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写真=持城壮(写真工房坂本)

「人生100年時代」をどう生きる? 最高齢ラッパーがめざすのは、99歳までステージに立つこと

  • 暮らしと社会

昨年の厚生労働省の調査では、100歳以上の高齢者は、全国では6万7,824人。老人福祉法が制定された1963年には、たった153人だった。今後もその数は増え続けると言われており、「人生100年時代」の到来が現実味を帯びてきている。では、長い高齢期をどう生きるのか。84歳で最高齢ラッパーとして注目を浴び、米寿でメジャーデビューした歌手、坂上弘(さかうえひろし)さんは、今年97歳。人生100年時代を先取りするかのように今もステージに立つ坂上さんを、ひとり暮らしのご自宅に訪ねた。

2年後のオリンピックまでは

 「あれ? パルシステムっていうから生協の商品を広めてくれって話かと思ってたよ」と、カメラマン同行の取材に少し慌てた様子の坂上さん。CDジャケットの写真やYouTubeの動画から想像していたより、柔和にしてナチュラルな雰囲気の方だ。「眉毛ぐらいかかなくちゃ。かつらかぶらなくていい?(笑)」とおっしゃるのだが、「いえいえ、そのままが素敵です!」。

 「『百まで生きる?』という企画でして」、と改めて伝えると、「ああ、なるほど! 百までは生きるよ。事故でもない限り。問題はそれ以後だと思ってますね。2年後のオリンピックまではやってみようかと言ったりしているんです。それが99だからさ。百まではどうかな。もう百になればステージはやめて…。CD出すのはちょっと遅かった。10年以上遅かったね」。

 坂上さんは、73歳で自主制作のカセットテープ『交通地獄/恋しのアンヂェラ』を発表。その後、のど自慢優勝をきっかけに音楽関係者のすすめで『交通地獄そして卒業』をインディーズでCD化したのは、84歳のときだ。史上最高齢のシンガーソング・ラッパーとしてたちまち注目されるようになり、米寿で発表したアルバム『千の風になる前に』でメジャーデビューを果たした。

坂上さんのアルバム『千の風になる前に』(左、2009年)と『交通地獄そして卒業』(2005年)(写真=持城壮)

 「テレビのほとんどのチャンネルに出ましたよ。ヴァイオリニストの川井郁子さんの番組では、『千の風になって』を一緒に歌ったんです。『恋しのアンヂェラ』(自作のラブソング)も。みんな拍手拍手だったよ」

 坂上さんの2枚のCD『千の風になる前に』と『交通地獄そして卒業』には、作詞作曲を自身で手がけたラップもあれば、「人にやさしく」(甲本ヒロト作詞作曲)や「卒業」(尾崎豊作詞作曲)などのカバー曲もおさめられている。学校の窓ガラスを壊してまわったなんて下りがある「卒業」の詩が、坂上さんが歌うと違和感なくずんずん届いてくることに驚かされる。  そんな感想を坂上さんに告げると、「あれにものってんだよ」と、スマホを取り出し、ささっと「マイミックスリスト」の画面を出してくれた。すごい、スマホを使いこなしていらっしゃる! すぐに、「卒業」が部屋に流れはじめた。「これはフジテレビのスタジオで歌ったんだ。この時は最高によかった。これ(スマホ)があるから本当にうれしいよ、はっはっはー(笑)。なんだかんだ言っても、訊かれたら『ここに入っているよ』と人に言える。本当にありがたい」

写真=持城壮

満州でトランペットに出会う

 坂上さんは、大正10年(1921年)、佐賀県嬉野市生まれ。生家は、陶土製造業を営み、天草から仕入れた陶土を塩田川の水力で砕いて、有田に売っていた。これからは工業の時代だからと、佐賀工業学校機械科に進み、卒業後は、満州の会社に就職する兄について満州に渡った。もう戦争が激しさを増し始めた昭和15年のこと。坂上さんも、半官半民の満州炭鉱に職を得た。

 「よかったよ。生活は楽だった。入社式に会社のブラスバンド部の音楽が鳴るんだよ。いい音するなあと思って。ちょうどトランペットに空きがあるというので、ぜひ入れてくれと言って参加したんです。工業学校のときに、進軍ラッパを吹いていたからね。トテチテタッタッターって」

 3年後には、新京交響楽団の合唱部門創設に伴う入部テストに合格。「それからは、コーラスもずっとやって。会社の昼の休憩は1時間あって、終業時間も4時だったので余暇がたっぷりあったんです」

 終戦後、トランペットが役に立ち、坂上さんの生業になった。

 「米軍のEMクラブ(兵隊用)や、オフィサーズ・クラブ(将校用)のジャズバンドで吹いていました。待遇はよかったよ」。ジャズの大御所、菊池滋弥さんのバンドでは、渡辺プロダクション創業者の渡辺晋さんと一緒に仕事をしていたそう。ジャズ学校でトランペットを教えていたこともあり、その頃の生徒には、まだ小学生だった日野皓正さんもいた。

「オペラ」、「テノール」、「歌曲」、「カラオケ」…とタイトル分けして整理されたカセットテープがたくさん(写真=持城壮)

 ラッパ吹きをしながら、奥さんと一緒にバーの経営もしていたが、昭和32年(1957年)に結核になり、一時音楽活動を中断する。幸い抗結核薬が登場したころで、長く患うことなく退院でき、「そのときに歌に転向していればよかったのに、またラッパを吹いたんだ」。

 ビートルズの来日(1966年)で、日本のキャバレーの音楽が変わってしまったと嘆く坂上さん。「あれ、革命ですよ。それまではジャズのフルバンドはサックス4本、トランペット3本、トロンボーン2~3本が常識で。ところがビートルズは4人。第一経費が安くなったじゃない。キャバレーがなくなっちゃって。それで、歌い出したんです」

遠縁の娘さんに一目ぼれして結婚したのは昭和20年。右の割烹着姿の女性が、早くに病気で亡くなった奥様。美しい方だ。「ミス長崎になったんだ。バーは女房に任せきりで、ラッパ吹いてました」(写真=持城壮)

今も発声練習は欠かさず

 明るいテノールの声が特徴の坂上さん。部屋の真中には、発声練習のためのキーボードがおいてある。「音程だけはしっかりしていないと。指が動かなくなっちゃってさ。何もほかは弾けないけど、発声練習ぐらいならさ。本当は毎日やんないと声が出なくなっちゃう。でも、今は週に1度ぐらい」

 「何か歌ってみていただけますか?」とお願いすると、キーボードを弾きながら坂上さんが歌い出したのは、ラップでも歌謡曲でもなく、「Tristezza(トリステッツァ:悲しみ)」。哀調を帯びたイタリアの歌曲だ。

 「いい曲だよね。こう言っちゃなんだけど、やっぱり今の人たちの発声は、こう『あーあーあー』(と、やってみせてくれる)。俺はそれが気に食わないんだけど、それをひとりでガタガタ言ったってしょうがない」と、今度は「あーあーあー」と見本を披露。「(最後を)下げないの。上にひいているでしょ。俺は満州でいい先生についたの。上野耐之(たいし)といって、イタリアに行ってきた先生。この人がコーラスの指導にいらした」

写真=持城壮

 「それからこれを歌わなくちゃと思ってるんだ」と坂上さんが取り出したのは、「知床旅情」(森繁久弥作詞・作曲)の譜面だ。

 「新京から引き揚げてきたときに“ころ島(とう)”で2週間ぐらい使役をしていて、そこで森繁さんにいろいろ面倒みてもらったんです。お世話になったのに、30年もぼさっとしてしまったけど、この歌をなんとかして歌わなくちゃと思ってね」

 当時、森繁さんに俳句の会に連れていってもらったこともあり、そのときに2席に入った俳句が「俘虜の我 大夕焼けの 野に立てる」。「いいでしょ。満州の夕日が大きく見える」。時に目を閉じて、知床旅情を歌い上げる坂上さん。ビブラートをきかせた歌唱法は、森繁さんとも違う坂上ワールド。いつまでも耳に残る。

 歌が本当に好きで、カラオケにはよく行くけれど、お酒は一滴も飲まないそうだ。「やめるのに10年かかった。ははは(笑)。大変だったよ。ビール2本ぐらいだったけど、夕方になると飲みたくなるんだ。やめられたのは、やっぱり歌をやるから。喉のため。それが第一だ」

坂上さんは、週2回のデイサービスの行き来には送迎車に乗るが、ふだんは、自転車を愛用している(写真=持城壮)

発表を待つラブソング

 今も曲作りはなさっているのだろうか。  「それは、なかなかね。ひとつはあるんだ。誰か若い人に歌ってほしいと思って。10年ぐらい前の松島の恋愛を書いている歌なんだけど、大震災が起きたのに何やっているんだと言われても困るから。でも、もうそろそろいいかなと思って」。追悼の歌と組み合わせてみてはどうだろうと、発表方法に頭をひねる坂上さん。

 その曲、「夢の松島」には、こんな一節が。

素敵な貴女(キミ)と出会った時の嬉しさで
僕の心は躍っている
“貴女と僕とのスヴェニール
夢の夢の松島”

 「この曲をつくられた頃に、彼女がいたりしたんですか?」……「いたような、いなかったような(笑)。けっこうね(恋愛は)あったんだけど。僕はやっぱりくじの引き方が悪かったんだ」。ちなみに前掲の「恋しのアンヂェラ」は、実在のモデルがいて、羽田から飛び立ってしまったアンヂェラさんとの別れが織り込まれている。

写真=持城壮

 坂上さんは満州時代に現地で2度召集されているが、工業高校出の技術のおかげで大砲の処理班などに配属され、前線に行かずに済んだ。「だから助かったんだよ。運命の分かれ道だね。満州はおもしろかったよ。いい思い出だ」

 佐賀工業在学時に、アメリカに視察に行ってきた校長先生から、日米の圧倒的な工場設備の違いを聞かされていた坂上さんは、「この戦争勝つかな」と懐疑心を抱いていたと言う。「案の定、『大東亜』と言って、(戦争の場を)広げ過ぎたよね。3月10日は東京大空襲だけど、あのときに降伏すればよかったんだよ。ばかたれが! 本当に」と、このときだけは声を荒げた坂上さんだった。

 「中国も変わっただろうな。縁があったら満州にもう一度行ってみたいです。歌はまだこれから練習して、もう少しいい声にせな。やりますから」

取材・文=山木美恵子 写真=持城壮(写真工房坂本) 構成=編集部