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千葉県での保養イベントの様子

「安心して話せる、遊べる場所が欲しい」 今も必要とされる「保養」の継続を求める親たちの願い

  • 暮らしと社会

東日本大震災と原発事故から8年。震災後に求められてきた取り組みの一つに、子どもたちのための「保養」がある。被ばくの心配がなくのびのびと遊べる場所と時間を提供し、親たちの悩みや不安を分かち合う。今でもこうした「保養」へのニーズは高いが、国の予算が削減されるなど、公的な支援は十分ではなく、民間で細々と実施しているのが実情だ。保養の継続を求める親たちの声から、必要とされる支援の形を考える。

「ここは心配しなくてもいい」

 7月のよく晴れた一日、千葉県館山市にある沖ノ島の海水浴場を訪ねると、「すいか切れたよー」という呼びかけに、水着姿の子どもたちが集まってきた。幼稚園児から高校生まで、年齢も性別もばらばらの子どもたちが、種を飛ばしながらすいかをほうばる。「ちょっと待って、写真撮るから!」と母親たちは、わが子の楽しそうな顔をうれしそうにカメラに収める。

千葉での保養イベントの様子

パルシステムの産地から届いたすいかに大喜び

 ここ沖ノ島は東京湾と太平洋の境目に位置する。さんご礁が見られるような透明度があり、島の中央には洞窟もある人気の海水浴場だ。集まったのは、福島県内に住む13家族41名。生活協同組合パルシステム千葉が企画した「保養」プログラムへの参加者だ。

 「福島の海も、今年から(放射線量が)もう大丈夫ということで、県南の海水浴場は“解禁”になったんです。でも、やっぱり子どもたちは連れて行けなくて……。ここはいいですよね。心配しなくていい」と、参加者の一人は話す。

8年を経て、公的支援は減る一方

 「保養」支援は、2012年に制定された「原発事故子ども・被災者支援法(※1)」の考え方に基づく。放射線による被ばくへの心配から安心して遊べない福島県内の親子に対して、野外で安心してのびのびと遊べる機会を提供し、子どもたちの健やかな成長を支援することを目的としている。

千葉での保養イベントの様子

待ちに待った海水浴タイム。沖ノ島の海へ一斉に駆け出す子どもたち

 パルシステム千葉では、今年7月26日~28日の2泊3日でプログラムを企画。海遊びのほか、成田空港の見学ツアーや、夜の花火大会と、子どもたちのお楽しみメニューを目一杯詰め込んだ。運営のほとんどはパルシステム組合員から寄せられたカンパで賄う予定で、参加費は負担にならないよう、大人の参加者はひとり5000円、子どもは無料にした。

千葉での保養イベントの様子

海辺の生き物の話を熱心に聞く子どもたち

 同様のイベントは、震災直後からさまざまな民間団体で実施されてきたものの、主催するにあたっての運営費用はカンパなどの寄付が頼りだ。国の事業予算も組まれてはいるが、2013年度に3億3千万円あった予算が2017年度には1億7千万円に縮小され、申請要件のハードルも高くなっているためだ。福島県外の保養団体が助成を受けている比率は、事業予算の3%にも満たないという実態も報告されている。(※2)

 パルシステムが企画する「保養」でも、近年はカンパで集まる金額だけでは不足している。それでも、続けるべき支援活動であるとの考えから、2019年度もカンパの取り組みをグループ全体で継続することを決めた。

※1:東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律。

※2:国際環境NGO FoE Japan「福島の今とエネルギーの未来 2019」より

「保養」という支援はまだ必要なのか

 保養の目的が広く周知されていないためか、「もう保養への支援は必要ないのではないか」という意見が、組合員からパルシステムに寄せられることもあるという。

福島県内の帰宅困難地域の様子

2018年にパルシステム千葉の職員が訪れた際の福島県内の様子。

 そこで、プログラムを企画したパルシステム千葉では、自分たちの取り組みが本当に役に立っているのか、どこまで復興が進んでいるのか、その答えを得ようと、事前に職員たちが現地に赴いた。「もしかしたら、もう支援は必要ないのかもしれない」という予想に反し、「(想像していた姿とは)全然違いました」と話すのは、職員の一人、組合員・コミュニティ活動推進部の山崎裕之さんだ。

 「放射能で汚染された土壌が入った黒い袋はいまだに積み上がり、『触っちゃだめ』と子どもたちに注意を促す線量の高い場所は依然として生活の中にある。それが日常になっているんですよね。この状況に置かれている人たちに、これまでどおり、安心できる場所と時間を提供しようと、気持ちを新たにしました」(山崎さん)

支援を受ける被災者も、時間とともに考え方に違いが

 一方、被災者の間にも徐々に複雑な感情が芽生えていると語るのは、「子ども脱被ばく裁判(※3)」原告団の代表を務める今野寿美雄さん。今野さん自身も、福島第一原発に近い浪江町からの避難者だ。今も自主避難生活を送る中で、子どもを被ばくから守るための訴訟を続けている。

参加者の今野寿美雄さん

「被ばくの話しづらさ」について説明してくれた今野寿美雄さん

 「今、被災者の間では、震災や放射能について語るのはタブーのような雰囲気がありますね。日常生活の中で放射線や被ばくのことを気にしていても、話せない。そんな状況です」と今野さんは言う。

 話しづらさの理由の一つにあるのは、放射線や被ばくに対しての考え方の違いだ。

 「放射線や被ばくのことは、本当に気にならないっていう人もいます。あるいは、気になるけど、それを出さず、気持ちに“ふた”をしている人も実はいるんです。8年たって自分が今ここで健康だから『大丈夫だ』って。でも、本当は気になる。だから、自主避難したり、気にしている人を見るとやっかんだり、悪口を言いたくなったりしてしまう……」(今野さん)

※3:福島で子育てをする方々が、国や福島市などに対して「子どもたちに被ばくの心配のない環境で教育を受ける権利が保障されている事の確認」(子ども人権裁判)と、「原発事故後、子どもたちに被ばくを避ける措置を怠り、無用な被ばくをさせた責任」(親子裁判)を求めている。

話題に出せない被ばくと震災

 「今は、世間話だとしても震災のことも被ばくのことも話題にはしませんね。うちは自主避難したからとくにね……。話さないかな」と、参加者の一人、加藤順子さんは教えてくれた。

加藤順子さん

加藤さんは二人の娘と一緒に今回の保養プログラムに参加した

 加藤さんは、福島市で震災に遭った。当時、二人の娘はまだ5歳と3歳。遊び盛りのはずなのに、保育園では、屋外に出るときは肌を見せないようにして5分間の運動だけ。運動前は先生が遊具を念入りにふかなければ遊ばせられない毎日。公園にも遊びに行けない、土にも触れられない……。

 つのる心配と日常生活の不自由さから、「子どもたちの生活が一番だから」と自主避難を決め、2011年7月に新潟県佐渡島へ渡った。ところが、昨年4月、自主避難者への家賃補助が打ち切られることが決まり、元の住まいに戻ることに。戻ってきてからは、被ばくの心配よりも、自主避難していたことを話すことで子どもたちがいじめられるかもしれないという心配から、口をつぐんできた。

 「避難していても、転勤とか引っ越しとか言って自主避難を隠す人たちもいるくらい。私もね、戻ってきてから『避難していい思いしてきたの?』なんて言われたこともあります。だから、あんまり言わないんです」(加藤さん)

「同じ気持ちで集まっている」という安心感

 だからこそ、「被ばくが心配」という同じ気持ちで集まっている人たちだと分かる「保養」の場は、子どもたちだけでなく、何より日々の生活で気を遣うことが多い大人にとっても、「癒し」なのだと、参加者は口をそろえる。

千葉での保養イベントの様子

参加した母親たちもリラックス

 「ここじゃ心配しなくていいもんね」「本当よね」そんな短い世間話に笑みがこぼれ、言葉にならない悩みを分かち合う。ほとんどが初対面だったが、プログラムが進むにつれ、参加者たちの間で家族のような一体感が生まれ、次第に笑顔も増えていった。

「子どもには、もうちょっと大人になってから伝えたい」

 参加者の一人、後藤さんは、7歳の息子と今回のプログラムに参加した。当然のことながら、息子に震災の記憶はない。知識としては知っていると思うが、放射能の影響については、あえて話してはいないという。

 「私自身は、実はそれほど県産品に対して気を遣っていなくて。スーパーに並んでいても、いいものだったら買うし、農協で検査をしているんだから大丈夫かなって思っています。もし、今自分たちが置かれている環境を知ったら、子どもは自分で食べるものを制限してしまうのではないかと思うんですよね。だから、自分たちが置かれている、不自由さのある現実について知らせるのは、もう少し自分で考えられる年齢になるのを待ってからにしたいと思っています」(後藤さん)

 今回、パルシステム千葉で企画した保養プログラムは、日常の不自由さをほんのひととき忘れられるだけの短い時間にすぎない。それでも、なぜ必要とされ続けるのか。

千葉での保養イベントの様子

海で思い切り遊べて楽しそう

 「自分たちで旅行に行けばいいじゃないって言う人もいるんですけど、こうやって自分たちを気遣ってくれている人たちと一緒にいられて、その気持ちが感じられることは、旅行とは全然違うんですよ」。それが、加藤さんが参加した一番の理由だと話してくれた。

 震災で壊れてしまった家屋や道路はきれいに修復され、震災のつめあとは見えなくなりつつある。それでも、目に見えない放射線への不安や日常生活の不自由さがなくなるまでには、まだまだ長い年月がかかる。震災から8年がたった今だからこそ必要な、「支援の形」を一人ひとりが考えていくことが求められている。

取材協力=子ども脱被ばく裁判弁護団 取材・文=編集部 写真=坂本博和(写真工房坂本)