走する3代目の響子さん。明るく自身の活動を話す中で、ふと意外なことを口にした。
「活動がうまく回りだしたのは、ここ5~6年。それまでは、『辞めたい』が口癖でした」
干物屋に生まれて
「私は絶対に干物屋を継がんけん!」
小学生だった響子さんは、住まいと隣接する職場でそう叫んだらしい。響子さんは渡邊家の長女。継承の気配を感じていたのかもしれない。「私だけじゃなくて、4兄妹みんながそう思っていましたよ」と、響子さんはあっけらかん。
「でも魚は大好きでした。おじいちゃん(故人。初代社長)がみりんを炊くところから作るさばみりんが大好きで、保育園で誕生日カードのいちばん好きなものに“わたなべすいさんのさばみりん”って書くくらい、本当に大好きでした。でも……干物屋は大っ嫌いでした」
その理由を理解するには、時代を少し巻き戻して話を聞く必要がある。昭和の時代、製造業や自営業を営む一家の多くは、自宅と同じか隣に職場を建て、暮らしと仕事がほぼ同じ空間で行われていた。
「いちばん嫌だったのは、みんなが一生懸命仕事をしているのに苦労続きで、家族に笑顔がなかったこと。お父さんやお母さんもお金がたまらないって言っているし、一緒に遊べないし……私たちを苦しめる干物屋が好きになれなかったんです」
高校卒業後、響子さんは逃げるように東京へ進学し、そのまま社会人生活をスタートさせた。就職先はスタートアップ企業で、業務改善や仕組み作りに奮闘する毎日だった。3年ほどたったときに忙しさから体を壊したこともあって出雲へ帰郷。そこで目にしたのは、子ども時代に見ていた光景と同じ、笑顔のない大人たちと、火の車となっていた会社経営だった。響子さんは東京での経験を生かして改善に乗り出した。
「経営会議で『今月支払うお金がありません』という一言を聞いて、スイッチが入りました。子ども時代も『もう(会社が)つぶれる』『長生きできない』と、私たちをからかう大人たちだったけど、これは冗談なんかじゃないって分かって」
笑顔のために
会社の収入が上がれば、経営が安定すれば、大好きな家族に笑顔が増えると信じて、職人かたぎの初代とぶつかり、2代目の無理難題な受注数をこなすこと7年以上。製造、選別、出荷、在庫管理などのあらゆる課題を少しずつ改善していって、売り上げも大きく伸びた。
「だけど、私もいつの間にか笑えない大人になっていました。業務に追われて干物を作れば作るほど、干物屋の仕事から心が離れるのを実感していました。とどめはお店に来た30代くらいのお客さんに『干物って何ですか?』と、質問されちゃって……。干物って、私たちって世の中に必要とされてないの?と正直打ちのめされました」
漠然とした不安は消えぬまま響子さんは同じ高校の同級生だった岩田竜平さんと結婚し、妻になり、母になった。奥さん、お母さんと呼ばれることが増え、「ワタシ」が消えていくのを感じていたころ、ある光景が脳裏によみがえってきたという。
「父が生協の組合員さん向けに開いていた料理教室のことを思い出しました。みんな熱心に干物や料理の話を聞いてくれて、最後はニコニコ笑顔で帰っていくんです。そこでふと、私も『食べる人と直接話せる料理教室がやりたい』って思いました。まずは私たちが楽しいって思えることをやろうって」
笑顔になるための糸口を見つけた響子さんは、すぐに活動を開始。持ちまえの好奇心と行動力で、勉強会や参考になるイベントにもぐいぐい参加し、保育園での食育イベントのほかにSNSでの発信もスタートさせた。
「干物の話をしたり、料理の話をしたり、とにかく一生懸命でした。今思うと企画を詰められていなくて、質問されて、しどろもどろになることもありましたけどね(笑)」
干物のチカラ
干物の可能性を模索しながら活動していると、あるお客さんから「わたすいさんの干物はきれいですね」と声をかけられ、響子さんはハッとしたという。
「子どものころから毎日見てきていますから、自分のところの干物が特別きれいだなんて思ったことはなかったんです。でもおじいちゃんの代から、一つ一つ丁寧に作っていることには自信がありました」
響子さんの言葉の意味は、加工場を見せてもらうことですぐに理解ができた。目利きが仕入れてきた鮮度抜群の魚は、一匹一匹職人が手作業で開き、内臓を取り、せいろに並べられていく。空間に響くのは、しゃっしゃっとリズムよく魚を開く包丁の音と、さばぁんと魚を洗い流す水の音だけ。せいろに並んでもなお魚の目は澄んでいて、その身はほんのり赤みを帯びている。干し上がった魚は、「美人干物」と書かれたパッケージに入れられていく。
「“美人干物”という名前は、食べた人からの声をヒントに生まれたものなんですよ。もちろんベースには、鮮度のよい魚を選び、丁寧に加工し、美しく干し上げるという、わたすいの職人魂があります」
美しい干物を作る職人の技や本物の味をこの先へちゃんと残していきたい……。そんな思いが響子さんの中で強くなっていった。そのためにもまずは干物を多くの人に食べてもらう機会を増やしていく必要がある。
「干物って正直、高齢者の食べ物というイメージがついていると思うんです。だから若い人たちに『干物を干物として売る』ことは、実際ちょっと難しいんじゃないかということも感じていました。でも干物の魅力は焼いておいしいだけじゃない、料理素材として便利というところもある。これを知ってもらえれば、もっと干物や魚料理が身近な存在になるんじゃないかなって思ったんです」
干物の食べ方をアップデート
響子さんが今、力を入れている活動の一つがInstagramやYouTubeでの情報発信だ。地域の枠を越えて干物の魅力を発信して、より多くの人に魚料理を気軽に、手間なく、おいしく作れるようになってもらいたいというのがその目的だ。
「干物がスイーツやパンのような人気者になれるとは思っていないですよ。でも、毎日のお料理のストレスを少し減らしたり、『おいしいね』の数を増やすお手伝いはできるのかな、と思っています」
干物の食べ方の発信は、あくまで魚離れが進む今の時代に、食べる機会を増やしていく方法の一つだという響子さん。主軸である干物屋3代目としての役割も夫の竜平さんと日々考え続けているという。
「初代、2代目が丁寧な干物作りを続けてきたからこそ『美人干物』につながる今があります。3代目として、ちゃんと次へバトンをつなげていかないといけないし、ちょっと大げさかもしれないけれど、日本の魚食文化を残していかないと……という気持ちもあります。若い世代に干物のおいしさを伝え、広めていくためにも、これからもわたすいのメンバーと一緒に本物と信じる干物作りを続けたいと思っています」
干物を素材に使う響子さんの料理術がもたらすのは、食べたいときに食べたい魚料理をストレスなく作れる余裕だ。そしてがんばらない魚料理が日常になれば、魚食文化も無理なく受け継がれていくことになる。漁業、干物作り、食卓を結ぶ、やさしい料理革命が、出雲から広がっていく。