「なんて自然はよくできているんだろう」
――映画『杜人』では、環境再生医・矢野智徳さんの活動を映しています。空気と水の循環、大地の呼吸に着目する考え方には、人と自然のつきあい方を考えるうえで、今必要なメッセージが含まれていると感じました。
前田せつ子(以下、前田) 私自身、矢野さんの考え方や言葉に驚かされた一人です。
たとえば植物に虫がつくとつい殺虫剤をまきがちですが、矢野さんは「葉が込み合って風通しが悪いから虫がつく。虫たちは葉っぱを食べて空気の通りをよくしてくれているんです」とおっしゃるんですね。
それを聞いた時、世界が180度引っ繰り返って見える気がしました。なんて自然はよくできているんだろうって。
――「風の草刈り」も矢野さん独特の方法です。
前田 草を地際から刈ると反発して逆に伸び、根をまばらに太く張って大地が硬くなる。でも、風に揺れる部分で刈ると伸びすぎることなく自然と安定するんですよね。
それって、なんだか子育てとも共通しています。「こう育てなくては」というイメージに子どもを沿わせようとするほど、「どうして?」と頭を抱えたくなるくらい、違う方向に向かってしまう。
そうした矢野さんの考え方を知るほど、もっと学びたくなりました。でも、当時は矢野さんについての本も映像もなかった。それなら私が映画を作ろう、と思ったのです。
桜を診る矢野さんは、往診のお医者さんのようだった
――前田さんが初めて矢野さんと出会ったのは、いつだったのでしょうか。
前田 初めて会ったのは2014年の夏です。もともと私はフリーの編集者として活動していたのですが、2011年の統一地方選挙に出て東京・国立市の市議会議員になりました。矢野さんにお会いしたのは市議になって4年目の時。
国立市にはソメイヨシノの長い並木道があるのですが、道路工事に伴って「もう寿命だから倒れると危ない」という理由で全部の桜を伐採して植え替える計画が出たのです。それに市議の先輩や地域の女性たちがすごく反対して、「まだ花を咲かせているのにおかしい。矢野さんを呼んで!」と。
その時まで知らなかったのですが、矢野さんは今住んでいる山梨県に移る前には国立市に住んでいて、伐採されそうだった100歳のドングリの木(コナラ)の移植を手掛けたことがあったそうです。
――それで、前田さんが代表して矢野さんに連絡をされたのですね。
前田 矢野さんはすぐに駆けつけてくれて、桜を一本ずつ触って揺らし、「樹高を3分の2くらいに切り詰めて、下草や低灌木を生やせばまだ生きられますよ」とおっしゃいました。
そのようすがまるで往診に来た昔のお医者さんのようで温かい感じがしたんです。
世界への肯定と信頼感を取り戻せる気がした
――矢野さんの自然に対する考え方を実地で学ぶ「大地の再生講座」が全国で開催されていますが、最初の出会いのあと前田さんも講座に参加されたと伺いました。
前田 その時は「風土の再生講座」という名称でしたが、2015年6月に国立市で開催された2日間の講座に参加しました。この年の4月、市議会議員2期目を目指して選挙に出たのですが僅差で落選してしまったんです。ショックでしたが、「これからは自分が好きなことをして生きよう」と気持ちを変えました。その一つが矢野さんの講座でした。
矢野さんと市内をいっしょに歩いたのですが、よく知っているはずの景色がまったく違って見えたんです。先ほどの虫食い葉っぱもそうですが、自然界には「強者」も「弱者」もなく、全部がバランスをうまくとっている――そう気づいたら世界への肯定と信頼感を取り戻せるような気がしました。
市議だった4年間は、3・11後の放射能対策やDV、いじめなど、さまざまな問題に向き合いました。毎日ものすごく忙しかったし、人間が人間のルールに苦しめられている現実を目の当たりにして、とても苦しかった。でも、矢野さんの言葉に救われた気がしたんです。
――映画に出てくる「自然生態系では満たされない状態があって当たり前。いろいろな生き物がいて、完璧でないことでバランスがとれている」という矢野さんの言葉も印象的でした。
前田 人間社会ではみんな「あれが足りない、これが足りない」と言っては、それが満たされるようにいつも努力しているでしょう? でも、不完全なのが当たり前。お互いにちょっと欠けているからこそ、他の人間や動物、自然とつながることができるんですよね。あの言葉を聞いていた女性たちは、みんな泣いていました。
私たち人間は、完全や安定を求めすぎて苦しくなっているんじゃないかな。土砂崩れを避けようとコンクリートで固めたことで大地が詰まり、その反動でかえって大きな災害が起きてしまう。そんなことがあちこちで起きています。
――矢野さんが作業される周りには、年齢性別を問わず多くの人たちが集まって、結(ゆい)と呼ばれるような共同作業が生まれていましたね。
前田 もともと結作業はどんな集落にもあったもので、重機がなかった時代には大人も子どももみんながいっしょに集落を守るために自然と向き合うことが必要とされていました。そこには教育もあったし、コミュニケーションや居場所もあったと思います。
現代社会では失われてしまったものですが、矢野さんの作業ではその結作業が展開されているんですよね。遊んでいた子どもたちもいつの間にか混ざっているし、被災地で講座を開いた時には被災で落ち込んでいた人までが笑顔になって、全員が渦のように動いている。
作業はとっても大変なのですが、みんなすがすがしく楽しそうな表情をしているなあと思って見ていました。
ボソボソッと話す言葉の中に、「どう生きるか」が詰まっている
――前田さんにとって、矢野さんはどんな存在ですか。
前田 矢野さんとの出会いの前に、私の人生を変えた大きな出会いがありました。それが料理家の辰巳芳子[2]さんです。2003年に創刊した環境問題をテーマにした雑誌『Lingkaran(リンカラン)』[3]に編集者としてかかわったのですが、私がどうしても連載をお願いしたかったのが辰巳さんでした。
辰巳さんのレシピには「どう生きるべきか」が詰まっていて、里芋の扱い方一つとっても科学的で哲学的。一つのことに深く向き合うと、世界の中心から裏側まで突き抜けるのだと感じました。その辰巳さんがおっしゃっていたのは、物事を机上で考えてもしょうがないということ。手足と五感を使って考えないと本質にはたどり着けません。
それと同じことを矢野さんに感じたのです。矢野さんが小さな声でボソッと話す中に世界の理(ことわり)がある。自然のことを言っているのだけど、自然のことだけじゃなくて、「いかに生きるか」を表しています。自然を守るために必要であれば依頼主とも闘うし、完成日ギリギリでも作業を止めないし、ご自身の生き方として貫いている。だから、周りの人たちはちょっと大変なんですけどね(笑)。
――前田さんは、この映画の監督・撮影・編集を手掛けました。それまで映像制作の経験はなかったそうですが、なぜ映画という手段を選ばれたのでしょうか。
前田 きっかけの一つに、映画『六ヶ所村ラプソディー』(鎌仲ひとみ監督)[4]があります。辰巳さんが烈火のごとく怒っていらしたのが青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場のことでした。「いのちの海に放射能を流してはいけません!」と。それを聞いて私が慌てて見に行ったのがこの映画で、衝撃を受けました。原子力政策の問題が全部詰まっていて、最後は「あなたは何を選択しますか?」と問いかける。
仲間を募って自主上映会を開催したら400人近い方が見に来てくださって、みんなで感想を分かち合った。その時、ドキュメンタリーの力を実感したんです。だから、矢野さんの 自然を見る目、治す手法を伝えるのも、書籍よりも映画だろうと思いました。
自分の中に映像に対するあこがれもあったのですが、まったく経験がなかったので「自分にできるだろうか」と迷っていた時に、「前田さんならできる。思いは技術に先行します。私がサポートしますから」と背中を押してくれたのが『祝の島』などを作られた映画監督の纐纈あや[5]さんでした。それで映像制作ワークショップにも通って撮影を始めました。
「大きな土砂災害が起こる」という心配が現実のものに
――映画では、個人宅の庭やお寺の造園だけでなく、豪雨による土砂崩れなどの被災地での矢野さんたちの活動のようすも取り上げています。
前田 撮影を始めたのは2018年5月でしたが、最初は1年かけて四季折々に矢野さんのやっていることを撮るつもりでした。それで鹿児島県の屋久島や福島県三春町の福聚寺などについて行っていたのですが、そうしているうちに7月に西日本豪雨があったのです。その時に思ったのは、「ああ、起きてしまった」ということ。
実は、2014年に矢野さんに初めて会った時に、「大地が詰まって呼吸不全に陥っているから、いまに大きな土砂災害が起こる」という警告をされていました。それが撮影を始めてから2カ月後に現実となってしまいました。
――撮影中も、2018年の西日本豪雨、そして2019年の台風19号、21号と、大雨による土砂崩れや河川の氾濫(はんらん)といった災害が立て続きました。
前田 土砂崩れは「大地の深呼吸」というのが矢野さんの見方です。単に雨が多く降ったから土砂崩れが起きるのではなく、人間がコンクリートを張り巡らせたことで起きた水や空気の詰まりを直そうとして起きていると言います。
人間が暮らしている平野はかつての土砂崩れの跡地ですから、こうした自然の循環は昔から繰り返されてきたものでした。けれど、現代になって人工的なもので止めすぎたことで、より大きな「災害」と呼ばれる土砂崩れが起きるようになった。これは映画の中で地理学者の堀信行[6]先生もおっしゃっています。
西日本豪雨のあと、矢野さんたちは被災地支援に行き、熱中症になるような暑さのなか遅くまで作業をしていました。その姿を見たら四季折々の活動を伝えるなんて考えはなくなり、「二度とこういうことが起こらない社会になるよう訴えたい。そのために絶対に映画にしなくちゃ」と思うようになりました。
校庭にある100本の木を守るために地域の女性たちと活動
――『杜人』は2022年4月から劇場公開が始まり、いまは全国で自主上映会が続いています。現在のご活動についても教えてください。
前田 この映画は、北海道から沖縄まで全国46の劇場で上演していただきました。自主上映会もこれまでに300会場以上で開催されています。
そのなかで今年1月、埼玉県本庄市の自主上映会でいっしょにトークをした人から、地元の小学校にある樹齢150年ほどのケヤキが伐採されそうなので守りたいという話を聞きました。そのケヤキは結局、みんなが声を上げたことで枝を剪定(せんてい)したあとに新芽が出たら残してもいいということになりました。
国立市でも国立第二小学校の改築にともなって、校庭にある樹木160本のうち約100本を伐採する計画があったのですが、この出来事を機に「やっぱりこれは放ってはおけない」と思いました。そこで、同じ思いの地域の女性たちで集まって、伐採から木を守る「~つづく つながる~くにたちみらいの杜プロジェクト」を立ち上げました。
――伐採予定だった木々を救出して仮移植されたのですね。
前田 矢野さんにも協力していただいて国立市教育委員会と協議を重ねたところ、ゴールデンウィーク(GW)明けに伐採される予定だった約40本のうち、GWの間に仮移植ができた木は伐採せず残してもいいことになりました。それでGW中に約40本の大救出作戦を行うことになったのです。
急にもかかわらず、「大地の再生」の関係者、それから造園組合を通じた呼びかけで、本当にたくさんの職人さんが木を救うために各地から毎日集まってくれました。
GW中に救出できなかった木は伐採されることになっていたのですが、最終日の午後、「もう時間がないからあきらめるしかない」とみんなが思っていた最後の1本を、時間ギリギリで矢野さんが堀り出した時は、まるで映画のようでした。
――資金はクラウドファンディングで集めていました。
前田 交渉のなかで、この救出や移植にかかる費用は私たちプロジェクトで負担することになったのです。そこでクラウドファンディングで資金を集め、そのリターンとして、このプロジェクトの記録映像を作り、エンドロールにお名前を載せることにしました。
救出した木々は猛暑を乗り越え、けなげに息をしています。ただ、これらの木々をどれだけ校庭に戻せるのか、新たな壁にぶつかっています。世話をすれば倒れてきたりはしないはずですが、それでも老木であることを危険視する声もある。せっかくつないだいのちを全うさせるのか、厄介物にするのか。岐路に立たされています。
また、600万円以上の寄付が集まったものの、実際にかかった経費は1400万円ほどになる見込みで、残りをどう集めるのかも今悩んでいるところです。[7]
もの言わないいのちへの鈍感さは、すべてのいのちへの鈍感さに通じる
――東京・明治神宮外苑地区の樹木伐採でも大きな反対の声が上がりましたが、再開発にともなって同じような問題が各地で起きています。
前田 古い木を伐採しても新しい木を植えればいいじゃないかと思うかもしれませんが、大きな木の果たしている役割を若木がすぐに担うことはできないと矢野さんはおっしゃっています。
大きな木は木陰を作ったり、二酸化炭素を吸収したりするだけじゃなく、周辺の空気と水を循環させて天然のラジエーターになっている。その役割を若木が成長して担えるまで待てるほど、今の地球には余裕がありません。
猛暑から子どもたちを守るためにも、校庭の大きな木は大切な存在。自然の価値をもっと理解していかないと、この先人間は生き抜いていけません。
――自然とともに生きていくために、私たちはどんなことを意識したらいいのでしょうか。
前田 この映画をきっかけに、自分の周りの木や流域、庭について気にかける人が増えていて、すごくうれしく思っています。もの言わないいのちへの鈍感さは、すべてのいのちへの鈍感さに通じるもの。木が切られることに痛みを感じなくなったら、人間は動物としておしまいではないでしょうか。
私は、辰巳さんや矢野さんが誰に対しても公平で平等に接する姿を見てきて、すごく尊敬しています。それは人だけでなくて、野菜に対しても、虫に対しても同じ。そういう姿勢で世界に接しようと思ったら、海のいのちに迷惑をかけるようなごみを出したり、洗剤を使ったりできないし、選ぶ食べ物だって変わってくると思います。私たちにできることは、まだまだたくさんあるはずです。
――編集者から市議、そして未経験での映画制作と、新しいことにどんどんチャレンジされている前田さんの姿勢にも励まされます。
前田 国立市で仲間たちと原発や再処理工場に反対する活動をしていたのがきっかけで「選挙に出ないか」と声をかけていただき、市議になったのは49歳の時です。政治の世界に入るなんて考えたこともなかったのですが、「自分にできることがあるなら」という気持ちで飛び込みました。
2014年、矢野さんと出会うきっかけになった桜並木の伐採の話が出た時は、正直言うと最初はあまりピンときていなかったんですよ。周りの人たちが「それはおかしい!」と声を上げてくれたことで、はっとしました。それが矢野さんとの出会いと映画制作につながった。ですから、いつでもだれでも気づいた時から動き始めればいいのだと思います。
国立二小のプロジェクトのように、動き始めると同じ思いの人たちが集まってくるし素晴らしい出会いがあります。ぜひ皆さんも自分の関心のあることにどんどんチャレンジしていってほしいと思います。