“常識外れ”だった茶の有機栽培
鹿児島県は全国で静岡県に次ぐ茶の栽培面積を誇る名産地(※)。中でも南九州市は「知覧茶」の名で知られる知覧町のある茶どころだ。市内に入り、地元で「開聞さん」と親しまれる開聞岳(かいもんだけ)を目指して南下していくと、周囲はあっという間になだらかな山形のカーブを描く茶畑に囲まれる。その茶畑に埋もれるように工場を構えるのが「塗木(ぬるき)製茶工場」。生協パルシステムが産直提携する産地「うまか有機銘茶会」の生産者が所属する工場だ。
塗木製茶工場には、16戸の生産農家が所属。出荷用の茶葉を栽培するおよそ40haの茶畑すべてが有機JAS認定を取得している。
今でこそ知名度が高まり、安全性への信頼が付加価値となっている「有機栽培」。しかし、ほんの20年ほど前までは、農薬や化学肥料を国が認める範囲内まで使用する「慣行栽培」が当然とされ、「有機」のやり方はもちろん、その意味すら浸透していなかった。
そんな時代に、有機栽培の中でも難関とされる茶の有機化に挑戦したのが、南九州市頴娃(えい)町の農家、藤﨑悟さんだった。
※:農林水産省・作物統計 面積調査「平成30年耕地面積」より。
食べ物を作るために、食べられないものを使っていいのか?
藤﨑さんはある時、「食べられないもので食べ物を作る」ことに疑問を持ったという。茶に使用される化学合成農薬は使用回数や使用時期が制限され、さらに散布の際にはマスクやメガネといった防具が推奨されている。誤飲すれば中毒を起こすおそれもあるものだ。
「以前は私も慣行栽培をしていたんですよ。ただ、口にしたら危険なものを食べ物にまくのってそもそも変でしょう? そんな当たり前の疑問が有機栽培を始めたきっかけです」(藤﨑さん)
おいしい茶を作るには、茶葉に味をのせるために十分な栄養が必要。その栄養が害虫まで引き寄せてしまうことから、味がよく見た目もよい茶を作るため、化学合成農薬と化学肥料の併用は必須とされてきた。
同業者で有機栽培を行っている人はおろか、それがどういったものかを知る人すら少なかった当時、知り合いの養豚農家が作っていた発酵肥料にヒントを得て始めた、有機質の肥料(ぼかし肥料)作り。そんな藤﨑さんの姿に、周囲は一様に白い目を向けたという。
「『売れるわけない』『何でそんな面倒なことやるんか?』と陰でたくさん言われましたわ。面と向かって笑うやつもおった。ただ、笑いたいやつには笑わせておけと思ってね。今のままの農業じゃだめになる。必ず、有機の時代が来ると信じていました」(藤﨑さん)
今思えば、半ば意地になっていた、と振り返る藤﨑さん。農薬を使っていないため「藤﨑の茶には虫がいる」と、やゆされることも。そんなときには「私の畑は虫を飼っとるんじゃ」と返す。口では強がりながらも、実情は虫が原因で畑が全滅。深く落胆することも……。まともに収穫できるようになるまでには想像を超える年月がかかった。
有機の茶がうまい!? 広がる有機栽培の取り組み
塗木製茶工場の社長、塗木裕一郎さんは現在43歳。パルシステムと産直協定を結んだ2018年に父親より経営を継いだ、新米社長だ。
茶農家の4代目なので生まれた時から茶は身近にあったが、だからこそ、さほど茶業に関心を抱いていなかったという。
「高校を卒業して、普通に企業に就職しようと思ったら、あと2年勉強してからにしろって親父が言うんでね。言われるがまま行った先は静岡の茶の試験場だったんです。随分だまされました(笑)」(裕一郎さん)
帰郷したのは約20年前。ちょうど藤﨑さんの有機栽培の取り組みが、個人的なものから工場を巻き込んだものへと発展を見せ始めていたときだ。
「戻ったら、慣行栽培だけでなく、有機栽培なんてものができていて。正直、あのころは栽培方法なんて関係なく、作れば作るだけ売れた時代だったので、何でこんなことをしなけりゃならんのか、というのが第一印象でした」(裕一郎さん)
きっかけは、裕一郎さんの叔父で、茶農家でもある故・塗木実雄(じつお)さん。寝ても覚めても茶のことばかり考えている自他共に認める“お茶ばか”だったが、ある入札会で藤﨑さんの茶を飲み、衝撃を受けたという。「有機茶(=まずい茶)」という思い込みを持たずに口にしたそれは、実雄さんが慣行栽培で作った茶よりもおいしかったのだ。
40haの畑をすべて有機栽培に! ぼかし肥料に未来をかける
その時の話は「叔父さん(実雄さん)から嫌になるほど聞いた」、と苦笑いする裕一郎さん。茶の味で自分が負けたと感じたのは初めてだったと、毎回興奮しながら話してくれたという。
うまくて、安全で、安心――。
今まで有機など選択肢にもなかった製茶工場に、40haの畑すべてを有機栽培に転換させるほどのインパクトを与えた、藤﨑さんの茶。これからは有機の時代だと、右も左も分からない道に飛び込んだ。
もちろん、経験や前例のなさから、有機栽培への転換にしり込みする生産者もいた。
「そんな時は叔父さんがワーッと相手の家まで行って、押して、押して、押して、相手が『うん』と言うまで話し続けるんです。あの強烈な情熱とパワーがあったから、自分たちはいち早く有機を進めることができました」(裕一郎さん)
有機栽培の師でもあり友でもある藤﨑さんは実雄さんの姿を思い返し、「私以上に発酵の世界に入れ込んでいったね」と目を細める。
有機栽培の根幹となるのはずばり、土作りだ。化学肥料を用いる慣行栽培と違い、100%自然由来の素材の組み合わせで、茶が必要とする養分を与えなければならない。各素材にどのような成分が含まれているか、コンマいくつの値まで計算していく。窒素、リン酸、カリウム、亜鉛……もはやこれは数学や化学の領域だ。
「中でも“ぼかし肥料(発酵肥料)”は絶対手を抜けない。米ぬかや、菜種のカス、魚粉など、食品副産物を混ぜ合わせて発酵させるんです。これが土をふかふかにして、茶葉にうまみをのせます。土作りが、有機栽培の心臓です」(裕一郎さん)
温度、手触り、湿りけ、におい。わずかな違いが茶の木の生育に影響を及ぼすため、ぼかし肥料作りには五感をフル活用する。まして工場では、40ha分すべての肥料を一手に作っている。16戸の農家と、その家族の生活まで背負っているプレッシャーは想像するにも恐ろしい。
5年やそこらの目先の話ではない、10年後、15年後を考えんと――実雄さんのその覚悟の一言が、塗木製茶工場の今を形づくったのだ。
進む作り手の高齢化。これから先、茶で生きていくために
畑全体の有機栽培への転換を終え、JAS認定も得た今、社長2年目の裕一郎さんにのしかかる問題は、生産者の高齢化だ。この1年の間にも1戸の生産者が亡くなり、その子は長く畑を離れて別に職を持っていたため、残りのメンバーで分業して栽培を続けている。
「茶農家は冬に仕事がない。 4月に一番茶(新茶)を取って、5月に二番茶、9~10月の秋冬番茶を終えたら、次の春まで収入がないんです」(裕一郎さん)
茶価も昔と比べれば大きく下がり、通年給料が出せるわけでもない。こういった条件で後を継がせたいと考えない親の気持ちは「分からなくはない」と裕一郎さん。まして、新規就農を考えている人には高いハードルだろう。
実は今も、冬場は野菜を作っているメンバーがいる。それはつまり、茶だけでは食べていけないということ。これでは興味があってもなかなか手を出せない。
「それでも、やってみたいと手を挙げてくれた人はいるんです。その思いにこたえたいから、例えば冬は抹茶を作るとか、野菜作りをいっそ工場のほうで管理するとか、通年できる仕事を考えるのに必死です。まあ楽なことはないけど、自分はサラリーマンをするより楽しいと思っていますから。絶対に茶業を廃れさせたくないんです」(裕一郎さん)
これからどうなるかは若い人にかかっている、と藤﨑さん。
「20年前まで、有機なんてのは変わり者しかやっていなかった。それが今では当たり前になった。じゃあこの先はどうなるのか。有機栽培をただ続けていけばいいのか。そうじゃないでしょう」(藤﨑さん)
ほんの数年前まで、知覧町の有機茶といえば塗木製茶工場、という状況だったが、その成功を見て、瞬く間に周りの茶工場も追いつけ追い越せと有機栽培を始めている。
「工場の未来を考えるなら、同じことをしていたってだめ。社長(裕一郎さん)たちがどうしていくか、楽しみにしているよ」と、藤﨑さんは発破をかける。
対する裕一郎さんは、「うちの茶はもっとうまくなるはず」と意欲を見せ、続けた。
「世の中には、うまいだけの茶ならいくらでもある。自分たちは有機でそれを超えていかなきゃならない。化学肥料と違って、自然素材のぼかし肥料は作り手の工夫次第ではっとするほど味が変わります。今年と来年の茶は同じじゃない。だから茶は面白いんです」(裕一郎さん)