すぐそばに暮らしていたコウノトリを、再びー
兵庫県北部に位置する豊岡市。県内一の面積を有し豊岡盆地の広がる同市は、昔から米どころとして知られている。かつて、田んぼにはたくさんの生き物がすみ、えさを求めてコウノトリが降り立つのは日常の風景だった。人、生き物、コウノトリは、確かに共存していた。
しかし、戦後の経済成長は、自然環境を一変させた。ほ場整備、大量の農薬散布、そしてコウノトリのすみかとなる松の伐採。経済や効率を優先した結果、日本の野外からコウノトリを絶滅させた。
「野生のコウノトリの保護、増殖の取り組みを絶滅寸前の1965年に豊岡で始めました。24年という長い試行錯誤の末、人工繁殖にも成功したんです。2005年の放鳥後は野外で巣を作れるよう設置した人工巣塔での繁殖も殖え、野生復帰は着々と進んでいます」と語るのは、豊岡市役所コウノトリ共生課の宮垣均さん。
野生復帰のかなめとなるのは、コウノトリが安心して暮らせる自然環境作り。さらには、市民がコウノトリを受け入れる土壌を作ること。そのムード作りを担ってきたのが、コウノトリ共生課だった。
コウノトリは飼育下では1日500gの生き物を食べる大食漢。野生として生きるためには、大量の生き物が必要になる。喧々諤々の議論の末、たどり着いたのは、多くの生き物が生きられる「農薬に頼らない米作り」だった。
コウノトリのことを考えたら、米作りが変わった
「すでにアイガモ農法を実践しているかたや農薬に頼ることに疑問を持つ農家さんが少なからずいました。農薬に頼らない米作りの素地は、豊岡の農家さん自身にあったんだと思います」と宮垣さん。市からの呼びかけに応じた12軒ほどの農家が集まり、無農薬米栽培の勉強会を行うところからスタートした。
「農薬を使うかどうかは、個人や団体の考えにゆだねられる部分が大きい。でも、『コウノトリのために』と伝えると、話を聞いてくれた。どうやったら田んぼに、えさとなる生き物を殖やせるだろうか?それなら、農薬を減らしてみるか?って具合に」(宮垣さん)
生産者、JA、行政が一体となってコウノトリのえさをはぐくむ一連の米作りを「コウノトリ育む農法」と体系化し、推進した。
例えば、冬でも田んぼに水を張る「ふゆみずたんぼ」。水を少しでも長く張ることで、生き物にとってよい環境をつくり生命をつなげる。また、一部の田んぼでは、どんな生き物がどれくらい生息しているか、調査を行うようにもなった。
こうした取り組みは、予想外の効果をもたらした。今まで見かけなかった生き物に、子どもたちから喜びの声があがる。大人たちは、かつての風景を胸のうちに呼び覚まし、農家は自分たちの田んぼを誇れるようになった。こうして、「コウノトリ育む農法」は、農家にも、市民にも広まっていった。
稲が実ると、JAたじまは「全量買い取り」という形で、皆のコウノトリへの思いに応えた。「コウノトリを殖やすのが豊岡なら、暮らせる自然環境を作るのも豊岡でなくては。わたしたちが応援しなければ、農家は安心して米作りができませんから」と、JAたじま代表理事組合長の尾﨑市朗さん。
「全量買い取るものの、すべて売り切るのは難しい。正直厳しい時期が続いています。しかし、最近では海外から評価されることも増え、豊岡の米と町の魅力が届いている実感がある。結果的に、コウノトリが豊岡の米を広げてくれているのです」(尾﨑さん)
現在では300を超える農家が、「コウノトリ育むお米」を栽培するまでになり、その栽培面積も年々増加している。その中の一人、大原博幸さんは、かつて県の職員として「コウノトリ育む農法」を推進した一人。現在は、生産部会の部会長として米作りの現場で農家を導く存在だ。
「除草剤を使わずに、草を抑える田んぼを作るには、最低6年はかかる。しかも、少し手入れを怠るとまたすぐに草は生える。草との闘いは、厳しいものがあります」と大原さん。
「それでも、コウノトリが優雅に舞う姿を見ると感動してしまって、コウノトリ育む農法を始める農家も後を絶ちません。わたしもその一人です」と顔をほころばせた。
2005年には、飼育下で、手塩にかけて育てたコウノトリが、初めて自然界に飛び立った。人の手を離れたコウノトリはやがて家族を作り、2019年春現在160羽を数えるまでになった。
「放鳥してどこかへ行ってしまったらどうしよう、とビクビクしていたのは今だからいえること(笑)。豊岡にとどまってくれたことは、これまでみんなでやってきた農法などが間違っていなかったことの一つの証明になりました。本当によかった」(宮垣さん)
特別だったコウノトリが日常に。だからー
「『コウノトリ育むお米』を食べることが、田んぼを守ることにつながる」。そう考えて、給食にコウノトリ米を使ってもらえるよう、2007年に市長に直談判した中学生グループがある。
「これからの町づくりを考える機会があって、わたしたちにできることは何だろう?と考えたら、それは食べることだと思ったんです」と、直談判したうちの一人、岡田有加さんは当時を振り返る。
それを受け、当時の中貝宗治市長(現職)は、コウノトリ米の給食導入を決意。導入は段階的に行われ、現在では週5日すべての給食でこの米が使われるまでになった。その数量は年間95トン。
「初めて給食で食べたときはうれしさをかみしめて食べました。コウノトリが飛んでいたら、授業を中断してみんなで見に行ったり、その姿にくぎづけでした」と岡田さん。
こうして、子どもたちや一般市民の間にも、コウノトリを受け入れる文化や土壌は着実に醸成されていった。
なぜ、ここまでうまくコウノトリの野生復帰を進めることができたのか?中貝市長に尋ねると、こんな答えが返ってきた。「もちろん、コウノトリという象徴があったことは大きいですが、移ろいやすい日本海側の気候で暮らしてきた豊岡の人々には、多様性を受け入れる土壌があった。その土壌が、行政、農協、農家、市民それぞれが立場を認め合い、励まし合い、時にののしり合い、でも決してあきらめず、あきらめさせず、同じゴールを目指す地域の力を生んだような気がしています」
「豊岡市では、コウノトリが舞う姿が当たり前になりつつあるんですよ」市民から“コウノトリ市長”と愛される中貝市長は、うれしそうに話すと、すっと表情を戻して続けた。
「しかし、ゴールはもっと先にある。ご高齢のかたにお話を聞くと、『昔は川の水より魚のほうが多かった』なんて話が飛び出してくる。うそか本当か分かりませんが、その感覚が残っているという。本当のゴールは、今よりはるかに豊かだった、そんな自然環境を豊岡に取り戻すこと。それに尽きます」
かつて、市長に直談判した岡田さんは社会人となり、現在は国際協力の道を歩んでいる。「帰省すると、遠くに見える山並みは変わりませんが、円山川を渡る橋からふと見る豊岡は、着実に変わっています。緑が殖え、生き物が殖え、生き生きとしている。そんな土地に安心と期待を感じます」
自然豊かな環境で暮らしてきた豊岡の先人たち。その環境を取り戻そうとする現役の大人たち。そして、その機運を敏感に感じ取る次の世代が、そのバトンを受け継ごうとしている。
自然豊かな豊岡の地を好み、暮らしているコウノトリは、全国の空を舞う。優美に羽を広げ、純白の体を夕日に染めて。もしコウノトリが降り立ち、家族をはぐくむ姿が見られるならば、そこには見せかけではない、生き物たちが躍動する豊かな生態系が広がっている。